京都府京都市中京区 二条城
Nijo Castle,Nakagyoku,Kyoto City,Kyoto
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京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿遠侍及び車寄 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3 (1615-1626)" "遠待 桁行八間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺 車寄 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺" 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿式台 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行正面三間、背面五間、梁間右側面四間、左側面六間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿大広間 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行右側面八間、左側面七間、梁間正面七間、背面五間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿蘇鉄之間 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行右側面八間、左側面九間、梁間正面一間、背面三間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿黒書院(小広間) 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行正面七間、背面八間、梁間右側面六間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿白書院(御座の間) 国宝 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行六間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺 附属之間、黒書院白書院間渡廊 19391028 19520329
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 本丸櫓門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 寛永2-3(1625-1626) 櫓門、入母屋造、本瓦葺 袖塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 本丸御殿玄関 重文 近世以前/住宅 江戸末期 弘化4(1847) 西面27.3m、南面13.8m、一重、入母屋造、桟瓦葺、御車寄唐破風造、銅板葺、玄関之間、取次詰所、取次之間、竹之間 二室、殿上之間、公卿之間、使者之間、御車寄、廊下、縁等より成る 19440905
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 本丸御殿御書院 重文 近世以前/住宅 江戸後期 寛政2-5(1790-1793) 南面18.6m、東面25.4m、一重、入母屋造、桟瓦葺、御書院、一之間、二之間、三之間、四季之間(春之間、夏之間、秋之間、冬之間)、表御座所、雲鶴一之間、二之間、三之間及び縁座敷、廊下、縁等より成る 19440905
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 本丸御殿御常御殿 重文 近世以前/住宅 江戸末期 嘉永2(1849) 西面13.9m、南面31.7m、二重二階、西面入母屋造、東面寄棟造、二階寄棟造、桟瓦葺、一階奥御座所(松鶴之間)、四季花草之間、御寝之間(雉子之間)、萩之間、御納戸、他三室、縁座敷、縁等より成る、中二階三室、二階三室、縁等より成る 19440905
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 本丸御殿台所及び雁之間 重文 近世以前/住宅 江戸末期 弘化4(1847) 南面20.6m、東面9.6m、一重、切妻造、桟瓦葺、雁之間 二室、台所、廊下等より成る 19440905
