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京都府京都市左京区 赤山禅院

Sekizanzenin,Sakyoku,Kyoto city

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Feb.3.2018 中山辰夫

京都府京都市左京区修学院開根坊町18

宗派:天台宗 本尊:泰山府君(赤山大明神)開創:888(仁和4)年 御神体は唐冠をかぶり、朱色の唐服を着て、笏をもつ。

赤山禅院(せきざんぜんいん)は、修学院離宮の北隣にある天台宗の寺院。延暦寺の別院(塔頭)の一つ。

京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たるため、方除けの神として、古来信仰を集めた。

拝殿の屋根の上には、御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。

禅院と名付けられているが、鳥居があり、拝殿があり、御神灯があり、御神体を祭る社殿がある。明治初期の神仏分離政策に対するためで、「明神」なら神社であるが、「禅院」なら寺として残れるためとされる。

赤山明神は慈覚大師が円仁が中国の赤山にある泰山府君を勧請したもので天台宗の守護神である。

比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。

これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。

紅葉の名所でもある。

修学院離宮に向かう道の途中を左折する

 

鳥居〜山門〜参道〜社殿

          

鳥居の額は後水尾天皇による勅額 秋には紅葉のトンネルになるとk

境内図

   

「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。

その遺言により安慧が、赤山大明神(泰山府君)を勧請して建立したのが、赤山禅院である。

拝殿

     

階段を上がると正面に見える。

屋根の上には、鬼門除けの猿。危機を去るということ。御幣とかぐら鈴を持ち、京都御所を守護している。夜逃げ出さないよう金網の中に入れられているとされる。赤山大明神は山王日吉大権現と共に叡山の守護神であり、日吉の使者が猿であることと無縁ではあるまい。

庫裏

     

本殿

          

本殿には本尊の赤山大明神が、皇城表鬼門の鎮守としてまつられている。赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を、慈覚大師 円仁の遺命により勧請したもの

正法誦

    

地蔵堂

         

赤山大明神は、地蔵菩薩の化身であるとされ、そこで赤山禅院には地蔵菩薩をまつるお堂がある。

出世弁才天

     

日本では古く奈良時代から仏として信仰され、また七福神の一神としても知られている。赤山の弁財天は「出世弁財天」として信仰されている。

十六羅漢と三十三観音

      

福禄寿殿(都七福神)

      

御龍籠堂

      

金神宮〜相生社〜歓喜天

       

雲母不動堂(きらら)

         

比叡山延暦寺と赤山禅院を結ぶ雲母坂(きららざか)にあった雲母寺(うんもじ)の本堂と本尊・不動明王が移されたもの。

雲母寺は、平安時代に、千日回峰行の創始者・相応和尚が開いた寺院でしたが、明治に入って廃寺となった。

不動明王像は、伝教大師 最澄の作とも伝えられる。

現在も不動堂では、伝統に則り、大阿闍梨が護摩供を行っている。

参考 雲母寺跡 

  

比叡山登山口の左横に石碑が立つ。

雲母寺は元慶年間(877〜84),相応(831〜918)が開いた天台宗の寺院。延暦寺に属し本尊に不動明王を祀った。

不動明王像は、伝教大師 最澄の作という。

明治に入り廃絶。この石標はその跡を示すものである。なお,当初は山中に建てられていたが、1993(平成5)年に現在地に移建された。

雲母寺の本堂(雲母 不動堂)と本尊・不動明王は赤山禅院に遷され、境内の雲母(きらら)不動堂に不動明王 を安置している。

鎌倉時代作とされる石仏は禅華院に安置されている。

阿闍梨が千日回峰行で使った草履

    

千日回峰の行者は800日目に赤山で苦行する。

還念珠

    

2度、大きな珠数をくぐる。

参考

赤山禅院は「へちま加持」によるぜんそく封じや無病息災、集金の神として町の人に信仰されている。

へちま加持

まず雲母不動尊に護摩が焚かれ、比叡山で千日回峰を果たした大阿闍梨によって、「へちまの御牘 ふだ」と信者に加持が行われ、後にぜんそくを封ずる「へちま加持」の作法が詳しく説明される。

この加持された「へちまの御牘」をうけて持ち帰り、作法通り三年続けると、ぜんそく花割るとされる。

掛け取り=集金のご利益

一年のうちでも、めったにない「申の日」の五日に赤山禅院に参ると、吉運に恵まれるという伝承があり、江戸時代に赤山禅院は掛け取りの神様という噂が立つようになった。そこから五日講の縁日参りをしてから集金に行くことが行われて、五や十の付く日に集金する「五十払い」の風習が起こったと寺では伝えている。

天台密教の創設者というべき円仁は、足掛け十年にわたる中国・唐に滞在中に二度危機に立った。

新羅人の援助を受けて帰国できた円仁は感謝の思いを赤山禅院建立で表そうとした。

円仁の生存中には果たせなかったが、遺言により円仁死後の888(仁和4)年に弟子たちにより宿願が果された。

こうした経緯から、鑑真や空海が日中友好に尽くした人と評価されるように、赤山禅院は日韓親善を記念する寺院として、もっと深い尊敬を払われるべきとの考えもある。


November 20, 2013 大野木康夫 source movie

紅葉の盛り少し前の赤山禅院、モミジにイチョウ、寒桜と色とりどりでした。

                                                                


Nov.2010 瀧山幸伸 source movie

A camera

                                                     

B camera

                                                  

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