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京都府京都市山科区 歓喜光寺

Kankikoji, Yamashina-ku, Kyoto city

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July 19,2020 大野木 康夫 source movie


所在地 京都府京都市山科区大宅奥山田10

紫苔山河原院歓喜光寺は時宗六条派の本寺です。
一遍の弟子(異母弟ともいわれる)である聖戒が正応4(1291)年に現在の京都府八幡市に創建した善導寺が、六条東洞院にあった源融の邸宅跡(六条河原院)に移転、もともあった歓喜寺を合併して歓喜光寺と改称し、六条道場とよばれるようになりました。
その後、応仁の乱で烏丸高辻に、秀吉の京都改造で四条新京極に移転しました。歓喜光寺の鎮守社であった天満宮は錦小路に移転したことから錦天満宮となり、現在もその地に鎮座しています。
明治40(1907)年に、東大路五条の遊行前町(五条坂の登り口付近)にあった法国寺と合併し、法国寺の旧地に移転します。
法国寺は後陽成天皇の母である新上東門院が父親の勧修寺大納言晴右の追善のために創建した寺です。
その後、昭和50(1975)年に駐車場建設のために現在の地(山科区大宅)に移転したものです。
国宝一遍上人絵伝は現在は清浄光寺が所有していますが、元々は聖戒が書かせて歓喜光寺に伝わったものです。

大宅中学校の東側、山のふもとに位置しています。
駐車場もあります。
  


山門、案内板
      


境内
      

本堂(京都府指定文化財)

慶長6(1601)年の建築
桁行五間、梁行五間、一重、寄棟造、本瓦葺

 歓喜光寺は一遍の弟子聖戒が開いた時宗の寺である。明治40年、東山五条の法国寺に移転して法国寺を合併しさらに昭和50年に現地に移転している。法国寺は天正年間(1573-92)に新上東門院が、遊行三三世満悟を開山として建立したと伝える。本堂はもとの法国寺本堂で、慶長6年(1601)在銘の鬼瓦があり、この時の建立と考えられる。内部に掲げる額から、淀君が二世安楽のため施主となって建立したものであることが知られる。
 方三間の内陣の回りを一間の庇がめぐる平面の方五間の堂で、寄棟造、本瓦葺で四方に切目縁をめぐらせる。身舎柱は円柱、側柱は方柱で、組物は大斗実肘木を側廻りにだけ、柱上と中備えに用いる。内陣は蟻壁付格天井、庇は虹梁付棹縁天井で、外廻り前半分は蔀を用い住宅風の要素が濃い。内部は須弥壇背後の来迎壁をのぞき間仕切がなく、総板敷で時宗本堂としての特色をよく保っている。類例のすくない時宗の本堂遺構として貴重なものである。
(「京都の文化財 第1集」から引用)

境内の奥に、東向きに建っています。
植栽が茂って撮影しづらかったです。
                           


部分撮影
              


訪れる人もなく、静かな時間を過ごしました。

 

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