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿唐門 重文 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3 (1615-1626)" 四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿築地 重文 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 東築地折廻り延長五十四間、西築地折廻り延長十九間、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿台所 重文 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行正面十七間、背面母屋十四間、出張四間、梁間右側面八間、左側面母屋五間、出張四間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 二の丸御殿御清所 重文 近世以前/住宅 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 桁行正面八間、背面七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺 廊下 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 東大手門 重文 近世以前/城郭 江戸中期 寛文2(1662) 櫓門、入母屋造、本瓦葺 多聞塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 北大手門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 櫓門、入母屋造、本瓦葺 多聞塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 西門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 埋門、本瓦葺 多聞塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 東南隅櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺 多聞塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 東南隅櫓北方多聞塀 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 延長41.9m、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 西南隅櫓 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺 多聞塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 土蔵(米蔵) 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 土蔵造、門番所付、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 土蔵(北)(米蔵) 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 土蔵(南)(米蔵) 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 鳴子門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 脇戸付一間門、一重、切妻造、本瓦葺 袖塀 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 桃山門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 五間一戸、側面三間、一重、入母屋造、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 北中仕切門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 一間門、一重、招造庇付、本瓦葺 19391028
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 二条城 南中仕切門 重文 近世以前/城郭 江戸前期 "慶長7-8及び寛永2-3(1615-1626)" 一間門、一重、招造庇付、本瓦葺 19391028
July
27,2024 大野木康夫
source movie
本丸御殿の修理が終わったので撮影に行きました。
二条城の開門時間は朝8時45分、入城料は二の丸御殿拝観なしで800円、ありで1,300円、8月から始まる本丸御殿拝観(予約制)は別途1,000円です。
東南隅櫓
北方多門塀
東大手門
築地
唐門
二之丸御殿遠侍及び車寄
二之丸御殿式台
二之丸御殿大広間
二之丸御殿庭園
二之丸御殿蘇鉄之間
二之丸御殿白書院
二之丸御殿黒書院
本丸櫓門
本丸御殿御常御殿
本丸御殿御書院
本丸御殿玄関
本丸御殿台所及雁の間
天守台から見た本丸御殿
御常御殿
御書院
玄関
台所及雁の間
二之丸御殿
土蔵(北)(米蔵)
西南隅櫓
土蔵(南)(米蔵)
南廻りで帰る
南中仕切門
桃山門
May 5,
2024 野崎順次 source
movie
