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三重県桑名市 市街 七里の渡し、桑名城跡ほか

Downtown(Kuwana port,Kuwana castle),Kuwana city,Mie

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September 10, 2022 野崎順次  source movie

 

三重県桑名市住吉町~太一丸地区(六華苑南側)
国営木曽三川公園
桑名市七里の渡し公園
(Kuwana Shichiri no Watashi Park, Kuwana City, Mie Pref.)

木曽三川にまつわる史跡と桑名を代表する建築とをつなぐ場所に整備された、川と街に一体となった歴史公園で、地域の歴史にちなんだ意匠を随所に取り込んでいます。 周辺史跡を巡る道中や日々の散歩時に、流れるせせらぎに耳を傾け、芝生広場でゆっくりとくつろげます。
近隣には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計による洋館と池泉回遊式庭園を持つ、国の重要文化財の「六華苑」、春と秋に一般公開される美しい庭園「諸戸氏庭園」、東海道五十三次で知られる桑名宿の渡船場「七里の渡し跡」等があります。 今後、揖斐川右岸地区と七里の渡し地区の整備を予定しており、現在は住吉地区が開園しています。
(国営木曽三川公園ウェブサイトより)

入口と案内図

  

休憩所と修景池

     

獅子頭共用栓

   

せせらぎから巨石石組

                         

共用栓あたり

           


Nov.07.2014 中山辰夫

伊勢平野の北端にある人口約14万人の都市。愛知県と岐阜県に接しており、名古屋市から25km圏に位置する。

名古屋市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいるほか、機械・金属系を中心とする工業都市でもある。

無形文化財に石取祭や連鶴の折り方の「桑名の千羽鶴」などがある

     

鋳物のまち桑名はマンホールのフタの生産地。あちこちに鋳物のオブジェが置いてある。

      

歴史

桑名は木曽三川の河口部に位置し古来湊町として栄えてきた。また、江戸時代には松平氏11万石の城下町でもあった。

更に、東海道の江戸日本橋から42番目の宿場町で、伊勢の国の玄関にあたる。

1843(天保14)年の宿村大福帳によると本陣2軒、脇本陣4軒であり、旅籠の数は120軒と宮(熱田)宿に次いで多く、大変賑わった。

  

久波奈名所図会

 

船場:七里の渡し付近、本陣・番所・舟役所・問屋場などがおかれた

 

町屋川:桑名の南の外れにある川で、箸の中央部は待避できるように広くなっていた。石取祭で春日神社に奉納する石はこの河原で採取している。

 

桑名城の絵図

  

第2次世界大戦の空襲でほとんどの建物が焼失したが、街道は国道1号線と平行してほぼ残り、その沿道に史跡・名所が多く見られる。

  

まちなか散策

■春日神社(桑名宗社)

桑名市本町46

桑名の総鎮守である。「桑名神社」「中臣神社」からなり、両社とも延喜式に記載された古い神社。

石取祭は桑名神社の大祭「比与利祭」の神事の一つが独立したもので、桑名神社神楽太鼓の叩き出しを合図に始まる。鎌倉時代に奈良から春日大明神を勧請して合祀。「春日さん」の名で親しまれる。

青銅鳥居

県指定文化財

       

慶長金250両を要したとされる。

山門

       

1833(天保4)年松平定永が寄進。三間一戸 重層入母屋造の楼門 正面左右に左大臣、右大臣、裏側に金剛力士像が安置された。その美しさは日本一といわれたが焼失。平成7年の700年に再建された。

本殿に向かう。

  

中臣神社

  

  

本殿

 

境内にあった鋳物のオブジェ 石取り祭を表す

  

■石取会館

桑名市京町16

建屋は国登録有形文化財

鉄筋コンクリート造 二階建

       

1925(大正14)年四日市銀行桑名支店として開業。その後所有者は数度替わったが991(平成3)年桑名市に寄贈された。

2007(平成19)年前面再送し、石取祭の拠点施設としてリニューアルオープンした。

建物は東南角を曲面とし、縦長の窓を二層開け、通りに面した南・東面の外壁には簡潔で幾何学的な柱型をしており、陰影の深い意匠を見せている。

鉄筋コンクリート造の建物としては桑名市の蔵前祭車庫(平成20年に登録有形文化財に登録)と並び、県内でも最も早期に属する物として貴重。

   

