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京都府京都市下京区 島原(西新屋敷)

Shimabara(Nishishinyashiki), shimogyoku, Kyoto city

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京都市下京区西新屋敷揚屋町32 角屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸中期〜後期 "一階 網代之間(床、棚、附書院付)、女仕事部屋、仲居部屋、土間、男部屋、四畳半、七畳半 二室、下井戸、玄関、台所、板間、土間、内玄関、帳場、茶室(二畳台目中板、床付)、客室(九畳)、廊下などより成る 二階 緞子之間(床、棚、附書院付)、翠簾口之間、翠簾之間(床、棚付)、扇の間(押入付)、草花之間、馬之間、三畳長畳、孔雀之間、八景之間、梅之間、水屋(押入付)、囲之間(床付)、青貝之間(床、棚付)、同露台、檜垣之間(床 二箇所、棚、押入付)、階段室二室、廊下等より成る 桟瓦、こけら及び銅板葺" 曲木亭1棟、屋舗売渡状1枚、茶室1棟、待合1棟、東奥蔵1棟、西奥蔵1棟、台所蔵1棟、棟札5未、板絵図1枚、古図2枚 19520329


Apr.2012 中山辰夫

角屋

Sumiya

角屋は揚屋(あげや)の文化を偲ぶ唯一の存在で、「饗の文化 いやし」そのものとされる。

揚屋は大夫や芸妓等を一切抱えず、置屋から大夫、芸妓等を呼んで宴会を催す場、即ち、高級料亭にあたる。

従い、明治以降の公娼制度の所謂「遊郭」とは本質を異にする。

天正17年(1589)に豊臣秀吉の許しの下、柳馬場二条に開設、慶長7年(1602)六条柳町に移転させられる。

さらに寛永18年(1641)に今の島原に移転させられた。

島原にあっては、近世初期に花開き、華麗な開花期は寛永・寛文・元禄期、つまり17世紀の全期にわたって

盛衰の時期もあったが、揚屋文化の場としての地位を持続した。

増設を繰り返して、天明7年(1787)頃に今の規模になった。それ以来、祇園や先斗町をはるかに圧倒したが

嘉永(1848〜54)以来、祇園町はじめ各地に公許されてから島原は立地の悪さからさびれ、20数件あった揚屋

は廃業もしくは祇園へ移った。

幕末は勤皇等や新撰組等を顧客になんとか凌いできたが、維新後は需要が減り町全体も衰微することとなり

お茶屋として継続してきたが、昭和60年幕を閉じた。

島原鳥瞰図

揚屋建築は、大きな台所、大きな庭、茶室、大座敷があること。一階でくつろいだ後、二階で宴会をおこなう。

つまり二階へ揚げることから“揚げ屋”となった。

昼間は文化・文芸の交流の場、夜は饗宴の場であった。泊まりも出来なかった。

このため、宴会の場−各座敷はおめでたい装飾を施した、最高の“粋”の見せ場でもあった。

外観

揚屋町西側に面した間口は16間(31m余)にも及び、最南端を除いて総二階である。

二階の座敷、「緞子の間」から「扇の間」までである。

屋根は当初全てこけら葺であったが、天明元年(1781)に下屋を残して桟瓦に葺き替えた。

門口左の駒寄せに「角」印の古風な行灯を掲げている。(今は仕舞い込んである)

一・二階とも格子造りとするが、これは廓(くるわ)に限らず、江戸時代初期から京の

町家に使われていた。角屋の魅力は、内外にみられる“格子の妙”で先が楽しみである。

配置図

玄関

門口(外と内)

門口は太い門柱と冠木(かぶき)を用い、両脇は上部が赤の大津磨き壁、下部は腰簓子下見

(こしささらしたみ)である。

 

