京都府京都市左京区 修学院離宮
Shugakuin Rikyu(Imperial Villa)、Sakyoku,Kyoto city,Kyoto
修学院離宮は、後水尾上皇が造営された離宮で、万治2(1659)年にほぼ完成しました。
上皇は、自ら造園の構想を練り、心血を注いで離宮を造営されたため、完成から御崩御までの20年間は、ほぼ毎年行幸になるほどこの離宮を好まれていたそうです。
上皇が造営されたのは、現在の下離宮と上離宮であり、中離宮は、上皇の第八皇女朱宮光子内親王のために建てられた朱宮御所(あけのみやごしょ)であり、皇后東福門院御崩御後にその女院御所の一部を移築したものでした。
上皇崩御後、光子内親王は得度し、御所を林丘寺と改称され、尼門跡寺院として続いていたものを、明治18(1885)年に境内の半分を宮内省に返還し、中離宮とされました。
また、離宮の間は畔道がつながっていたものを、明治天皇の行幸のおりに、馬車が通れるよう、松並木の御馬車道として整備されました。
また、昭和39(1964)年に、離宮の間の水田を景観保全のために買い上げ、地元の農家に委託して耕作してもらっているそうです。
現在の離宮は宮内庁京都事務所の管轄で、面積約54万5千㎡、比叡山や京都の町並みを借景とした雄大なものとなっています。
台風2号の影響で雨が降る中、修学院離宮に行きました。
修学院離宮には駐車場がないため、近くの白川通り沿いにあるコインパーキングから徒歩で離宮に向かいました。
修学院離宮道はかつては暴れ川としてしられた音羽川に沿って、東に延びています。
白川通りから約5〜6分登れば離宮の敷地の西南隅に着きます。
音羽川から離宮の西側に沿って北に向かいます。
東側には、宮内庁が買い上げて地元の農家に耕作してもらっている田畑が広がり、その向こうに御茶屋山や御馬車道の松並木が見えています。
田畑はかつてはすべて水田でしたが、近年は京野菜の栽培なども行われています。
田畑は中を通る舗装道を含め立入禁止ですが、ときどき景色だけを見て看板に気付かず入ってくる人がいるそうです。
入っていくと中離宮の前に出るので、大半はそこで気付いて引き返すそうですが、ときどき総門の方に抜ける人がおり、皇宮警察に油をしぼられるそうです。
西側には特徴的な山門を持つ禅華院があります。
朝9時からの参観で、少し時間があったので、総門を過ぎて敷地の北側に向かいました。
離宮の北側は赤山禅院ですが、手前の民家脇から少し入れる道があったので、立入禁止表示の手前まで行きました。
新緑が雨に映えて幽玄的でした。
総門まで引き返して8時40分の開門を待ちます。
総門は、白木の丸太造りで、扉と袖垣は割った竹を貼った「木賊貼り」という装飾がされています。
修学院離宮の一般入り口は総門なので、桂離宮の表門のように閉まっておらず、時間内は開けられています。
紅葉の名所らしく、門内には青もみじが覗いて見えます。
待っている間、総門の両側に覗いているモミジやカシ、苔を撮影しました。
カシには苔がびっしりとついています。
この日(土曜日)、9時からの参観は15名で行われました。
開門の8時40分になったので、参観許可証を見せて中に入り、入って右側の受付でパンフレットを貰って、さらに右側奥の休憩所に向かいます。
しばらく間があったので、休憩所の周辺の木々や覗いている山を撮影しました。
休憩所ではガイドブックやオリジナルグッズが販売されています。
約10分の案内ビデオ(参観HPのものと同じもの)を見ると、少し止んでいた雨がまた降り出しました。
土曜日なので、案内の方は宮内庁の職員さんではなく、OBの菊葉文化協会の方でしたが、偶然にも、今年の4月に京都御所で案内していただいた方と同じ方でした。
休憩所から雨の中を下離宮に向かいます。
雨の中、青もみじが瑞々しいですが、雨でピントが合わせにくいので、撮影は難しくなります。
歩きだしてすぐに、下離宮の御幸門に着きました。
御幸門は、行幸の際に用いられたもので、こけら葺の屋根と、花菱紋の透彫りが特徴です。
後水尾上皇が造営した時にはもっと手前にありましたが、霊元上皇の時に現在の位置に移されたそうです。
脇に潜り戸が設けられていないので、御幸門を潜って下離宮に入ります。
入ってすぐ右に行き、中門を通るとすぐ右に寿月観の御輿寄に通じる階段があります。
寿月観に向かって庭園内を進みます。
苑路の脇には袖形燈籠、朝鮮燈籠、さらに櫓形燈籠と、燈籠が3基据えられています。