歴史的円安のゴールデンウイークで外国人観光客が多く、バスも地下鉄もよく混んでいたが、快晴の日に主に二の丸庭園を撮影した。
東大手門から
唐門
二の丸御殿前
二の丸庭園
本丸には行かずに、鳴子門の方へ。あいにく、清流園は特別行事のため立ち入り禁止。
Oct.21,2022 川村由幸
June 26, 2022 野崎順次 source movie
二条城 清流園 Seiryuen
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
東大手門から入って、北へ、土蔵の横を通って、突き当りを左(西)へ行くと、清流園の入り口に着く。
清流園
城内北側には、昭和39~40年(1964~65年)に新たに作られた面積約16,500㎡の清流園があります。江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から建物の一部や庭石約800個などを譲り受け、さらに全国から集めた銘石300個を使い、新たに茶室「和楽庵」を建てました。
清流園は、大きな流れを中心とする和風庭園と、芝生を主体にした洋風庭園からなっています。流れの設計は近代を代表する造園家の一人、中根金作氏らが中心になって行いました。現在は市民大茶会を始め、二条城を訪れる賓客の接遇にも利用されています(通常は非公開)
(京都市都市緑化協会ウェブサイト)
芝生の洋風庭園
大きな流れを中心とする和風庭園
香雲亭まわり
和楽庵まわり
加茂七石
西橋あたりの内堀
Feb.21,2020 瀧山幸伸
A camera
B camera
July 8,2019 大野木康夫 source movie
7月、8月は二条城の開城時間が8時からとなるので、人が少ない朝一番に訪問しました。
東南隅櫓、東南隅櫓北方多門塀
東大手門
二の丸御殿唐門
二の丸御殿遠侍及び車寄
二の丸御殿式台
二の丸御殿大広間
二の丸御殿蘇鉄の間
二の丸御殿黒書院
二の丸御殿黒書院
二の丸御殿庭園
桃山門
内堀
本丸櫓門
内堀
二の丸御殿御清所
二の丸御殿台所
復元土蔵
土蔵(米蔵)
鳴子門
北中仕切門
内堀
土蔵(北)(米蔵)
本丸
本丸御殿は保存修理・耐震工事中
土蔵(南)(米蔵)
南中仕切門
桜の園
外堀
北大手門
外堀
西門
西南隅櫓
February 9, 2019 野崎順次 source movie
東大手門あたり
国重文 二の丸御殿築地 江戸前期慶長7-8および寛永2-3(1615-1626)
東築地折廻り延長五十四間、西築地折廻り延長十九間、本瓦葺
国重文 二の丸御殿唐門 江戸前期慶長7-8および寛永2-3(1615-1626)
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
国宝 二の丸御殿、
昨年9月の台風で南妻面の破風板の飾り金具が取れて、葵の飾り紋の跡が見つかった。
二の丸御殿続き
国名勝 二の丸庭園、最初は広い芝生で冗漫
二の丸庭園 核心部 桃山時代
特に本庭は護岸石組において豪華を極める関係から、桃山期の特色である池を深く掘り、二重にも三重にも護岸石組を積み重ね、しかも青石を主材として剛健な手法を用いてあるから、本庭ほど護岸石組の立派なものは大庭園中の白眉である。
まず北西部に滝の石組があるが、現状では水が本来の滝石組の北側に落とされている。これは明治年中の改造であって、本来は今の落水の滝の南側にある石組のところが滝石組であり、さすがに剛健な石組である。池畔の護岸石組としては北部から東部にかけてのものであって、この付近には多数の巨石を用い、多くは三尊石組手法を連続的に組んだ手法が目に付き、特にこれらの手法は、庭者賢庭一派の手法が見られる。池畔を軽い勾配として、これに五段六段という石組を施してあるから、護岸石組は最高に美しい。
中島を一覧すると、中央の大中島が蓬莱島である関係から、その四周に巨石を用い、護岸石組を兼用しつつ蓬莱式の石組とし、西部に巨大な自然石の橋を架けている。そしてまた、北西にやや小さな自然石を架けた中島があって、これが鶴島である。東西両面に羽石としての巨石を用い、鶴島としてはまことに立派な石組である。そして南部に亀島小島を設け、亀頭石その他の役石も美しく、しかも豪健な手法とされている。
本庭の南部は、前述したように寛永元年行幸に先立って、行幸御殿からも十分鑑賞できるように改造されたが、その改造された石組は今日一覧してもよく解る。そしてその南西にも巨大な自然石の橋が架けられている。橋を渡った左手には鎌倉末期の石燈籠が配されているが、この時代から庭園の中に石燈籠の配されたことも注意したい。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」二条城旧二ノ丸庭園より)
Nov.10,2015 中山辰夫
二条城 台所
室町後期/1625-1626
桁行正面十七間、背面母屋十四間、出張四間、梁間右側面八間、左側面母屋五間、出張四間、一重、入母屋造、本瓦葺 1棟
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
重文指定年月日:19391028
国宝指定年月日:
京都市
重要文化財
京都の世界遺産「元離宮二条城」(京都市中京区)で、世界の名車の数々を集めた展覧会「ARTISTIC CARS AT THE WORLD HERITAGE」が始まった。