アプローチ

この玄関は来客用である。敷石はやや斜め寄りで、その両脇に鴨川真黒を並べる。

正面はこけら葺の庇と敷台。玄関を上がって直ぐ右には刀掛がある。

玄関から中庭が見える。

角屋の家紋(蔓三つ蔦 つるみつつた)を染め抜いた暖簾。本来は中戸口に吊るすが、今は観光用に

玄関に吊るしている。

中戸口

台所へ入る内用の玄関である。本来はこの入口に暖簾が掛けられていた。

正面の太い門柱柱上に、突出のこけら葺の庇、櫛形窓(くしがた)を配す。

左に用水桶、その手前には辻行灯、右には見張りの出格子と石の井桁の井戸。

両脇の高木は槐(えんじゅ)の木。樹齢200年以上であるが現役である。

台所

大黒柱は一尺八寸(54cm)角の松の木、小黒柱も太いものが使われている。

広さ50畳 極めて素朴な民家風に造られている。箱階段や帳場などは町中の商家と同じである。

竈(かまど)付近。照明は四方八方照らすことから「八方 はっぽう」と称す。

臥龍松の庭

京都市指定名勝

一本で臥龍を形づくっている。大正末期に初代が枯れ幹のみを残している。二世の木々で復活中。

大座敷「松の間」から眺める主庭と臥龍松は、角屋を訪れた文人、墨客、画人らの詩歌、俳諧、絵

の良い題材となった。「都林泉名勝図会」に紹介され、浮世絵にも描かれたので、京名所として江戸

でも知られた。

茶室

当時の揚屋では、意匠を凝らした小亭の茶室を設けるのが常であった。角屋には三亭あった。

曲木亭(きょくぼくてい)「非公開」約300年前のもの。薮内流

国重要文化財

この亭は「都林泉名勝図会」に「曲木亭」として、また「一目千軒 ひとめ」にも「ちん」

として紹介されている。「一部引用」

高い床を設けた開放的な亭で、自然の曲木を巧みに用いた風流瀟洒な亭である。

清隠斎茶席(せいいんさい)「非公開」茅葺 約200年前のもの

国重要文化財

この茶席は、薮内竹心門の一人である安富常通清隠斎が建てたものとされ、天保9年(1838)

に角屋に移築された。内部は、一畳台目向板入、床柱は赤松皮付、床は龕破床(がんわりどこ)

天井は客座一畳の上が化粧屋根裏、点前座上が蒲天井となっている。「一部引用」

残る一席は塀の向こうで見えない。青貝の間の下にある。約230年前のもの

松の間「公開」

縁台まわり

松の間は広さ43畳、角屋一の大座敷である。「一部引用」

大正14年(1925)一部を焼失した。翌年再建し、旧態に戻ったが重文指定から外れた。

歩障の岸良筆「布袋図」と額の薩摩剛毅書の「蓬壷生春酒」や縁側の欅の一枚板「檜垣の間」

(廊下に転用)は難を逃れた。

松の間から見る庭園

臥龍松をイメージした障子

他の障子も絶妙である。

襖の取手や違い戸、釘隠、欄間の彫刻には、家紋の蔓や桐の絵柄が彫ってある。

松の間から網代の間までの廊下周辺 

ガラス戸越の部屋は「遊仙人の間」と呼ばれ、酔い覚ましの部屋である。

網代の間「公開」

広さ28畳、天井を大長枌(へぎ)網代組にしている所から「網代の間」と称す。「一部引用」

棹縁(さおぶち)は長さ4間(約8m)の北山丸太を使用

床の地板は、二間(約4m)松の大節木(おおふしぎ)、柱は大木皮付(だいぼくかわつき)