このあたりも新緑が美しいですが、苑路が狭くて写真を撮るのが難しく、ちゃんと撮れませんでした。
坂を上がると寿月観です。
下離宮にはかつて寿月観の他に蔵六菴が建てられていましたが、今は失われています。
寿月観は数寄屋造こけら葺で、文政7(1824)年、光格上皇の行幸に備えて再建されたものですが、扁額は後水尾上皇の御宸筆です。
赤い壁が前庭の真っ白な白川砂に映えます。
寿月観一の間は15畳で、3畳が上段とされ、床の間、琵琶床、違棚が設けられています。
違棚の絵は原在中、床の間脇の襖絵は岸駒が描いたものです。
二の間、三の間が設けられています。
寿月観前庭の遣水には、白糸の滝と富士山に見立てた落差が設けられています。
寿月観から東門を抜け、御馬車道に出ます。
下離宮の東側には、中離宮や上離宮に向けて松並木の御馬車道が設けられており、背後に棚田や御茶屋山が広がる雄大な眺望となっています。
この日はあいにく借景の比叡山は雲の中でした。
後水尾上皇は、棚田の中の畔道を通って点在する御茶屋を巡る趣向を楽しんだようですが、明治期に馬車での通行を考慮して御馬車道が設けられました。
遠くには上離宮の大刈込を望むことができます。
そこから御馬車道を通って中離宮へ向かいます。
この回の参観者は15名ですが、秋の紅葉シーズンには50名くらいの参観者になることもあるようで、広いとはいえない御馬車道を通るのは大変かなと思いました。
道の両側には棚田が広がっており、東には御茶屋山を、西には松ケ崎や上賀茂の町並みを見ながら進んでいきます。
中離宮手前の林丘寺前の青もみじ
中離宮表門も木賊貼りとなっています。
案内の方が潜り戸を開けて入っていきます。
青もみじの中を、階段を通って中門に向かいます。
途中、朱宮御所の表門であった門が見えます。
中離宮中門脇の潜り戸を通って庭園に入っていきます。
入ると木々の間から楽只軒や客殿が見えます。
また、植込みの向こうには傘松が見えます。
楽只軒
林丘寺の御居間だった建物です。
朱宮御所創建当時の建物で、瓦葺の裾にこけら葺の屋根を継ぎ足した形になっています。
楽只軒の扁額は後水尾上皇の御宸筆で、額縁は三種の竹に七宝の竹葉が付けられています。
襖絵は狩野探幽の子探信の描いたもので、特に一の間の吉野桜が知られています。
楽只軒に接続して客殿が建てられています。
客殿は東福門院の女院御所の奥後対面所を、崩御後の天和2(1682)年に林丘寺に移築したものです。
雨樋が少し無粋に思われます。
客殿の濡縁の欄干は、乱菱状の格子が設けられており、「網干の欄干」と呼ばれています。
客殿の東側を廻り込んで、南正面に向かいます。
手前の部屋は二の間です。
襖絵は狩野秀信が描いた長谷寺の風景画です。
二の間と一の間の間の杉戸には、両側に鯉の絵が描かれています。
作者は不詳ですが、夜な夜な鯉が絵を抜けだして池で遊ぶので、円山応挙が金で網を書き足したと言われています。
ただし、金網にはほつれが描かれており、やっぱり鯉は抜け出し続けていましたが、ある日、一の間側の鯉の下に子どもの鯉が生まれ、それから抜け出すことはなくなったという言い伝えになっているそうです。
一の間は、12畳半で、おそらく修学院離宮で最も豪華な部屋です。
正面の違棚は、「霞棚」と呼ばれ、桂離宮新御殿の「桂棚」(非公開)、醍醐三宝院奥宸殿
の「醍醐棚」(撮影禁止)とともに、天下の三大名棚と言われています。
欅板の違棚の配置が霞を連想させる絶妙なものなので、霞棚と名付けられたそうです。
棚の壁面には後水尾上皇の勅命により詠まれた、修学院八景を詠み込んだ漢詩と和歌の色紙が貼り付けてあります。
棚の周囲の床の壁や襖も、腰張が群青と金の菱形模様という斬新さで、上部には和歌と絵の色紙が貼り付けてあります。
徳川家出身の東福門院が使用された棚と言うことで、金具には三つ葉葵の紋が入っています。
地袋の戸の引手が羽子板であったり、桂離宮にも通じた凝った作りになっています。
華やかな釘隠しや金具にも注意するべきでしたが、撮影するのを忘れてしまいました。
西縁の北側の杉戸には、祇園祭の放下鉾と岩戸山の絵が描かれています。
岩戸山は、現在は鉾とほぼ同じ飾りですが、絵では人形と木が据えられる、他の多くの山と同じ飾りに描かれています。
作者は住吉具慶と伝えられていますが、狩野敦信が描いた大英博物館所蔵の同種の絵と対のものであるということです。
客殿南側に広がる前庭には織部燈籠が据えられています。
