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京都府京都市東山区 清閑寺

Seikanji,Higashiyamaku,Kyoto city,Kyoto

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Jan.22,2017 中山辰夫

京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3

将軍塚青龍殿を訪れた後、知り合った人の誘導で、清水山経由で清閑寺を訪れた

この一帯は市街化調整区域、風地区域、歴史的風土特別保存地区、保安林と様々な規制が張り巡らされ、整備されている

歩いたルートは京都一周トレイルのコースで、比較的歩きやすく、途中多くのハイカーに出合った

清閑寺までの大まかな行程を並べる。

将軍塚〜清閑寺までは約35分間のぼり下り

将軍塚大日堂から少し歩くと東山山頂公園、その近くに展望台がある。京都市内を見るスポットであったが、青龍殿大舞台からの眺望の方がよく見渡せる

展望台〜コース図

        

下山途中

            

清水山—三角点 清水寺境内から見た山頂

    

清閑寺ルートの近辺

    

清閑寺

ルート案内

  

山号:歌の中山 宗派:真言宗智山派 本尊:十一面千手観音 創建:802(延暦21)年 開基:紹継 中興:996(長徳2)年以前 中興:佐伯公行

紹継法師が天台宗の寺院として創建した。往時は、清水寺と並ぶほどの大寺院であったが、応仁の乱の兵火で焼失。慶長年間(1596〜1615)に真言宗寺院として再興された

高倉天皇の寵愛をうけた小督局(こごうのつぼね)が平清盛によって尼にさせられたと伝えられる寺院(『平家物語』)

六畳天皇清閑寺陵と高倉天皇陵

     

山裾の地道を進み、石柱の案内通りに参道を登ると左側にある。

六条天皇は後白河法皇の孫 2歳で即位したが後白河法皇によって2年半で退位させられ叔父の高倉天皇に譲位した 13歳で崩御

高倉天皇の父は後白河法皇 母は平清盛の妻・時子の妹・滋子 中宮は清盛の娘・徳子 安徳天皇に譲位した後、病に倒れ崩御した

遺言により小督局のいる清閑寺に葬られたとされる

山門

     

本堂

     

鐘楼と茶室「郭公亭」跡

     

1991年(平成3年)まで鐘楼堂の上方にあった茶室「郭公亭」は、幕末に西郷隆盛と清水寺成就院の月照上人が密談した場所

宝篋印塔

    

本堂前の2基の宝篋印塔は、左が小督局、右が紹継法師の供養塔とされる 小督局(こごうのつぼね)は藤原成範の娘 高倉天皇に仕え、範子内親王(はんしないしんのう)を生んだが、平清盛によって清閑寺で出家させられ、この地で生涯を終えたとされる。小督局は高倉天皇の後宮、中宮は平清盛の娘・婚礼門院

要石(かなめいし)

      

『 願いあらば あゆみをはこべ 清閑寺 庭に誓いの 要石あり 」(よみ人しらず)

石垣に囲まれた大きな石の前に立つと、京都の街が扇をひらいたような角度で眺望できることから、、石が扇の要にあたるとして要石と呼ばれた

清閑寺窯

 

京陶器の起源は、聖武天皇の代に、清閑寺の寺領に 窯を築いて土器を焼いたことに始まるとされる。名工野々村仁清の師・宗伯はこの寺の僧で、陶工として著名であったとされる。この清閑寺窯が南北朝時代に清水焼となり、続いて粟田焼が生まれこのふたっつの流れを軸に京焼に発展した

黒田清輝・与謝野礼嚴

   

清閑寺から清水寺までの約500mは「歌の中山」といわれ、花と紅葉の名所として知られていた 花鳥風月に恵まれ所で、文人・歌人の詩歌の諷詠地であった

清水寺の門を入ると、すぐに国重要文化財の子安塔が目に入る

 

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