京都府向日市 長岡宮跡
Nagaokakyuseki, Muko city, Kyoto
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August 29 and September 11, 2021 野崎順次 source movie
長岡宮跡
(Ruins of Nagaokakyo, Historical Capital of Japan, Muko City, Kyoto
Pref.)
国史跡 長岡宮跡
長岡京は、延暦3年(784)に平城京から遷都され、延暦13年(794)に平安京へ移るまでの10年間、乙訓の地に営まれた都です。
長岡京は、政治や儀式を行う大極殿や朝堂院などの官庁街と天皇の住まいである内裏からなる宮域と、貴族や都市住民の居住域である京域に分けられます。
中心部の宮域はすべて現在の向日市域にあり、東西約1.0キロメートル、南北約1.6キロメートルの大きさで、周囲を築地大垣で囲まれていました。
京域は、朱雀大路を中心に大路小路によって規則正しく区画されており、東西4.3キロメートル、南北5.3キロメートルに及ぶ整然とした都でした。
(中略)
長岡京はわずか10年の都でした。しかし遷都の計画は2年以上の歳月をかけて周到に、しかも秘かに練られました。なぜなら政権基盤の弱い新政権にとって莫大な経費と労働力を必要とする遷都は、きわめて危険な決断だったからです。
新しい都の場所として選ばれたのは、水陸交通の便利な乙訓の地でした。都の建設には、まず北西の丘陵を削り、南東の谷や低地を埋め立てることから始めねばならず、幾多の工夫と労力が必要でした。にもかかわらず難波宮の建物を解体し、淀川を使って運ぶという方法を用いて、わずか6カ月の猛スピードで宮域中心部を造り上げたのです。
(向日市文化資料館ウェブサイトより)
一般パンフレットと説明板
朝堂院公園 (史跡指定地地図D、G、H)
案内所と展示
朝堂院跡
朝堂院は、大極殿の南側に東西4堂ずつ、あわせて8堂が並び立ち、貴族や役人が勢ぞろいして政治を執り行う場所です。
夜明けとともに荘厳な楼閣が左右にそびえる南門が開き、大勢の役人たちが朝堂院へと出勤しました。
朝堂院西第四堂跡
朝堂院南面回廊と楼閣跡
大極殿公園(史跡指定地地図F、E、A、I、J)
閤門跡(F)
宝幢跡(史跡指定地地図E)
長岡京に都を遷して初めて迎える延暦4年(785年)の元旦、大極殿の前に7本の宝幢(ほうどう=のぼり旗)がそびえ、儀式が行われました。大極殿跡には宝幢の柱が復元されています。
大極殿跡(史跡指定地地図A)
大極殿は政務や儀式の際、天皇が臨御する場です。瓦ぶきで礎石の上に朱塗りの柱が立つ、都でもっとも立派な建物でした。
小安殿跡、後殿ともいい、天皇が大極殿に出向く控えの間(史跡指定地地図A、J)
十三重石塔と長岡宮の礎石
回廊跡と東屋(史跡指定地地図J)
北大極殿公園と宝幢模型(史跡指定地地図J)
築地跡(史跡指定地地図C)
築地跡は、幅2.1メートル、高さ約4.5メートルの瓦葺きの土塀跡が、約80メートルにわたって発見されたところです。
現在は地下に埋もれている長岡京の遺跡のなかで、ただ1か所、地上に残された都の痕跡です。
内裏内郭築地回廊跡(史跡指定地地図B)
北真経寺の境内から南にかけて、160メートル四方の広さを持つ内裏の区画がありました。
内裏とは天皇や皇后たちの住まいで、現在の皇居にあたります。周りは警備のため内と外に屋根付きの通路がある厳重な塀で守られていました。
北西コーナー部分の塀の柱跡が、公園のなかに復元されています。
国登文 旧上田家住宅 保存修理工事中
内裏の内郭築地回廊と外郭築地跡(史跡指定地地図K)、工事中
内裏は天皇の住居としての宮殿で、桓武天皇は延暦8(789)年2月27日にこの地に移り住みました。この内裏は約159m(537尺)司法の築地回廊(廊下付きの土塀)で囲まれた「内郭」と、一回り外側に築地(土塀)で囲まれた「外郭」という区画に分かれます。この区画するものを内郭築地回廊」、「外郭築地」と言い、天皇や皇后、そしてこれに仕える人たちを守る二重の防御施設でした。
それから、JR線路のガードをくぐって
鶏冠井町上古 東院跡