普段は非公開の二の丸御殿中庭を中心に、1960年代から2000年までの幅広い憧れの名車がずらりと30台ほど並ぶ。世界遺産と美しい名車との競演は珍しいのではないか。12月11日まで。
二の丸御殿 国宝
徳川家康による創建の後、明治期の離宮としての改装を経て今に伝わっている。京都市に下賜された後は、昭和24年〜30年に大規模な維持修理が行われたが、既に50年以上が経過している。
武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から北西にかけて並ぶ。
御殿東北には、台所、御清所がありいずれも国重要文化財である。
台所の北側に1棟、西側に内堀に面して南北に2棟の米蔵(土蔵)が残っている。
東南隅櫓
現在、東大手門が修理中です。
ちなみに、来年あたりから二の丸御殿の修理が始まります。
修理が終わった唐門
細部
二の丸御殿
御清所
二の丸庭園と御殿
桃山門
桜の園
遅咲きの里桜が多く、この時期は1本だけ咲いていました。
西側の桜林へ
ベニシダレザクラはまだ、ヤマザクラ、オオシマザクラは満開でした。
清流苑へ
シダレザクラ
北東の桜並木
御台所前の物産展
April 6,2014 大野木康夫 source movie
桜の季節の二条城
東南隅櫓
東南隅櫓北方多聞塀
東大手門
唐門
二の丸御殿遠侍及び車寄
二の丸御殿式台
二の丸御殿大広間
二の丸御殿蘇鉄之間
二の丸御殿白書院
二の丸御殿黒書院
二の丸御殿御清所
二の丸御殿台所
二の丸庭園
本丸櫓門
桃山門
桃山門南側の桜
南中仕切門
土蔵(南)(米蔵)
二の丸西側のシダレザクラ
雨が降ってきました。
雨が止んだ後の撮影
本丸
本丸御殿
土蔵(北)(米蔵)
北中仕切門
鳴子門
清流園
北大手門
土蔵(米蔵)
二条城は、慶長8年(1603年)、徳川家康が、京都御所の守護と上洛のときの宿泊所として造営し
3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したもの。
豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻など
が総合されていわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができる。
徳川幕府の誕生を祝った歴史的な場であり、「大政奉還」を宣言して幕府の終焉を告げた場でもある。
徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城である。
訪問した平成24年2月は城内数箇所で修復工事が行われていた。9月末完了予定であった。
二条城を構成する主要な建造物の中で、その殆どが重要文化財である”門”を中心に巡る。
二条城現状配置図と各門の所在
・ 東大手門
国重要文化財 寛文2年(1662)建立 高さ:26.2m×13.4m
堀川通りに面して建つ。
櫓門 入母屋造 本瓦葺 附指定:多聞塀
二条城の正門。近世城郭の典型的な櫓門である。
階上に櫓を構え、衛士が武者窓につめていた。棟には鯱が飾られている。
門幅十三間に及ぶ勇壮な門。石垣の上に櫓を掛け渡し、その下に間口約5mの門を開いた櫓門形式である。
寛永3年(1626)の行幸の際、後水尾天皇もこの門から入城された。その時の門は単層で、高麗門であった。
(写真に見える石垣より上の部分が寛永行幸後の増築)
櫓の武者窓の左右に設けられた各二つの出窓は、物見や銃眼の役を果たした。門の真上に「石おとし」も備えてあった。
門柱と門扉にはケヤキ材を使い、門扉には筋金が何本も縦に打ち込まれている。
柱の上下は銅板で飾り、武者窓を銅板で包む。
東大手門をくぐると正面に築地塀が見える。塀に沿って南へ行き右折すると唐門が立っている。
・ 二の丸御殿唐門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:6.4m×横:10.0m
あいにく修復工事中であった。
四脚門 切妻造 前後軒唐破風付 檜皮葺
二の丸御殿への入口である。築地より一層高い絢爛とした唐門である。正・背面に唐破風をつけ
複雑精妙な彫刻と華麗な金工細工を施している。寛永3年(1626)の行幸に合わせて造営された。
江戸中期の火災の備えで瓦葺にされたが、明治になって桧皮葺にもどった。
軒下は精巧な彫刻の金具で華麗に装飾されている。陽明門ほどの過剰な装飾性はないが似ている。
軒下の飾り彫刻は白虎・朱雀・青竜・玄武の4神がメイン。金細工はやや色あせ、彩色も落ちている。
虎・竜・鶴・亀などの姿が寄木づくりで、本物同様に彫られている。
重厚なつくりの門扉である。
・ 二の丸御殿の車寄
唐門の奥に見える。国宝・二の丸御殿の入口である。桧皮葺
唐破風の豪華な造り。荘厳で優美な二の丸御殿群に見劣りしない重厚さで、威厳を保っている。
装飾が華美である。
・ 二の丸庭園
特別名勝
小堀遠州が作庭した池泉回遊式庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したとされる。
池の中央に蓬莱島を、その左右に鶴島と亀島を配し、四つの橋をかけ、西北隅に滝を設けている。
