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京都府京都市北区 志明院

Shinmyoin,Kitaku,Kyoto city,Kyoto

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シャクヤクは京都市指定天然記念物 紅葉 樹氷
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July 10,2015 中山辰夫

志明院(しんみょういん)とその周辺

京都市北区雲ケ畑

宗派:岩屋山不動教本山

志明院は650年(白雉元年)役の行者が草創。829年(天長6年)弘法大師が淳和天皇の叡願により再興された。

境内のしゃくなげ林は4月下旬から5月上旬が見頃。司馬遼太郎が好んだ山寺で、アニメ「もののけ姫」のタイトルもこの森から生まれた。

雲ケ畑の集落を過ぎた所にある岩屋橋。バスはここまでである。サイクリングの「ロードトレーニング」をする人が多く度々出会った。

標高約860mの浅敷ケ岳南部の薬師峠と岩屋山を源流とする雲ケ畑川と浅敷ケ岳東部の谷を源流とする祖父谷川が岩屋橋で合流して雲ケ畑岩屋川となる。

ここから志明院まで約1時間かけて歩く。

現住職の田中眞澄氏が69年ほど前の小学生の頃、約3.5㎞離れた小学校に通った時にいつも感じた心細さ・辛さ、怖さが今も残る雰囲気である。

水の落ちる音が聞こえる所が志明院の始まり。庫裏や行者の元宿泊所がある。カメラや手荷物はここで預ける。

庫裏(寺務所)で一休み。境内を写す。

志明院概説

皇室の崇敬の一因には鴨川の水源地である洞窟の湧水を重視、水神を祀り、清浄な鴨川の用水を祈願したと伝えられている。

1831年(天保2年)失火により山門を除く殆んどを焼失する悲運にあったが幸い本尊不動明王はその災厄を免れた。後、数多くの熱心な信者により次第に復興された。山中に咲くしゃくなげは市の天然記念物に指定された。

現住職が小学生であった頃、よく訪れたのが司馬遼太郎。

≪参考≫ 司馬遼太郎 「街道をゆく「洛北諸道ほか」より引用

『雲ケ畑というのは洛北三里の山中にあり。一村は古来山仕事で生活している。志明院はかつては平安京の鎮護所の一つで、寺は勅願寺であった。

明治後すたれ、廃寺同然になっていたのを、戦後Tさんが東京の寺から移住してきて特命住職になったのである。

志明院は明治以前は寺格が高く、庶民の賽を拒絶していたために今でも一般との縁が薄い。全山が境内で、峰やがけや谷に行場が多く、山伏だけがこの寺を訪ねるという時代が長かった。要するに山伏の聖地のひとつだが、その山伏でも、Tさんによれば、「よほど行力のある人でなければこの山はこわくて近づけない」ということだそうで、要するにえたいが知れぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)が棲息している、ということなのである。』

司馬遼太郎がこの寺へ足を運んでいた頃は、この寺にはいろんな怪奇現象があったと体験話を結び随筆として書き、発表もしている。

アニメ「もののけ姫」の誕生にも司馬遼太郎の体験話がきっかけになっているとか。

山門

住職の許可を頂き撮影する。

1831年(天保2年)失火により山門を除く殆んどを焼失する悲運にあったが本尊不動明王はその災厄を免れた。後、数多くの熱心な信者により次第に復興された。山門は、室町時代に再建された建造物で1831年(天保2年)の失火の際に唯一焼け残った。山門を過ぎた先は撮影禁止である。パンフレットに記載してあるイメージ写真を引用する。

自然石を置いた狭い石段道を登る。濡れて滑りがち。とても撮影にまで気がまわらないが、写したいスポットの連続で、山全体が霊山の感じである。

一番奥の舞台造りの根本中院を囲む大岩の天井から落ちる清浄な一滴々の滴が集まって大きな流れとなることがよくわかった。

志明院を後にして、雲ケ畑集落を散策する。

雲ケ畑集落

雲ケ畑は、近世まで朝廷との結びつきが強く、平安京造営にはこの地の木材が用いられたほか、上皇の所領地として、朝廷に鮎などを始めとし、端午の節句には菖蒲を献上する供御人の活動地でもあった。

賀茂川の水源地であることからり、この地が汚染されると、下流の京都御所ひいては京都の街一帯に幅広くその影響が及ぶ。そこで、住民はこの水をけがさない生活をしてきた。昭和30年代までは、死者の埋葬(穢れとされていた)も他の集落で行っていたという。清らかな水を保つ工夫は今も継続されている。

雲ケ畑集落の人口は凡そ180名で老齢化が進んでいる。集落は雲ケ畑川に沿って並び建つ。若い人が少なくなり、小・中学校も閉鎖されている。

惟喬神社

山から下りてきて、岩屋橋の手前にある。

雲ケ畑は、平安時代前期に、皇位継承から遠ざけられた惟喬親王が、隠棲して出家した場所としても知られ、雲ケ畑の村人に慕われていた親王にまつわる話が数多く残っています。惟喬親王は木地師の祖神として尊崇されており、「親王縁起」が全国にある。

「松上げ」

失意の惟喬親王を慰めようと、雲ケ畑の村民が、村の山の2ケ所に「文字」を描いた松明を立ち上げたことが、松上げの始まりとされる。(毎年8月24日)

文字は毎年変わり文字の決定から、たいまつやその他の準備、当日の点火までを任される16歳から35歳までの住民で構成される若中会のメンバー以外は、誰も点火時まで今年の文字を知ることができない。今年の世話役に当たる人のお父さんは、若い人が居なくなり、今年はどうするのかと心配されていた。

紅葉の名所 岩屋橋から祖父谷川を少し遡った周辺

福蔵院

厳島神社

高雲寺

洞谷寺

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