三重県明和町 斎宮跡
Saiku ato,Meiwa town,Mie
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July 2011 瀧山幸伸 source movie
伊勢湾に注ぐ櫛田川及びその支流祓川の右岸平野の、昭和30年ごろまで「斎宮(さいく)村」といわれた地には、古くから“斎王の森”とよばれてきた伊勢神宮所有の一画が顕彰碑をそなえるのみで、幕末以来の保護・顕彰運動にも拘わらず、伊勢斎宮は長く幻の宮であった。 然るに、昭和45年頃、祓川右岸の古里遺跡に及んだ大規模宅地造成に伴う事前調査の結果、奈良時代の掘立柱建築遺構群・大溝をはじめ、多数の各種土器とともに緑釉陶器、円面硯・蹄脚硯等の検出を見、斎宮遺跡との関連が俄に注目されるに至った。このため三重県教育委員会は、この宅地造成を中止させるとともに、昭和48 050年の3か年にわたり範囲確認調査を実施し、“斎王の森”を中心に南北約800メートル、東西約2キロメートルの範囲に、不整形ながら奈良時代から鎌倉時代に至る大溝や多数の大規模掘立柱建築遺構群ならびに平城京・平安京に次ぐ多量の各種緑釉陶器片を検出し、「楽殿」「宮の前」「御館」などの古字名とともに、160ヘクタールに及ぶこの地一帯が、かつて斎宮の宮殿や斎宮寮の諸寮司が幾世紀にもわたって造営された斎宮跡であることほぼ確定されるに至った。 斎宮の殿舎は、その最盛期と考えられる平安時代には斎宮の居住する内院、斎宮寮が所在する中院、寮に付属する11 013の司その他を含む外院の3区画に分かれ、官制上の定員300人以上を擁する大規模大組織であった。 文献資料に知られるこのような斎宮が、6 07世紀にわたって、どのような建築設計と機能的役割と管理維持が行われたかは、今後の計画的な発掘調査等によって得られる新知見・新資料によって次第に明らかにされるであろうが、その意義はわが国の古代 0中世における国家の政治・祭祀・工芸等の分野に従来の資料のみでは計り知れない新生面を切りひらくものであり、その意味で斎宮跡は歴史的に極めて重要な遺跡である。(文化庁)
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