池のなぎさにおかれた様々な形と色の岩石が変化に富んだ石組の妙味を呈してくれる。
梅・桜・椿のシーズンは見事な彩を添える。
・ 南門
押小路通りに面している。
敷地の南側にある門で、高麗門。
大正天皇の御大典の際に造営されたもので、二条城本来の門ではない。
・桃山門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:14.0m×7.4m
五間一戸 側面三間 一重 入母屋造 本瓦葺
桃山門は、二条城 内濠の南東角に位置する。
鳴子門と対になっているが、面積では鳴子門の10倍近い大きさである。
入母屋根だが構造は長屋門に近い。左右の白壁が美しい門である。
門内の両脇には番所が置かれ、通る武士をチェックしていたとされる。
6畳近くある番所の内部はむき出しの土間になっているが、かつては床が張られていた。
・鳴子門(なるこ)
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:5.1m×5.1m
脇戸付 1間門 一重 切妻造 本瓦葺 附指定:袖塀
鳴子門は、二条城 内濠の北東角に位置している。
二の丸と本丸の中間の南北の通路の北端を守る門で北を正面として構える。
本柱の後方に二本の控柱を建て、切妻屋根を架けた小ぶりな薬医門。
寺社で多く見かける構造であるが、気品のある美しい門である。
・ 本丸櫓門 (やぐらもん)
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:9.1m×9.3m
櫓門 入母屋造 本瓦葺
本丸櫓門は、本丸を囲む内濠に架かる東橋を渡った場所にある二条城本丸の正門。
天明の大火では唯一この櫓門だけが焼け残った。
二階の南北のみ窓を開け、東西両面は白い漆喰塗り込めである。
大扉、柱、冠木などすべてに銅板を張り、太鼓鋲が打たれている。
・ 本丸御殿車寄
車寄と玄関は正面を西に向けて建つ。
大きな唐破風の車寄を入ると玄関の広間へ続く。
落ち着きのある、上品な造りである
南中仕切門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:4.8m×6.7m
一間門 一重 招造庇付 本瓦葺
南中仕切門は、二条城内の南部(本丸の南辺)を東西に分ける門。
二の丸と本丸を隔てる防護の門で、食い違いの石塁の間に設けられた埋門(うずみもん)。
門扉には筋金が打ち込まれ、堅固に作られている。
・ 西門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:4.7m×7.8m
美福通りに面して建つ
埋門 本瓦葺 附指定:多聞塀
西門は城の搦手(からめて)となる門で、石垣と多聞塀の間に埋め込まれたひそやかな構えである。
埋門は、非常時には、土砂などで埋めて塞ぐことを想定して構築された門である。
濠には木橋が架けられ、当時、日常の城の出入はこの門に限られていた。
最後の将軍慶喜もこの門から退出し、城と将軍家との決別を見た門でもある。
城内は、草薮の中に、枡形の防備をなした高い石垣跡が少し見える。
・ 北中仕切門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:4.7m×6.8m
一間門 一重 招造庇付 本瓦葺
門構えは堅固である。
北中仕切門は、二条城内の北部(本丸の北辺)を東西に分ける門。
清流園
北中仕切門に近設してある。
江戸初期の豪商、角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を譲り受け、これをもとに全国から
集めた銘石300個と新たに茶室を加えて昭和40年(1965)に完成した。
流れの音を耳にしながらの一服は気持がやすらむ。
庭は池泉回遊式の和風庭園部分と芝生を主体とした洋風庭園部分からなる。面積は約16,500㎡。
園内には、香雲亭、茶室和楽庵があり、市民大茶会をはじめ、国賓公賓の接遇場所として利用される。
二の丸土蔵の長屋門
台所の北東方の土蔵の間の門。
当時、土蔵は南へ延び築地塀とつながり、二の丸御殿へ北から入る唯一の門である。
左方に門番所を備え、勤番武士の悪戯書きも残る。
・北大手門
国重要文化財 江戸初期建立 高さ:20.6m×12.1m
夷川通りに面している。 あいにく修復工事中でした。
櫓門 入母屋造 本瓦葺 附指定:多聞塀
正門側
二条城の北側にある大手門で、東大手門より一回りほど小さいが構造がそっくりな櫓門である。
一つの城に二つの大手門が設けられた理由がわからない。
今は、整備などの関係者車両の出入りに使っているようだ。
(城内側)
北大手門からの城内の眺めは、いかにも武家屋敷らしい風格が感じられる。
門に入って右手に折れると昭和40年(1965)に作庭された清流園がある。
所在地 京都府京都市中京区二条城町541
二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。
豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。
徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です。
