京都府京都市北区 等持院
Tojiin,Kitaku,Kyoto City,Kyoto
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足利尊氏ゆかりの庭園、茶室、廟 | |
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December 7,2024 大野木康夫
source movie
土曜の朝に車で行きましたが、あまり人がいませんでした。
方丈南側の紅葉
方丈前庭
渡廊下から見た紅葉
芙蓉池周辺(西庭)
心字池周辺(東庭)
帰路
October 9, 2023 野崎順次
京都府京都市北区
臨済宗天龍寺派
萬年山 等持院
2023年10月6日~10日秋の寺宝展を拝観に来た。もちろん、撮影禁止である。そして、三つの庭を鑑賞した。動画は撮らなかった。
パンフレット
方丈南庭 枯山水
方丈縁側のキズ隠し(現代)
市名勝 持統院庭園 江戸中期 池泉鑑賞式
扶桑池フソウ池を中心とし、北側の上に茶室清漣亭がある。伝夢窓国師作。
市名勝 山内旧真如寺庭園 鎌倉時代 池泉鑑賞式
方丈の北庭の東側に位置する心字池(草書体の心の字をかたどって作られた池)を主とする
April 13, 2019 野崎順次
京都府京都市北区等持院北町63
臨済宗天龍寺派
萬年山 等持院
暦応四年(西暦1341年)、足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を開山にお迎えして、衣笠山の南麓に創建されたのが、この等持院である。後に、尊氏・義詮将軍当時の幕府の地にあった等持寺もこちらに移されて、足利将軍家歴代の菩提所となった。応仁の乱などの戦乱や火災に見舞われたが、豊太閤も、秀頼に建て直させたほど、この寺を重んじられたのである。その後も移り変わりはあるが、等持院には、足利15代、230余年の歴史を語るだけの貴重な文化財が、今なお充分に保存されている。
(等持院公式ウェブサイトより)
作家の水上勉は相国寺瑞春院を13歳で脱走後、17歳まで小坊主としてこの寺に寄宿していた。その当時の住職は栂道節で、京都商業学校(現京都学園高等学校)野球部にいた沢村栄治を東京巨人軍専務取締役市岡忠男に紹介した。
(ウィキペディア「等持院」より)
龍安寺からの道の桜
パンフレットと現地説明板、
山門から庫裡まで。昔、境内に映画の撮影所があったので、マキノ省三先生像がある。
あいにく方丈(本堂)と霊宝殿は改修工事中である。
等持院庭園 江戸中期 池泉鑑賞式
西庭としての等持院庭園は、方丈書院の北庭で、後部山畔の東北部に枯滝石組を見せている。そして中島一島を設け、これに石橋二橋を架けているが、それらの枯滝石組や護岸の石組は、よく江戸中期の手法を示している。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」等持院庭園より)
池は芙蓉池で、北側の上に茶室清漣亭がある。
尊氏之墓所(宝篋印塔)と足利十五代供養塔(十三重石塔)
山内旧真如寺庭園 鎌倉時代 池泉鑑賞式
そしてまた本院の東部には、もと高師直が康永元年(1342)夢想国師を開山として開創した真如寺があって、この真如寺は現在廃寺となって等持院に合併されているが、本院の東部に保存されている池庭は、その当時の真如寺池庭である。したがって今ここには、真如寺の庭から述べることとする。
(中略)
南北朝の庭園として今日保存されるものとしては、(中略)等々があるが、いずれも二つの池庭が設けられていて、中央部が細く一種の瓢形となっているのが特色であり、旧真如寺の庭として作庭されたものが、同一地割によって、そのことが立証できる。
本庭ははなはだ荒廃して石組を保存しないが、それは西部の等持院が、江戸中期頃になって、等持院側の池庭を改修し、東部池庭の庭石をこれに運んだためと考えられる。したがって東庭には中島さん等を保存するのみで、石組はほとんど見られないが、地割のみはよく保存されているので、庭園史的資料として大きく評価してよい。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」等持院庭園より)
心字池を中心にして蓬莱島、二つの亀島の三島がある。西から南、東、北とめぐる。
帰り道の花と嵐電等持院駅
November 24,2018 大野木康夫 source movie
方丈及び霊光殿は耐震補強工事中でした。
真如寺参道
京都府京都市北区等持院北町63
1341年建立。足利尊氏の墓所。
庭園は夢窓国師作と伝えられる。紅葉を静かに楽しめる。
京都市北区等持院北町63
宗派:臨済宗天龍寺派。本尊:釈迦牟尼仏
等持院は、足利尊が建立した寺で、尊氏の菩提寺である。