“日本一やかましい祭り”石取祭をいつでもが体感できる施設。 祭り当日は、祭車が打ち鳴らす鉦(かね)や太鼓の音色が一晩中まちなかに響き渡る。

漆仕上げの祭車、天幕等が修復・展示されている。

石取祭

「桑名石取祭の祭車行事」の名称で、国重要無形民俗文化財に指定されている。

43台の華麗な祭車、その歴史と彫刻,飾金具、染織品また各町の半纏の図柄を見るのも楽しい。

    

先代萱町祭車

  

明治中期に工匠佐藤新六により造られる。大正12年、塗り替えをはじめとする大改修を行う。写真は大正12年の本楽北並びに太一丸通り諸戸宗家の赤レンガ倉庫前で撮影された。昭和20年7月戦災により焼失。

■諸戸水道貯水池遺構

桑名市尾野山

桑名町(当時)の水道建設計画が財政上の理由で頓挫すると、初代諸戸清六が、独力で上水道付設を計画し、明治32年(1899 年)に自家用水道を敷設して邸前の水槽に引き入れ町民に開放。更に明治37年(1904 年)には町内55ヶ所に給水栓を設置、無料で開放した。

1924(大正13)年町に施設を寄付した。

近代的な上水道としては、全国で7番目に完成した。1904(明治37)年に竣工し、1929 (昭和4)年まで使用されていた。

         

■大福田寺(だいふくでんじ)

桑名市東方1426

宗派:高野山真言宗

本尊:阿弥陀如来立像(県指定文化財)

本尊は阿弥陀如来。ほかに歓喜天(聖天)を祀り、日本三歓喜天(日本三大聖天)の一つに数えられている。通称「桑名の聖天さん」と呼ばれている。

4月2日には重要無形民俗文化財の「伊勢大神楽」が奉納される。

この寺の創建年代については正確ではないが、聖徳太子が開いたと伝えられ、鎌倉時代中期後宇多天皇の代に額田部実澄・忍性によって再興されたという。

当初は福田村にあり福田寺と称したが、足利尊氏から「大」の字を賜り、大福田寺と改められた。

その後、たびたび兵火にあって焼失して寺運は衰えたが、1662年(寛文2年)、松平定重の援助を受けて現在地に再興された。

歓喜天は松平定信の寄進によるとされる。

            

■九華公園(桑名城跡)周辺

桑名市吉之丸5−1

九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので、園内では桑名城ゆかりの様々な遺構を見ることができる。

海に向かって開かれた桑名城はかって「扇城」と呼ばれ、海道の名城とたたえられた。その城の面影を残し、本丸と二の丸跡を利用して公園とした。

周辺地図

 

堀は公園全体の約6割を占め、水が張られている。堀上には多数の橋が架けられている。

園内には、ソメイヨシノ、しだれ桜、山桜などの桜が約450本あり、三重県下屈指の桜の名所となっている。また、ヒラドツツジ、オオムラサキツツジといったつつじが約550本、伊勢系、肥後系、江戸系の花菖蒲が約4000株ある。(ウイキペデイアより引用)

桑名城

桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。

歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。

 

城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されている。

築城時期は1186(文治2)年灯されるが定かでない。1601(慶長6)年に入封する本多忠勝によって大改修され、従来の縄張りを一新させた。その後、城主は松平(久松)・松平(奥平)・松平(久松)氏と変遷し、明治維新によって城は灰燼に帰した。

   

本多忠勝は、徳川四天王の一人。幼少より家康に仕えて多くの戦功をたて、関ヶ原の戦功により桑名10万石に転封した。負け知らずであった。

家康の孫娘・千姫は忠勝の孫・忠刻と結婚し、桑名の地で過ごした。「大坂城から江戸に向かう千姫が、七里の渡しで忠刻の船に乗り恋におちた」

桑名城城壁

三の丸の石垣堀。今に残る創建当時の石垣。積石は野面ハギ、打込みハギの2技法による乱積。

  