(京都市HPより)
二条城は東は堀川通、西は美福通、北は竹屋町通、南は押小路通に囲まれた平城で、将軍の居館として造営されたことから、防御力はあまりないように思えます。
天守閣は江戸時代に落雷で焼失しましたが、二の丸御殿など多くの建物が現存し、明治期に京都御苑内の桂宮御殿を移築した本丸御殿とともに、多くが国指定文化財になっています。
二の丸御殿及び本丸御殿の文化財指定上の種別は、「城郭」ではなく「住宅」になっています。(櫓や門、土蔵は「城郭」になっています。)
城では慶長16(1611)年の徳川家康と豊臣秀頼の会見、寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸、慶応3(1867)年の大政奉還など、様々な歴史的なことが起こりましたが、明治以降は京都府庁が置かれるなどした後、明治17(1884)年に二条離宮となり、本丸御殿の移築などがおこなわれました。
そして昭和14(1939)年、京都市に下賜され、「元離宮二条城」として一般に公開されるようになりました。
東南隅櫓(重要文化財)
江戸時代前期の建築
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺
附指定:多聞塀(西方)
東南隅櫓北方多聞塀(重要文化財)
江戸時代前期の建築
延長41.9m、本瓦葺
堀川押小路の交差点近く、参観入口である東大手門の南側にあります。
地下鉄二条城駅から地上に出れば最初に見える建物です。
南門
大正4(1915)年の建築
旧皇室典範に基づき京都で大正天皇の即位の大典が行われたおり、現在の清流園の場所に大饗宴場が設けられ、この南門も建造されました。
押小路通を外堀沿いに西に歩きました。
西南隅櫓(重要文化財)
江戸時代前期の建築
二重二階櫓、入母屋造、本瓦葺
附指定:多聞塀
西南隅櫓、西門、北大手門は、正面入口である東大手門から離れているため、あまり見に来る人はありません。
しかし、二条城の外堀外周は、多くのランナーが走るジョギングコースになっているため、通る人は多いです。
西南隅櫓から美福通を北に向かいました。
西門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
埋門、本瓦葺
附指定:多聞塀
現在では外堀側の橋が撤去されています。
西門北から竹屋町通を東に歩きました。
北大手門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
櫓門、入母屋造、本瓦葺
附指定:多聞塀
現在は緊急搬入路になっており、普段は開門しません。
堀川通を南に向かい、東大手門を目指しました。
東大手門(重要文化財)
寛文2(1662)年の建築
櫓門、入母屋造、本瓦葺
附指定:多聞塀
参観入口になっています。
番所
東大手門を入ってすぐのところにあります。
二の丸御殿唐門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
二の丸御殿築地(重要文化財)
江戸時代前期の建築
東築地折廻り延長五十四間、西築地折廻り延長十九間、本瓦葺
二の丸御殿遠侍及び車寄(国宝)
江戸時代前期の建築
遠待 桁行八間、梁間八間、一重、入母屋造、本瓦葺
車寄 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
二の丸御殿の参観は車寄から入ります。
内部は撮影禁止です。
二の丸御殿式台(国宝)
江戸時代前期の建築
桁行正面三間、背面五間、梁間右側面四間、左側面六間、一重、入母屋造、本瓦葺
二の丸御殿大広間(国宝)
江戸時代前期の建築
桁行右側面八間、左側面七間、梁間正面七間、背面五間、一重、入母屋造、本瓦葺
大政奉還が発表された建物です。
その後、「太政官」が置かれたりしました。
廊下の「鴬張り」の仕掛けを見ることができます。
二の丸御殿蘇鉄の間(国宝)
江戸時代前期の建築
桁行右側面八間、左側面九間、梁間正面一間、背面三間、一重、入母屋造、本瓦葺
表側(大広間)と奥(白書院)をつなぐ、江戸城でいえば「松の廊下」に当たる部分です。
庭園側に蘇鉄が植えられています。
二の丸御殿白書院(御座の間)(国宝)
江戸時代前期の建築
桁行六間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺
附指定:附属之間及び黒書院白書院間渡廊
二の丸御殿黒書院(小広間)(国宝)
江戸時代前期の建築
桁行正面七間、背面八間、梁間右側面六間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺
二の丸庭園(特別名勝)
寛永三年後水尾天皇二條城行幸ノ際ニ於ケル行幸殿ニ對セシ庭園ニシテ其ノ後行幸殿ハ取毀タレ現在ハ大廣間ヨリ鑑賞セラル池ハ變化ニ富メル曲汀ヲ有シ中ニ三箇ノ中島ヲ置キ自然石ノ四橋ヲ架ク西北隅ニ三段ノ瀧ヲ落シ池汀池邉ニ多ク石ヲ組ム
庭園ノ西部ニまつ、かや、くろがねもち、あらがし、しひ、とべら、むく、さくら、もみぢ等ノ樹林アリテ背景ヲナシ南部ハ廣キ芝生ニシテ多數ノまつヲ點綴ス園内ノ石組ニハ通ジテ豪宕ノ趣アリ城郭ノ築山泉水庭トシテ優秀ナルモノナリ