桓武天皇が平安京に遷都する前の2年間、仮の内裏として住んだ場所が東院です。向日市温水プール建設敷地から大規模な建物跡が発見され、東院の候補地として、現在同プールの一角に復元整備されています。その後の発掘により、「東院」ではなく、天皇や皇族が本来の住まいとは別に設けた宮殿の「離宮」ではないかと考えられています。
参考資料
向日市ウェブサイト
国指定史跡
延暦三年十一月、都は平城京から長岡京に遷り、十年後の同十三年十月平安京に移った。
長岡宮の規模は、從来明らかでなかったが、最近門跡が発見され、ついで大極殿および小安殿の跡が判明するに至ったので、この両殿の地を指定しようとするものである。
大極殿跡は、地表削平せられ、礎石はその痕跡すら止めていないが、周辺の石敷、凝灰岩の痕跡等により、基壇は東西40.3メートル、南北21.6メートルと認められる。
その南面中央とその東西とに三か所の階段の跡があり、北面にも南面の西階に対応する西階の跡がある。中央と東方は、道路、家屋があって未調査ではあるが、それぞれ施設があったと推定される。
小安殿跡は、大極殿跡の北に接し、東西31.55メートル、南北15.25メートルの基壇上に桁行7間、梁行2間の建物があったと認められ、礎石の根石、基壇周辺の石敷が遺存している。
基壇の北面には、中央、東西の三階段の跡がある。南面はき損されているが、階段等の施設があったと推定される。
き損のあとも少なくはないが、基壇周辺の石敷上からは古瓦が発見され、現存の遺構は、よく両殿の規模をとどめ、長岡宮整備の姿を示すものとして貴重であり、更に長岡宮、長岡京の全貎を考察する上に規準となるものであって、日本歴史上極めて重要な遺跡である。
長岡宮跡は、昭和39年4月27日史跡指定、その後追加指定をしたが、昭和54年2月、向日市鶏冠井町で市道拡幅工事の際、南北方向の[[築地]ついじ]跡が発見された。
発掘調査の結果、築地は既に東半部が削平されてはいたが、残存長82メートルを測り、しかも高さ1メートルに及ぶ築地本体部が遺存していた。
この築地は、長岡宮内裏築地回廊西辺部の南延長線上175メートルの位置にあり、長岡宮太政官院を区画する築地の一部であった可能性も考えられ、追加指定して保存を図るものである。
長岡京は桓武天皇のとき延暦3年(784)から、のちの平安京の西南方に造営された都であり、その宮跡は、昭和39年に大極殿院跡の一部、すなわち大極殿跡と小安殿跡が史跡に指定されたが、その後、昭和41年、42年の発掘調査の結果明らかになった内裏廻廊跡のうち、その北西隅部分を昭和48年3月、追加指定をした。
長岡宮跡は、向日丘陵に位置する。昭和37年、宅地造成に伴う発掘調査により大極殿跡が発見されるに及び、わが国の歴史上きわめて重要な都城のひとつとして昭和48年に史跡に指定され、その後内裏築地回廊、内裏南方の築地、朝堂院西第四堂が追加された。
平成9年になって、大極殿前庭部で民間の住宅建設に伴う発掘調査が実施され、これによって宝幢遺構3基が検出された。
遺構は、長さ約2.1メートル、幅約1.2メートル、深さ約0.8メートルの柱穴で、大極殿の南端から約30メートル(約100尺)南の位置に、3メートル間隔で計画的に配置された7基のうちの東側3基分に相当すると考えられる。
柱穴底面には中央に大柱の設置痕跡が、その左右に脇柱の痕跡が残っていた。平城宮大極殿前庭で検出された同様の遺構は、天皇の即位式に際して建てられたものと考えられているが、即位式の行われなかった長岡宮の宝幢は、朝賀に伴うものとみられる。
この調査により、これまで文献資料でしかうかがえなかった朝賀の儀式の一端が明らかとなったため、この地域を含む一帯を史跡に追加指定し、保存の万全を期そうとするものである。
(国指定文化財等データベースより)
阪急西向日駅から北に向かえばすぐに朝堂院公園です。
朝堂院公園は朝堂院西第四堂跡で、史跡公園として整備されています。
朝堂院西第四堂跡
朝堂院南面回廊及び楼閣跡
朝堂院南門跡
朝堂院公園から北に少し行けば大極殿の交差点、北側は大極殿跡です。
門跡
宝幢
大極殿跡
後殿(小安殿)跡、大極殿後背部跡
阪急の線路を渡って東側へ
築地跡
内裏内郭築地回廊跡
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