忠勝は、城下町・宿場町・港町という3つの顔を持つまちづくりを進めた。現在の桑名市街の形は、この時に築かれたものである。〜

鎮國守国神社

公園内にある。1823(文政6)年白河から桑名へ移封に伴い桑名城本丸に移った。松平定綱(鎮国公)、定信(守国公=楽翁)を祀る。

1907(明治40)年に本丸跡の現在地に移った。

         

公園内散策

           

約450本のソメイヨシノなどが春爛漫と書き誇る4月、さくらまつりが開催される。“つつじまつり””花菖蒲祭り”も行われる。

■蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

桑名市東船馬町

七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓。かっては東海道を行き交う旅人たちが目にした桑名のシンボル。忠実に復元されている。

航海の監視として据えられたとされる。

     

現在の建物は揖斐川の住吉水門・川口水門・三之丸水門を管理する水門統合管理所で、旧桑名城 蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の位置に、櫓の外観を擬して建設された。櫓は歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも記載されている。

   

■伊勢国一の鳥居「七里の渡し場跡」

桑名市東船馬町

       

熱田の宮から桑田まで海路七里あったことから「七里の渡し」と呼ばれる。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称される。弥次さん喜多さんが宮渡しから七里私について、無事の海路を祝って焼き蛤で一献かわしたと東海道膝栗毛にある。

一の鳥居建て替え

伊勢神宮の宇治橋外側の鳥居が、20年に一度の式年遷宮ごとに桑名市の七里に渡し場跡に運ばれ、建て替えられる。

第62回の敷く年遷宮が平成26年10月3日に行われた。従い、一の鳥居の建て替えは、平成27年5月31日に行われる予定にある。

 

■住吉神社

桑名市揖斐川鍋屋堤地先

このあたりは廻船の船溜まり場で、全国から多数の廻船業者が集まり、その人たちによって住吉神社は建てられたが、揖斐川改修で現在地に移された。

        

少し離れるが海蔵寺へむかう。

■海蔵寺

桑名市北寺町10

宗派:曹洞宗 

本尊:十一面観世音菩薩

1574(天正2)年頃に創建された。当寺は往古西方村(桑名市)にあって東明山海善寺と称された曹洞宗の巨刹であった。

現在の場所(桑名市北寺町)に移って「海蔵寺」と改称したが、その時期は明らかでない。

        

当寺には、薩摩藩惣奉行平田靱負公、宝暦治水最初の犠歿者となった永吉惣兵衛・音方貞淵の2名をはじめとして、宝暦治水犠歿者24名の墓がある。

犠歿者の弔いや埋葬については、多くの寺院が幕府を恐れて拒んでいる中で、快く引き受けたのが海蔵寺であった。

       

海蔵寺には、宝暦治水の模様を伝える古い資料が数多く伝えられている。

明治時代に宝暦治水の顕彰に尽力した西田喜兵衛に、これらの資料を提供すると共に顕彰活動に参加した。

海蔵寺では、毎年、平田靱負公の命日である5月25日には「薩摩義士追悼特別法要」が挙行され、薩摩義士の子孫や関係者など多くの方々が参列している。

その他、桑名市内には、長寿院(寺町)3名、長禅寺(東方)1名、常音寺(多度町香取)5名の犠歿者の墓があります。

宝暦治水事件

宝暦治水事件は、江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。

   

治水神社

岐阜県海津氏海津町油島

1938(昭和13)平田靱負ら85名の薩摩藩殉死者を「祭神」として顕彰するために建立された。平田靱負は治水工事を終えると莫大な工事費用と数多くの藩士が亡くなった責任を取り自害した。

『孤愁の岸』

昭和38年長編歴史小説で第48回直木賞を受賞した「杉本苑子」のデビュー作はこの事件がテーマーである。

 

■惣 堀

桑名市太一丸

桑名の城下町を防護する総構の外掘。往古は土塁であった。平成になって改修が行われ、向かいの諸戸家の煉瓦蔵に合せて煉瓦を採用した。

諸戸家のレンガには「勢陽組」と印字されている。桑名の多度町は瓦づくりが盛んで、レンガづくりにつながったのか・・不明である。

惣堀は現在避難港として使われている。

         

この先は

諸戸氏庭園と六華苑である

 


July 2011 瀧山幸伸 source movie

A camera

七里の渡し付近

     

        

B camera

            

桑名城跡

  

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