寛永3年後水尾天皇行幸の際における行幸殿に対する庭園として築造された。
石組特に豪宕の趣を有し、現在する城郭の築山泉水庭として最も優れたものである。
(国指定文化財等データベースより)
二の丸御殿台所(重要文化財)
江戸時代前期の建築
桁行正面十七間、背面母屋十四間、出張四間、梁間右側面八間、左側面母屋五間、出張四間、一重、入母屋造、本瓦葺
御清所で調理した料理を、台所で配膳していたようです。
普段は非公開となっていますが、イベント開催時にはイベント会場として公開されます。
ただし、必ずと言っていいほど正面に仮設テントが張られるため、非公開の時の方が建物を見ることができます。
非公開時には米蔵(重要文化財)と収蔵庫の間,黒書院の北側などから見ることができます。
二の丸御殿御清所(重要文化財)
江戸時代前期の建築
桁行正面八間、背面七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺
附指定:廊下
二条城の調理施設です。
江戸時代の「住宅」の調理専用建物が現存しているのは珍しいようです。
周囲が管理用のバックヤードとして使われており、非公開になっています。
かつて1度だけ、築城400年記念イベントで公開されたようです。
二の丸御殿の団体参観用出口の北側から屋根が覗いています。
建物全体を撮影するには、二の丸御殿の勅使の間の参観を終えて外廊下に出たところに貼られているベニヤ板越しに撮影するしかありません。
本丸櫓門(重要文化財)
寛永2-3(1625-1626)年の建築
櫓門、入母屋造、本瓦葺
二の丸御殿から二の丸庭園を通って、内堀にかかる橋を渡ったところにあります。
なぜか外国人観光客が橋の上でゆっくり内堀の水鳥などを眺めていることが多いです。
本丸御殿
明治26(1893)年、京都御苑整備の際に、京都御所北方の今出川御門近くにあった旧桂宮御殿を本丸に移築したものです。
以前は春と秋に特別公開されていましたが、耐震性に問題があるとして、現在は公開されていません。
本丸御殿御常御殿(重要文化財)
嘉永2(1849)年の建築
西面13.9m、南面31.7m、二重二階、西面入母屋造、東面寄棟造、二階寄棟造、桟瓦葺、
一階奥御座所(松鶴之間)、四季花草之間、御寝之間(雉子之間)、萩之間、御納戸、他三室、縁座敷、縁等より成る、
中二階三室、二階三室、縁等より成る
櫓門から本丸に入ると目に入る大きな建物です。
本丸御殿御書院(重要文化財)
寛政2-5(1790-1793)年の建築
南面18.6m、東面25.4m、一重、入母屋造、桟瓦葺、
御書院、一之間、二之間、三之間、四季之間(春之間、夏之間、秋之間、冬之間)、表御座所、雲鶴一之間、二之間、三之間及び縁座敷、廊下、縁等より成る
塀に囲まれて、あまりよく見えません。
本丸御殿玄関(重要文化財)
弘化4(1847)年の建築
西面27.3m、南面13.8m、一重、入母屋造、桟瓦葺、
御車寄唐破風造、銅板葺、
玄関之間、取次詰所、取次之間、竹之間 二室、殿上之間、公卿之間、使者之間、御車寄、廊下、縁等より成る
本丸御殿台所及び雁の間(重要文化財)
弘化4(1847)年の建築
南面20.6m、東面9.6m、一重、切妻造、桟瓦葺、雁之間 二室、台所、廊下等より成る
天守台
徳川家光の命により寛永3(1626)年に五層五階の天守閣が建造されました。
同年行幸した後水尾天皇は、天守閣からの眺望をいたく気に入られ、行幸の予定を伸ばされたそうです。
その後、寛延3(1750)年に落雷で焼失し、以降は再建されていません。
本丸から内堀を渡って北に向かいます。
(この日はイベントの開催で南側に行くことができませんでした。)
土蔵(北)(米蔵)(重要文化財)
江戸時代前期の建築
土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺
内堀西側の北にあります。
土蔵(南)(米蔵)(重要文化財)
江戸時代前期の建築
土蔵造、一重、入母屋造、本瓦葺
内堀西側の南にありますが、この日はイベント開催のため近づくことはできませんでした。
北中仕切門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
一間門、一重、招造庇付、本瓦葺
内堀の北側、清流園の西にあります。
清流園
昭和40(1965)年に整備された庭園です。
鳴子門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
脇戸付一間門、一重、切妻造、本瓦葺
附指定:袖塀
内堀の東、本丸櫓門に続く橋の北方にあります。
土蔵(米蔵)(重要文化財)
江戸時代前期の建築
土蔵造、門番所付、一重、入母屋造、本瓦葺
二の丸御殿の北方にあり、門が設けられています。
桃山門(重要文化財)
江戸時代前期の建築
五間一戸、側面三間、一重、入母屋造、本瓦葺
この日は、イベント(放鷹術)が開催されており、内堀南側一帯の立ち入りが規制されていたため、南中仕切門(重要文化財)の撮影はできませんでした。
Nov.2005 瀧山幸伸 sourece movie
清流園
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