を用いる。

付書院に花頭窓を設け、欄間には網組の障子を入れる。

釘隠や襖の取手は銅製と鍍金の宝づくし

庇の部分

障子、その他

障子の桟(さん)は一本の木の削り落としである。

いよいよ二階である。撮影は禁止とされている。

座敷は八室あっていずれの部屋も見ごたえがある。座敷の天井、壁は壁画はススで真っ黒である。

天井、欄間、障子の桟、壁、襖、釘隠、建具が全ての座敷で異なり、目を奪われる。

ここではすべて「引用」による写真のコピーを羅列する。

緞子(どんす)の間

広さ二十三畳、襖や障子の腰板部分に金襴緞子が張ってあるが真っ黒で見境が聞かない。床の天井には

左は段通を、右は蔀組を張る。

その下に化粧棚と称する軽やかな違棚があり、地板はケヤキの一枚板に亀甲形の彫りを施している。

付書院は地板に花梨を用い、障子は立湧模様、天袋は古法眼元信筆と伝えられる扇面を散らしている。

釘隠は七宝である。

扇の間までの表棟の座敷にある窓際の格子戸の障子模様は同じである。桟を5本と3本に吹き寄せたもの。

襖を外せば大広間にできる配慮である。

赤壁は品格の高い迎賓用に使われる。本願寺の飛雲閣、銀閣寺などにしか見られない。

翠簾(みす)の間 口の間

翠簾の間は、口の間(十二畳)と奥の間(十畳)の二間からなる。襖には極彩色の絵、その引手には角屋

の家紋を用いている。欄間は雷(いなずま)模様で釘隠は菊の紋。

壁絵は、銀箔の上に絵が描かれているため、銀の酸化とススで真っ黒である。

翠簾(みす)の間 奥の間

床のある奥の間は落掛(おとしがけ)の中央部に紫檀の曲木を用い、左右は虫喰丸太に金の刷り込みを施す。

床の壁は檀紙(シワシワの紙)に金箔が施してありつや光りを抑えている。右は天袋と違棚を配している。

天井は舟底天井である。

扇の間

広さ二十一畳。名の通り天井・欄間・襖の引手、台座、火鉢、お膳、お皿等扇づくしである。

天井に和漢諸名家の詩歌や絵の大扇面を五十八枚張り交ぜている。壁は九条土を使ったアサギ色である。

襖絵は源氏物語風の大和絵が8枚描かれ、釘隠も源氏香の図柄である。

正面の襖を開くと中央が浄瑠璃・謡曲を語る高座になっている。

「緞子の間」から「扇の間」までが、揚屋町に面した表棟である。

馬の間

広さ九畳。襖が円山応挙筆の「少年行の図」移転時にはなかった。

この部屋の天井は、六条三筋町から移したものとの伝承がある。移転が急だったので資材が足りなかった。

欄間も古風な筬欄間(おさらんま)になっている。

一階の玄関口から写したもの。天井に二通りあり。六畳三筋時代から370年余経過している。

孔雀の間

広さ四畳半。襖には江村春雨筆による三面続きの「孔雀に牡丹・海棠の図」が描かれている。

八景の間「非公開」

広さ六畳。障子の桟は紙組入子菱組で、角屋の中で最も斬新な意匠である。天井は焼杉と柾「まさ」板の

張り分けにしている。

梅の間「非公開」

広さ十畳。正面の襖は蕪村筆総金地に「梅の図 重要文化財指定」。面皮柱に皮付丸太の長押を用いている。

青貝の間 床の間側

広さ十七畳。壁や建具一面に青貝を散りばめている。螺鈿を施した壁は日本ではここだけである。

壁はアサギ色であったが螺鈿があるため塗り替えできず真っ黒。天井の蒲筵(がまむしろ)もススで黒ずむ。

床の地板は杉を用い、その下にも青貝四季絵戸4枚を使う。床柱には新撰組の刀疵が残る。

火燈窓付の障子が使われギヤマン(ガラス)が嵌めこまれている。

青貝の間 南側

南面の壁に横長の窓を切って松皮菱組の明障子を嵌めごろしにし、欄間には隅丸矩形・団扇型・扇型と三つ

の異形窓が設けてある。引手には七宝が施されている。ベランダもあって全体に異国趣味が濃厚である。

桧垣の間 北側

広さ十四畳。天井、欄間の組子、障子の腰板などに檜垣組を施している。数奇屋風の造りである。

さらに障子桟の組子は二本・一本、二本・一本の組合せで、一本が一木で削り出しである。