書院と方丈裏に面した回遊式庭園と、清蓮亭と名付ける茶室の背に、盆を伏せたような衣笠山が浮いているようにある。
昔は、衣笠山を借景としていたこの庭園も、今は大学の学舎が建ち、景観も様変わりで、山は中腹からしか見えなくなった。
衣笠山は金閣寺からも龍安寺からも見える。
足利家紋章と祖師像(元天龍寺派 管長 関牧翁老師筆)
山門から旧中門まで
山門は、一間一戸、薬医門、切妻造、本瓦葺、江戸時代
その昔、山門から中門に至るアプローチは美しかったとある。両側の土塀から巨松が枝をさしかわし、なだらかな坂道が、瓦葺の中門に吸い込まれていった。この中門は現在コンクリートの塀と門になっている。途中の坂は土塀が削られ人家が並ぶ。
この付近にマキノ省三で有名な映画撮影所があった。
鐘楼
表門と庫裏
表門は、一間一戸、薬医門、切妻造、本瓦葺、 庫裏は切妻造、本瓦葺、いずれも江戸時代の建立。
見事な三重虹梁蟇股、大瓶束、海老虹梁が庫裏からうかがえる。屋根には煙出し櫓が付く。
足利家紋の「丸に二つ引き両紋」
玄関
方丈
現在の方丈は、1616(元和2)年、福島正則が妙心寺塔頭の海福院に建立し、1818(文政元)年等持院に移築された古建築。
桁行19m、梁間12m。方丈、一重入母屋造、桟瓦葺。広縁を歩むと鶯張りの音が時に聞こえる。襖絵は狩野興仁の作である。
書院
霊光殿
方丈から太鼓橋が掛かっている。そこを行くと霊光殿である。
足利尊氏公が日ごろ念持仏として信仰されていた利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と夢想国師とを左右に、足利歴代の将軍の木像が、徳川家康の像と共に両側に安置されている。
清漣亭
方丈北背の小高い所にあって、その背には盆を伏せたような衣笠山が臥せている。足利義政が村田珠光や相阿弥らと茶道に興じた所で、当時は段上の背後にある窓を開けると衣笠山の裾野の広がりが見渡せたと思われる
上段一畳を貴人床とする二畳台目の席で、この上段一畳に座して望む芙蓉池はまた格別であったとされる。
司馬温公形といわれる蹲と等持院型灯籠と呼ばれる灯籠
方丈前庭
尊氏の墓
足利尊氏の墓と伝える室町時代の宝筐印塔(1.5m)、下に4重の基壇が重ねられている。4重の基壇が重ねられている。
台座には四面に格座間が彫られており、宝瓶には、蓮花の紋様がある。台座の正面に1471(文明3)年4月の文字が見られる。
庭園は尊氏の墓を境に、東西二つの池を中心とした庭に分かれる。
庭園は、西芳寺(苔寺)や天龍寺の庭園などを手がけた夢窓疎石(むそうそせき)が作庭したともいわれる。
夢窓疎石は、鎌倉時代から室町時代にかけての著名な禅僧。各地を巡遊、寺を開基し、自ら作庭を行った。
東の庭には、心字池(草書体の心の字をかたどって作られた池)があり、蓬莱島、2つの亀島など3島がある。
景色は幽邃で、池には昔あった妙音閣の礎石が残る。この庭が一番美しいのは、半夏生(三白草)が咲く夏至の頃とされる。
西の庭は方丈の北側(書院の東側)にあって、池は芙蓉池といわれ、古い木立で区切られる。西側に書院、北側に茶室清蓮亭がある。
蓮の花を形(芙蓉)どった庭園に花木をあしらい草木を配し、石組も変化に富んでいる。
池は、室町時代、1457年の復興の際に足利義政が手を加えたともいう。また、江戸時代中期の改造が行われている。
書院に座して茶の香りを愛でながら眺める際の、この庭の引き立て役は、寒の頃から春先にかけて咲き始める樹齢400年以上の有楽(侘助)、初夏のさつき、7月頃のクチナシ、初秋の芙蓉の花などで、清蓮亭の前庭の景色に彩りを添えている。
総門から中門へ
方丈前
霊光殿付近
西の庭
東の庭
紅葉の盛り
隣の萬年山真如寺の参道
京都府京都市北区等持院北町63
臨済宗天竜寺派
等持院
(Toji-in Temple, Kita-ku, Kyoto City, Kyoto Pref.)
足利将軍家の菩提寺。暦応4年(1341)年足利尊氏が等持寺の別院として夢窓国師を開山として創建。尊氏の死後、その墓所となり、等持院と改めた。庭園は東西に分かれ、西の庭は芙容池と称し衣笠山を借景にした池泉回遊式であり北側に義政公好みの茶室清漣亭がある。霊光殿に歴代将軍の木像を安置。
(京都観光Naviウェブサイトより)
パンフレット、現地説明板
墓地にマキノ省三の銅像
山門から庫裡
南庭と方丈
足利歴代将軍木像を安置する霊光殿
西庭と芙蓉池
清漣亭
尊氏之墓所
東庭と心字池
Nov.30 2012 瀧山幸伸
A camera
B camera
巧運院
Mar.2007 瀧山幸伸 source movie
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