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京都府京都市西京区 千光寺

(Senkoji,Nishikyoku, Kyoto City, Kyoto Pref.)

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May 2013 中山辰夫

大悲閣千光寺

京都市西京区嵐山中尾下町62

角倉了以とその一族とのかかわりを訪ねる旅

宗派:黄檗宗

本尊:千手観音

大堰川右岸から見た左岸の風景

嵐山の渡月橋南詰から保津川上流へ川沿いに約1km遡ってゆくと大悲閣千光寺へ登るつづら折りの石道となり、約100m続く。

2009年12月12日に「星のや京都」となった旧嵐峡館の山側である。

車も途中までしか入れないかなりアップダウンのきつい山道。だが秋の美しさをうかがわせる紅葉が枝を広げている。

大悲閣千光寺は、当初は天台宗、その後黄檗宗となり、本尊は恵心僧都作と伝える千手観音。

もと清涼寺の西方中院にあって後嵯峨天皇の祈願所であったが長らく衰退していたのを、1606(慶長11)年に保津川開削に成功した角倉了以が同19年に現在地へ移し大悲閣(本堂)を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山とした。

千光寺は、多くの河川開発工事を行なった了以が、これに協力した人々の菩提を弔うために建立したとされる。

晩年は、この大悲閣に隠棲し、開削した諸川の通船の便益を念じたとされる。角倉了以は1614(慶長19)年に亡くなった。

了以は天台宗を奉じていたが、子孫の角倉玄寧が1808(文化5)年に大?を迎えて再興したとき、寺は黄檗宗となった。

寺は明治維新の際、大悲閣を除き、境内、山林、什宝等多くを失ったが、大悲閣は屋根が飛び、建物自体もゆがんだ。

明治になって寺地を拡張し、漸次諸堂も整備された。

1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風での被害は大きく、大悲閣は屋根が飛び、建物自体もゆがみ、千光寺本堂は1978年にやむなく解体した。

ご本尊の千手観音菩薩は、その後建てられた仮本堂に安置され、現在に至っている。

千光寺まで約100mの石段道を登る。

境内

京都新聞報道

客殿

了以、400回忌を前にして改修された。江戸期隆盛だった角倉家も、明治・昭和の激しい変動に遭遇、寺も老朽化、荒廃しつつあった。

角倉了以の木像と模像

「巨綱を捲いて座となし、犂(すき)を持って杖となさん」という遺命により造られたとされるが、この木像は了以の激しい気性と不屈の意志を表したものと多くの本に述べられている。

大悲閣千光寺は、了以が保津川工事で亡くなった人々の菩提を弔うために、二尊院の僧道空了椿を中興開山として建立したものである。

客殿からの遠景

嵯峨野は勿論、はるか向こうに京都市街が望める。あいにく黄砂のきつい日であった。

会津八一

≪ うつらうつらに のぼりきて をかのかなたの みやこぞみる ≫

元々そこにあったのは、嵐山で最も古いと言われている旅館「嵐峡館」。

眼下の保津川を見て、難工事であった開鑿工事を思う・

芭蕉の句碑

登り口にある。嵯峨野で過ごした芭蕉も大悲閣を訪れ、一句詠んでいる。≪花の山 二町のぼれば 大悲閣≫

句碑の左手(川側)に大きな建屋が横たわっている。【星のや 京都】である。

元々そこにあったのは、嵐山で最も古いと言われている旅館「嵐峡館」。 この場所は、角倉了以の私邸があった所とされる。

【嵐狭館】という旅館は明治時代にここで開業し、約100年に亘り営業を続けてきたが、3年前から休業した。

2009(平成21)年、新装・星のやリゾートが開業した。

写真は星のやのごく一部分である。

渡月橋から星のやの専用船着場までは船で送迎している。了以も同じく船を使って往来したのであろう。

大悲閣下の保津川は静かな流れである。

了以が大悲閣を建立(60才)する前後は、朱印船難破事故(55才)や幕府から命じられた富士川工事竣工や高瀬川工事着工(58才)があった。

60才になった年には、富士川の改修があり、諸問題勃発できわめて多忙で病気となった。そうした中での大悲閣建立であった。

60歳の7月に没したが、年内には高瀬川が完成した。死の翌年には大坂冬の陣、夏の陣が始まった。

了以の事業は、息子の素庵に引継がれた。

大悲閣千光寺は「角倉了以」を記憶にとどめ、思い起こす重要な拠点として今後も残るであろう。

■■角倉了以とその一族とのかかわりを訪ね旅

京都近代化の恩人とされる角倉了以は、1614(慶長19)年に逝去した。またこの年に京都・高瀬川工事が完成した。

平成26年は記念の400年に当たる。ここで了以を中心に、角倉一族の残した業績と係わりのあった社寺・他をまとめる。

■はじめに

京都が生んだ屈指の豪商である角倉了以とその息子素庵は、大堰川や高瀬川をはじめとする河川開削工事を行ったことで知られている。

物資の運搬をすべて人力・牛馬車に依存していた時代に、河川で船を利用した物流の活性化は畿内一円の経済を発展させ、その後の文化や産業発展の土台になった。

このような大事業が、政治を担っていた武士でなく、一般人が自らの資産と技術を駆使して成功したことの意義が大きい。

これらの大事業について、400年を経過して風化しつつある今、再度思い起こす時であろう。

■角倉家の祖先

了以の祖先は、近江源氏佐々木氏の出で、宇治川先陣争い(1184(寿永3)年)で有名な佐々木高綱の弟、六郎厳秀(いわひで)が近江の吉田の地「現在の滋賀県犬上郡豊郷町」に領地をもらい、吉田姓を名乗った。これが角倉の祖で、角倉姓を名乗るのは後になってからである。

高綱 宇治川の先陣の図 「引用 近江源氏 二巻」

吉田で、地頭となり代を重ねるが、厳秀から数えて九代目の徳春は何か「事」と伝える変化が起こって、本貫の地吉田を応永年間(1394-1428)に出る。

出身地「豊郷

吉田城跡

吉田氏の居館であった吉田城は1571(元亀2)年、織田信長軍に攻められ落城し、跡形もなく焼き討ちされた。

その跡地は、現在も「吉田屋敷」や「城屋敷」と称され、城の中心曲輪に位置するとされる岡村酒造駐車場の一角に石碑が建つのみである。

岡村本家とその周辺

今も吉田集落には旧家が多く残っている。岡村本家は彦根藩から酒造業を許可された。

愛知神社

犬上郡豊郷町吉田1177

〔拝殿〕入母屋造 間口四間 奥行三間 〔本殿〕二間社流造 間口二間 奥行一間四尺

開化天皇の子孫、恵知王によって創建された神社です。平安時代の初め惟喬親王が難を逃れて近江に来られた時、ここで病気になりました。

ここで病気が快復するために神社に御染筆の祈願札と刀剣一口を献上したと伝わります。また、鎌倉時代になると近江守護の佐々木秀義の六男吉田巌秀が吉田城主となりました。

その時、神のおつげで弓術の奥義を授かり、佐々木氏も武神として敬いました。その後、室町時代にはいると戦乱のため焼失しましたが、近くの正覚寺の復興と同時に再建されました。明治以前は春日神社と呼ばれていましたが後、愛知神社に改められました。

≪豊郷町役場情報≫

現在の豊郷町 

旧中山道沿いに人家が並ぶ。豊郷からは薩摩治郎八、伊藤忠兵衛、他多くの近江商人を輩出した。興味一杯の町筋である。

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