波形を作った竪桟と横桟を一本おきの吹寄とした意匠で、その斬新さは八景の間の障子に匹敵する。

桧垣の間 南側

襖4面は蕪村筆(夕立山水図で、65歳、安永9年(1780)の大作である。額は大雅堂書である。

おわり

揚屋(今の料亭にあたる店)の角屋と置屋(大夫や芸妓を派遣する店)であった輪違屋は表裏一体の

関係にあった。

輪違屋

京都市指定有形文化財

大夫や芸妓を抱えていた由緒ある置屋で、現在も営業を続けている。

元禄年間(1688〜1704)の創業。現在の建物は安政4年(185)に再建、その後増改築を繰り返し

明治4年(1872)には現在の姿になった。

一階南半分が居室部分、一階北半分及び二階が座敷部分である。

座敷は十数室あって、二階の「傘の間」「紅葉の間」が主要な座敷である。襖や壁に斬新な意匠が

施されている。

建築的のも質が高く、最古の置屋の遺物として貴重とされる。

参考資料≪角屋案内記、パンフレット、都名所図鑑 その他≫


July 2011 大野木康夫 source movie

2011.7.10撮影

島原は正式地名を西新屋敷といい、六条三筋町(五条、六条、室町、新町に囲まれたあたり)にあった公許の花街が、寛永18(1641)に現地に移転したもので、移転の際の騒ぎを島原の乱になぞらえて、島原と呼ばれるようになったそうです。

現在営業しているお茶屋は置屋を兼ねた輪違屋のみですが、建物が重要文化財に指定されている角屋(元は揚屋)など、ところどころに昔の面影が残っています。

近年、舗装が石畳に改修されましたが、電柱の地中化はなされていません。

JR丹波口駅から五条通を少し東へ向かい、壬生川通を南に折れ、島原病院を過ぎて花屋町通を西に向かえば、クランクの先に島原の大門が見えます。ここまで歩いて約10分です。

大門(京都市登録有形文化財)

慶応3(1867)年の建築

花街としての島原の東口にあたります。

嘉永7(1854)年に島原の東半分が火事になったときに焼失し、再建されたものです。

島原にはかつて西門もあり、一般女性も出入りすることができるなど、比較的開放的な花街だったようです。

輪違屋(京都市指定文化財)

明治時代初期の建築

揚屋である角屋(重要文化財)と並び古い由緒をもつ島原の置屋で,元禄年間(1688-1704)創建と伝える。

現在の建物は安政4年(1857)の再建で,明治4年(1871)にはほぼ現在の姿になった。

2階の客室の内,傘を張った襖をたてる傘の間と,土壁に赤や黒の押型の紅葉を散らす紅葉の間は立派。

(京都市HPより)

現在も営業されている置屋さん兼お茶屋なので、一見さんお断りかつ観覧謝絶となっています。

太夫さん3人と、振袖太夫さんが1人おられます。

旅館きんせ

元はお茶屋で、最近はカフェを営業されていたようです。

角屋近く、元お茶屋の民家です。

角屋(重要文化財)

所在地 京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町34

江戸中期から後期の建築

一階 網代之間(床、棚、附書院付)、女仕事部屋、仲居部屋、土間、男部屋、四畳半、七畳半 二室、下井戸、玄関、台所、板間、土間、内玄関、帳場、茶室(二畳台目中板、床付)、客室(九畳)、廊下などより成る

二階、緞子之間(床、棚、附書院付)、翠簾口之間、翠簾之間(床、棚付)、扇之間(押入付)、草花之間、馬之間、三畳長畳、孔雀之間、八景之間、梅之間、水屋(押入付)、囲之間(床付)、青貝之間(床、棚付)、同露台、檜垣之間(床 二か所、棚、押入付)、階段室 二室、廊下等より成る

桟瓦、こけら及び銅板葺

附指定:曲木亭、茶室、待合、東奥蔵、西奥蔵、台所蔵

島原にある代表的な揚屋で、主屋のほか曲木亭、茶室、待合、土蔵三棟が重文に指定されている。

庭もよく保存されていて、往時の景観をとどめている。

(国指定文化財等データベースより)

