京都府京都市下京区 渉成園
Shoseien,Shimogyoku,Kyoto city,Kyoto
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Mar.19,2020 瀧山幸伸
A Camera
B Camera
February 24, 2019 野崎順次 source movie
京都府京都市下京区下数珠屋町通間之町東入東玉水町
渉成園(しょうせいえん)
国名勝
渉成園は、真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地〔とびちけいだいち〕です。
徳川家康から教如上人(東本願寺第12代)に烏丸六条の地が寄進されて、現在の場所に東本願寺が分派したのち、1641(寛永18)年には、徳川家光から宣如上人(東本願寺第13代)に、その東方の地が重ねて寄進されました。これが渉成園のはじまりであり、中国の詩人陶淵明〔とうえんめい〕の『帰去来辞』の一節「園日渉而以成趣」(園、日に渉って以って趣を成す)より「渉成園」と名づけられました。
宣如上人は、ここに屋敷を造営して1653(承応2)年に隠居し、亡くなられるまでの5年間に、詩仙堂の造営などで有名な文人・石川丈山の趣向をいれた作庭を行いました。
園内の建物は、1858(安政5)年の火災、1864(元治元)年の蛤御門の変で焼失し、現存のものはすべて明治以降に再興されたものです。一方、庭園については、ほぼ当初の作庭状態を伝えています。
庭園内には、「渉成園十三景」と称される樹石と建物の風雅が各所にほどこされており、それは、1827(文政10)年作の頼山陽の『渉成園記』に紹介され高い評価がなされています。また、この地は、平安時代初期(9世紀末)嵯峨天皇の第八皇子である左大臣源融〔みなもとのとおる〕が、奥州塩釜の景を映して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟とも伝われており、源融にちなんだ名物が園内随所にちりばめられて趣を添えています。頼山陽の『渉成園記』でもこの伝を紹介しており、より最近の庭園研究家の中でもこれを支持する向きもありました。しかしながら、今日では六条河原院との関係について否定的な説がだされており、いまだ確定には至っていません。
1936(昭和11)年には、文人趣味にあふれる仏寺庭園として、国の名勝に指定されています。
(東本願寺公式ウェブサイトより)
渉成園カタログ
アプローチ
渉成園
受付前のシダレザクラ
庭園入口
臨池亭
庭園北側
傍花閣付近
侵雪橋を渡って中島へ
回棹廊から傍花閣へ
傍花閣西側
ロウ(門がまえに良)風亭付近
Apr.2012 大野木康夫 source movie
2012.4.7撮影 大野木康夫
2012年、京都の桜の見頃が全体的に遅れている中、渉成園を訪れました。
真宗本廟東本願寺御影堂門も修理を控え、素屋根の建設が始まっていました。
正面通を東に向かえば渉成園です。
正面通は、東西本願寺の正面ではなく、方広寺の正面という意味だそうです。
途中、旧真宗大谷派京都教務所(昭和5(1930)年の建築)があります。
高石垣手前の紅枝垂はまだつぼみでした。
南口から入りました。
建物の中では茶会が行われていました。
印月池
傍花閣の方を見ると、桜が咲いていました。
侵雪橋を渡って中島に行きました。
石造九重塔はこのあたりに屋敷があったとされる源融の供養塔と言われています。
最上層は失われており、宝篋印塔の笠で代用してあります。
回棹廊を渡って傍花閣の方に行きました。
傍花閣の周辺の桜は、少し早いですが、まあまあ見ごろになっていました。
June 2009 撮影: 中山辰夫
四条河原町から京都駅に向かって河原町五条をすぎると進行方向右側に土色の築地塀が見えます。その中は、御所、二条城についで三番目の広い庭園です。市内の喧騒を忘れさせる閑寂な空間です。四季のうつろい・・・渉成園の十三花・・が楽しめます。
高石垣〜庭園入口
渉成園十三景と諸建築
渉成園名物・景物
庭園内散策
築土塀・ほか
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