織部燈籠は、角柱下部の彫り物が聖母像であるとか、燈籠そのものが十字架の形をしているとか、中ほどにラテン文字が刻まれている等と言われています。
客殿前庭から楽只軒南側に廻ります。
中離宮を出て、御馬車道を上離宮に向かいます。
棚田は田植えも終わり、時折カエルの鳴き声が聞こえます。
上離宮の大刈込が見えます。
上離宮には、浴龍池という大きな池が築かれており、その土堤や石垣を隠すために灌木を密生させ、刈り込んだのが大刈込です。
さらに棚田が広がります。
御馬車道の排水溝も景観に配慮したものとなっています。
マガモが田の中を歩いていました。
上離宮御幸門
こけら葺の簡素な門です。
袖垣の木賊貼りがここだけ少し古くなっています。
後水尾上皇の好みか花菱の透彫りがここにも設けられています。
脇の潜り戸から上離宮に入ると、大刈込の灌木を縫う階段が設けられています。
階段を登ると、北側に浴龍池が、上には隣雲亭が見えます。
隣雲亭
標高150mと、離宮で最も高い位置に設けられた茶室です。
室内装飾はほぼ皆無で、上皇は、景色を鑑賞する場所として建てられたようです。
軒下の三和土には、漆喰に鞍馬の赤石と賀茂川の真黒石を埋め込んでいます。
埋め込み方が、一粒、二粒、三粒の三通りになっているので、俗に「一二三石」(ひふみいし)と呼ばれています。
雨が降り続いており、戸も全開にはなっておらず、眺望も効かない中ですが、モミジを中心とする新緑に囲まれた浴龍池や、周囲の木々の眺めを楽しみました。
隣雲亭の横から、雄滝の方へ降りて行きます。
途中には滝見燈籠が据えられています。
後水尾上皇はこの組み合わせが好みだったらしく、仙洞御所同様、雄滝と雌滝が設けられています。
修学院離宮の雄滝は落差6mで、音羽川の水を引いているため水量も豊かです。
雄滝から浴龍池の東側を北に向かいます。
池の周りはモミジを中心とした新緑に覆われています。
千歳橋
文政7(1824)年に京都所司代内藤紀伊守信敦が献上したものです。
橋の先は万松塢と呼ばれる中島です。
青もみじが美しい楓橋を通り、窮遠亭に向かいます。
窮遠亭
三間四方の茶室で、上段は六畳、簡素な造りですが、窓越しに浴龍池の風景が眺められます。
この日は雨なので蔀戸が外されず、あまり眺望はよくなかったです。
扁額は上皇の御宸筆で、八角の板2枚で凝った作りになっています。
土橋
窮遠亭のある中島から西浜に向かう小道に設けられており、欄干は栗の鐇(ちょうな)削りです。
このあたりも青もみじが美しい場所でした。
また、池の水面が鏡のようで、映り込みもきれいでした。
万松塢を見ながら進むと、杉皮を竹で押さえた屋根が特徴の御舟屋があります。
現在つながれている舟は小舟ですが、かつては屋形船等が使われていたようです。
浴龍池の北端に方形の石船が置かれています。
ここは舟遊びの拠点として建てられ、離宮一大きな建物であった止々斎の跡です。
止々斎は宝永6(1709)年に仙洞御所に移築され、天明8(1788)年に火事で焼失しました。
石船は長さ2mで、止々斎の花生の水盤として使われていたものです。
石船の近くの岸は船着場になっています。ここからは万松塢の眺めが美しかったです。
西浜から土橋、御舟屋方面を眺めました。
青もみじの風景も素晴らしいですが、晩秋の夕暮れ、夕日に照らされた浴龍池をぜひ眺めたいと思いました。
万松塢の御腰掛や千歳橋、隣雲亭、窮遠亭などを眺めながら西浜を進みます。
浴龍池の南端に雌滝が設けられています。
雨なので水が流れていますが、涸れることも多いそうです。
雌滝を過ぎると、浴龍池ともお別れです。
御幸門を出て、下離宮に向けて帰っていきます。
行きに撮影できなかった下離宮東門です。
下離宮の北側を廻り、受付場所に戻りました。
参観コースは約3㎞、上離宮に向けては緩やかな上りになっており、上離宮の大刈込の階段は少し急です。
所要時間は約1時間30分(所定は1時間20分)で、雨のためか少し遅れました。
桂離宮や仙洞御所よりも少人数(紅葉の時期は多くなるかもしれません。)で参観できますので、天気さえ良ければ撮影等は比較的楽にできます。
雨の青もみじも風情があって素晴らしかったですが、手持ちで傘で片手がふさがる分、撮影は難しくなります。
また、建物も、あまり戸をあけることができなくなりますので、少し室内が暗くなったり見通しが利かなくなったりします。
今度は夕陽に染まった紅葉を見たいと思いました。
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