角屋は,江戸期の京都において,唯一公許の花街とされた島原に位置する。

かつて花街において,飲食を伴う遊興などを行う施設であった「揚屋」の現存唯一の遺構である。

客層は町衆のみならず公家・武家にまで及び,豪奢な遊興が展開された。

そのような客筋に対応して揚屋の屋敷は,当代の粋を尽した豪華な内外装になる傾向があった。

寛永17年(1640)の島原創設以来の伝統をもつ角屋において,江戸期の系統を継承している露天の庭は,玄関庭・東坪庭・中坪庭・西坪庭・座敷庭である。

玄関庭と坪庭は,大規模建造物の内部に通風や通光をもたらし,雨水排水に寄与している。

座敷庭は,寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』にて描写され,臥龍松と呼称されるクロマツが角屋の名物として人気を博した。

それらの庭は改修を経ているが,変遷の記録と復元が行われ,配置構成は概ね保たれている。

揚屋に築かれた庭として貴重である。

(京都市HPより)

花屋町通の西のどんつきに、角屋があります。

六条三筋町から移ってきた頃は現在の3分の1の間口でしたが、両隣りの土地を買って増築し、大きな建物となりました。

花街の揚屋としては、島原開設以来現存している唯一の遺構で、昭和60(1985)年まではお茶屋として営業されていました。

平成10(1998)年からは、角屋もてなしの文化美術館として、春と秋に公開されています。

外観

長大な間口の主屋は壮観です。

北側の塀越しに、附指定の東奥蔵、西奥蔵が見えます。

内部に入ります。

一階部分は一般公開されていますが、二階部分は特別公開されており、文化財保護の観点から写真撮影等は禁止されています。

台所

大寺院の庫裡並の設備があります。

二階の凝った造作とは違い、機能的に作られています。

玄関

赤壁と槐の木が印象的です。

新撰組隊士が付けた刀傷が見られます。

坪庭(京都市指定名勝)

手入れが行き届いた庭で、絶えず打ち水をしてきれいな状態で見ることができるようにされています。

網代の間

重要文化財指定の座敷で唯一写真撮影可能な場所です。

天井などが経木を用いて網代のように編んで作られています。

二階は特別公開で見ることができましたが、写真撮影禁止でした。

もともとメインの座敷が並んでおり、どれも凝った作りになっています。

緞子の間

障子の下部に緞子を貼ってあるのが特徴です。

翠簾の間

移転当初のメインの座敷で、銀地に御簾の模様の襖が入っています。

扇の間

南側増築部にあり、天井にたくさんの扇が描かれています。南の壁面には義太夫舞台があり、翠簾の間、緞子の間とつなげて72畳の大広間にすることができます。

檜垣の間

奥棟にあり、建具が檜垣模様に統一されています。

障子の縦桟が波型ですが、火で炙って曲げたものではなく、波の幅の木を両側から削って作られているそうです。

青貝の間

部屋中に螺鈿が施されており、角柱も上塗りしたうえで螺鈿を嵌めてあります。

柱に新撰組隊士が付けた刀傷があります。

西側に露台(バルコニー)がしつらえてあり、庇は柱のない跳ね上げ庇になっています。

二階を見学した後は、松の間に行きました。

松の間は大正年間に火事で一部が焼失したために重要文化財の指定からは外れていますが、宴会の前半に客が太夫とお茶や俳諧を楽しんだ場所です。

幕末には、松の間で新撰組の宴会が行われ、芹沢鴨に深酒をさせ、酩酊して屯所に帰ったところを暗殺したということでした。

待合

奥蔵がわずかにのぞいています。

臥竜の松、曲木亭、茶室

座敷庭に臥竜の松がありますが、初代の松は大正年間に枯れ、3本の松で枝ぶりを復元しているそうです。

曲木亭は外壁が少なく、曲線を多用した造りとなっており、薮内家から移築された茶室が曲木亭の奥にわずかに覗いています。

冷蔵所を通って外に出ました。

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