京都府京都市東山区 泉涌寺
(Sennyuji Temple, Higashiyamaku, Kyoto)
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京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺開山塔及び開山堂 開山塔 重文 近世以前/その他 鎌倉前期 鎌倉前期 石造無縫塔 19660611
京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺開山塔及び開山堂 開山堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文(1661-1672)頃 正面一間、背面二間、側面二間、一重、宝形造、正面軒唐破風付、檜皮葺 19660611
京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺大門 重文 近世以前/寺院 桃山 桃山 四脚門、切妻造、本瓦葺 19660611
京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺仏殿 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文9(1669) 桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺 19660611
京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺無縫塔 重文 近世以前/その他 室町前期 室町前期 石造無縫塔 19550202
京都市東山区泉涌寺山内町27 泉涌寺無縫塔 重文 近世以前/その他 室町前期 室町前期 石造無縫塔 19550202
Nov.21,2022 柚原君子
「泉涌寺」
図書館で借りてきた仏像の本に載っていたのが最初の出会い。京都に行ったら一度は本物をみたいと念願かない泉涌寺の楊貴妃観音堂を訪れました。
祈りのあとに見上げました。お優しいお顔立ち。慈悲に包まれると表現されますがまさにそのような感じです。華やかな頭の飾り物や胸から下がるアクセサリー
香木である白檀で作られていて彫りが深く観音様にしてはちょっと細いお顔でエキゾチックです。8世紀の中国・唐代の皇帝玄宗が楊貴妃を偲び造らせたとの伝承があるようですが、実際のところは12世紀の南宋時代と考えられ、月輪大師の弟子である湛海律師が、建長7年(1255年)に南宋から持ち帰ったものとされています。
以後700年のあいだは秘仏とされていましたが、1955(昭和30)年から一般に公開されています。重要文化財です。楊貴妃にあやかり美人祈願、良縁祈願の観音様でもあります。
楊貴妃にあやかり、と随所の説明にありますが、菩薩の語源はボーディサットヴァ(菩薩を求むるもの)で男性名詞です。漢字に当てはめると菩提薩多(埵・た)と呼ぶことになり、略して、「菩薩」となります。男性名詞から来ているので、菩薩様は男性ということになります。お口の周りはだからお髭なのかと思ってしまいますが、実はこれはありがたいお話をされているときの口の動きの表現で、けっしてお髭ではありません。。
そのまま漢字にあてて、
それを略してと言うのだと普通は解されています。
泉涌寺は、天長年間に弘法大師が草庵を結んだとも、藤原緒嗣の建立した法輪寺とも伝わりますが、やがて仙遊寺と改称されます。
建保6年(1218)に宇都宮信房から寄進された寺地に、俊抗律師が伽藍を造営した時、清水が涌き出たのにちなみ泉涌寺に改めたものです。
泉涌寺の名の由来となった清泉を覆う屋形で、寛文8年(1668)の再建です。屋根は入母屋造り、妻入正面に軒唐破風を付けた杮葺、正面に桟唐戸、上部には弓欄間も見られます。内部は別所如閑筆の「雲龍図」のある鏡天井となっています。泉水は今も尽きることなく涌き続け、開山律師の仏教興隆への思いが伝わってくるようです。(寺HPより)
観音堂に安置されている観音像は、その美しさから楊貴妃観音と呼ばれ、8世紀の中国・唐代の皇帝玄宗が楊貴妃を偲び造らせたとの伝承を生んだ。
宝相華唐草透かし彫りの大きな宝冠には、カラフルな色彩が残り、頭髪にも極楽の花である宝相華が飾られている。さらに手にも宝相華を持っている。顔立ちは
日本の仏像にはないエキゾチックな造形であり、面長で目鼻立ちが美しく彫りが深い、そして写実的な彫刻となっている。
揚貴妃にあやかろうと、美人祈願・良縁祈願の観音様として女性に人気がある。材質は香木の白檀である。
March 3,2021 大野木康夫
source movie
大門(重要文化財)
境内へ
浴室(京都府指定有形文化財)
泉涌水屋形(京都府指定有形文化財)
仏殿(重要文化財)
舎利殿(京都府指定有形文化財)
御座所(京都府指定有形文化財)その他
月輪陵
孝明天皇陵
Nov.19,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
March 20, 2020 野崎順次 source movie
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
泉涌寺
江戸時代に入ってからは皇室との関係はより密接となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を一貫して執り行った他、その陵墓までも全て境内にある月輪陵(つきのわのみさぎ)、後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)、後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)として築かれて祀られている。月輪陵と後月輪陵には合計で25の陵と9つの墓があり、後月輪東山陵は孝明天皇陵である。
泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える香華院となり、御寺(みてら)と尊称されている。しかし、明治時代に入り、廃仏毀釈の混乱の中で上記の陵墓は全て国家に没収されてしまい、宮内省(現・宮内庁)諸陵寮の管理下に置かれることとなり、以後は天皇・皇后の葬儀を行うことはなくなった。
応仁の乱による焼失を初め、諸堂は度々の火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。大日本帝国憲法施行以来日本国憲法施行まで、営繕・修理費は全て宮内省が支出していた。
(ウィキペディア「泉涌寺」より)
今回は主に石造物を撮影した。
パンフレット
仏殿と満開の桜
泉涌水屋形横の宝塔
月輪陵・後月輪陵
礼明殿の東に鎮まる陵墓は月輪陵(つきのわのみささぎ)・後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)と呼ばれる。四条天皇をはじめ後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれている。ここに鎮まるかたがたの御葬儀は泉山長老が御導師をお勤め申し上げ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている。また、月輪陵の背後の山腹には、南に孝明天皇の後月輪東山陵、北に英照皇太后の後月輪東北陵が築かれている。
(泉涌寺公式ウェブサイトより)
開山堂
境内の東南のもっとも奥まった場所に歴代長老の墓所があり、その中央小堂内に開山俊?律師の無縫塔(重文)が祀られている。日本最古のもので、北に並ぶ2墓(重文)をはじめ、各時代の無縫塔40余基が左右に整然と並ぶ実に見事な聖域である。
(泉涌寺公式ウェブサイトより)
国重文 開山無縫塔 鎌倉中期 高160cm 安山岩
開山堂内に祀られているので、写真にはないが、現存する無縫塔の中で、最古、かつ最優秀の遺品である。
国重文 泉涌寺無縫塔 鎌倉時代後期 高 南150cm 北142cm 花崗岩・安山岩
開山堂の北側に並んで立つ二基の無縫塔は、開山塔につぐ古い遺品である。南塔は花崗岩製で、中台側面に唐草文様を刻み、やや重苦しいが開山塔にならい、卵型の塔身の曲線も美しい。北塔は安山岩製で、同式ではあるが、さらに重苦しいのは塔身の卵型が筒状になったためである。二基とも開山塔の異国的風格を受けついでいる。この廟所内には開山塔のほか四六基の石塔が並び立ち、その内五輪塔一基の他は、すべて無縫塔で、開山塔と同式のが10基、それ以外は台座が四角に簡略化されているが、門近くの江戸時代以後のもの四基を除いて四一基が、鎌倉時代から室町時代にかけてのものばかりで、まさに一大偉観である。
(川勝政太郎「新装版日本石造美術辞典」1998年より)
向って左側の奥、開山堂の左の2基が国重文である。
開山堂の右側の無縫塔群
御座所庭園(名勝)
京都市東山区泉涌寺山内町27
仁和寺、大覚寺などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。
東山三十六峰の南端にあたる、泉山(せんざん)・月輪山(がちりんさん)の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
宗派:真言宗泉涌寺派 寺格:総本山 本尊:釈迦如来・阿弥陀如来 創建:856(伝・斉衝3年) 開基:伝・神修上人
境内図
大門 国重要文化財 四脚門 下り坂の参道を経て境内へ 伽藍は直線状に建てられている。
浴室 京都府指定文化財 床下に鉄釜が置かれ、沸かした湯で蒸し風呂となる
泉涌水屋形 京都府指定文化財 2間1間、入母屋造、?葺、正面に唐破風、入口は桟唐戸、上部欄間 現在も、かすかな水音が聞こえる。
清少納言歌碑・ほか 1974(昭和49)年建立
仏殿 国重要文化財 家綱が再建 桁行5間、梁間5間、一重裳階付入母屋造、本瓦葺、唐様建築 床は石敷
舎利殿 京都府指定文化財 5間4間、一間の裳階付、入母屋造、本瓦葺 周囲に縁と蔀戸 花頭窓
勅使門 四脚門
本坊〜御座所〜零明殿
経蔵と解脱金剛宝塔及びその付近 桜に出合えた。
雲龍院 外観のみ 内部については「雲龍院」の稿に詳しい報告があります。
御陵拝所に向かう途中見える全景
後月輪東山稜 孝明天皇・他
守脩親王墓、淑子内親王墓、朝彦親王墓および加陽宮墓、久璽宮墓
塔頭は泉涌寺の境内及び参道の両側に並び6ケ寺ある。泉涌寺の再興に合せて整備された。
毎年1月の第2月曜日(成人の日)には、別格本山の雲龍院も加えて、泉涌寺の塔頭を巡り、福笹に縁起物を付けていく「泉山七福神巡り」の行事が行なわれている。
附近で見た桜
京都府東山区泉涌寺山内町
真言宗泉涌寺派総本山
東山 泉涌寺 (とうざん せんにゅうじ)撮影日: February 10, 2013 当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師(がちりんだいし)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。鎌倉時代の四条天皇に続き、南北朝〜安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。アプローチ
パンフレットと現地説明板
総門を抜けて参道を進む。
楊貴妃観音堂あたり
重文 仏殿
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものである。
大門から参道を下って正面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。仏殿は一重裳階付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作である。本尊は釈迦、阿弥陀、弥勒の三体如来像(伝運慶作)である。
舎利殿
釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿である。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。月輪大師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来し遷座した。現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。
府文 浴室
泉涌水屋形など
御座所勅使門
霊明殿遠景、御座所、御車寄
明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失した。明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿をお移しになった。この建物は文化15年(1818)に造営されたものである。御殿の西には御車寄があり、勅使門と相対している。
御座所庭園
御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭は、小さいながらも無比の環境の中に自然と人工の巧の業を織りまぜている。
低い築山の裾に曲折する池の汀、ひかえめに咲くさつき、真紅の紅葉、薄すらと雪化粧した雪見灯篭に映える梅もどき等々、四季折々に楽しませてくれる。
庭園の向こうに霊明殿
参考資料
泉涌寺公式サイト
ウィキペディア「泉涌寺」
京都府東山区泉涌寺山内町
真言宗泉涌寺派総本山
東山 泉涌寺 (とうざん せんにゅうじ)
撮影日: 2010年8月29日当寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名された。
建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師(がちりんだいし)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。
その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依された。
大師入滅後も皇室の当寺に対する御帰依は篤く、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山稜が当寺に造営された。
その後、南北朝〜安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山稜が境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。
こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。泉涌寺道から総門を抜けて参道を進む。
重文 大門
慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築した。
楊貴妃観音堂
大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに将来された像である。
像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。
重文 仏殿
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものである。
大門から参道を下って正面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。
仏殿は一重裳階(もこし)付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作である。本尊は釈迦、阿弥陀、弥勒の三体如来像(伝運慶作)である。
舎利殿
釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿である。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。
月輪大師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来し遷座した。
現在同時に将来された韋駄天像・月蓋(がつがい)長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。
毎年、将来の日とされる10月8日(旧暦9月8日)には舎利会法要が営まれ多くの参拝者でにぎわう。
霊明殿
天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする。
現在の霊明殿は、明治15年(1882)10月炎上の後、同17年明治天皇によって再建された尊牌殿で、入母屋造り桧皮葺き、外観は宸殿風の建物である。
すべて尾州桧材で造られ、殿内西廂は板間。殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内陣は五室の宮殿造りである。
御座所
明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失した。
明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿をお移しになった。
この建物は文化15年(1818)に造営されたものである。
御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでいる。
御座所庭園
御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭は、小さいながらも無比の環境の中に自然と人工の巧の業を織りまぜている。
低い築山の裾に曲折する池の汀、ひかえめに咲くさつき、真紅の紅葉、薄すらと雪化粧した雪見灯篭に映える梅もどき等々、四季折々に楽しませてくれる。
参考資料
泉涌寺公式サイト
ウィキペディア「泉涌寺」
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