三重県亀山市 関
Seki,Kameyama city,Mie
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日本一長い宿場町 |
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亀山市関町新所1173 地蔵院 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 元禄13(1700) 桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺、背面後陣、側面脇間付 棟札下書1点、地蔵堂再興日記1冊、地蔵菩薩本堂再興之由縁1冊、勘定帳1冊、江戸開帳願之記1冊 19880511
亀山市関町新所1173 地蔵院 愛染堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永7(1630) 桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺 19200415
亀山市関町新所1173 地蔵院 鐘楼 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永21(1644) 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺 棟札1枚、三町普請鐘楼堂修覆記1冊 19880511
Jan.13,2022 瀧山幸伸
東の追分から西の追分へ
百六里庭
地蔵院
会津屋
西の追分
東に戻る
地蔵院
東へ
玉屋
東へ
伊藤本陣跡
脇本陣跡
まちなみ資料館
東
山車会館
延命寺
亀山市関宿(重要伝統的建造物群保存地区)
東海道宿場町です。東西の追分け間の延長約1.8キロメートルにわたり,旧本陣をはじめとする平入2階建の町家群が軒を連ねています。
宿中央部には関の地蔵で著名な地蔵院が建っています。
(国指定文化財等データベースより)
当日はひなまつり市が開催されており、街道は歩行者天国になっていました。
地蔵院
所在地 三重県亀山市関町新所1173-2
開基を古代にもつ古刹で、関の地蔵さんとして知られている。
現本堂は元禄年間に江戸出開帳や地元からの寄付などによって資金を集めて建設された。
大工も地元であるが建築の質がよく、造営関係の文書が保存されていることも貴重である。
鐘楼は寛永年間の建築で、意匠が優れ、すでに重要文化財に指定されている愛染堂とともに伽藍を構成する建築として貴重である。
地蔵院は、関町関宿伝統的建造物群保存地区の中央部にあり景観上も重要な位置をしめている。
(国指定文化財等データベースより)
地蔵院は正式には九関山宝蔵寺といい、天平年間、行基菩薩の開基と伝わっています。
本堂(重要文化財)
元禄13(1700)年の建築
桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺、背面後陣、側面脇間付
鐘楼(重要文化財)
寛永21(1644)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺
愛染堂(重要文化財)
寛永7(1630)年の建築
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺
境内
August 16, 2005 野崎順次
関宿
三重県亀山市関
関は古代から交通の要衝であり、古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれていたところである。
昔の鈴鹿関は伊勢に抜ける重要なルートのため、時の権力者はここを押さえておく必要があった。
関の名もこの鈴鹿関に由来している。関所の置かれていた場所は一箇所でなく、時代と共に位置を変えたとされる。
江戸時代には、江戸から47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々、奈良や大和へ向かう人々で賑わった。
旧東海道の宿場町の中で、唯一歴史的な町並みが残る国の重要伝統的建造物保存地区に選定されている。
関宿の範囲は、東西追分の約1.8km、25haに及び、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42軒の記録が残る。
今も江戸時代から明治にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っている。
安藤広重筆による 関、その他浮世絵
関宿案内
町並散策
東追分
三重県指定史跡
関宿の東の入口にあたり、東海道と伊勢別街道の分岐点である。
大鳥居は伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の
鳥居が移されてくる。常夜灯、道標なども残っている。
広重の「隷書版」には雪景色の追分が描かれている。その中に描かれる一里塚はないが、位置は変っていない。
昔の雰囲気を最も残している町とされるだけに、両側の古い家が良く保存されている様子が手に取るようにわかる。
江戸時代の面影をここまで保存してくれた町の人たちに感謝したくなる。
関宿の町家の特徴である細工意匠に目を取られながら進む。
いっぷく亭木崎町
関宿散策拠点施設 一息入れる。
関宿の町家は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上を占めている。
平入りの二階建てが一般的であるが、二階前部を土壁で覆った塗籠のものが目を引く。
御馳走場
関宿に出入する大名行列の一行を、衣服を整えて宿役人や宿の亭主が出迎えたり見送ったりした場所。関宿に4カ所あった。
浅原家
屋号を江戸屋と称し、米屋・材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子。
明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり江戸期の面影を最も良く残す建物といえる。
障子の下張りに万延(1860〜61)の文字があったところからそれ以前の建築年代とされる。
大井家
代々玄庵を名乗る医家である。
明治初年には西洋に医学を学び、種痘医としてまた眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。
「本草綱目」など医学書の他、江戸末期の往診用駕籠医療機器などの一部が遺されている。
弘善寺と関神社
伊藤家(北店)
代々伊右衛門を名乗り肥料屋、米穀屋、酒屋を家業とした。
この家屋は問屋場の建物を移転改築したもので、擦り上げ戸など当時の遺構が見られる。
雲林院家(開雲楼)と遊快亭 坂口家(松鶴楼)
この二軒は関を代表する芸妓置場である。東側の開雲楼を見ると、表の堅繁格子やベンガラ塗りの鴨居
や柱、凝った意匠の二階手擦りや格子窓などにその面影を残す。
百五銀行
町並みに配慮した銀行。平成9年度、三重県さわやかまちづくり賞を受賞した。
雰囲気漂う町並みが続く
延命寺
山門は、旧川北本陣の門を移設したもの。亀山市指定文化財
瑞光寺
瑞光寺は中世にこの地を治めていた関氏ゆかりの寺。
境内にある権現柿は、徳川家康が関宿に立ち寄った時、賞味したと伝わる柿の木である。
町家の細工瓦
桶屋さんの端瓦である。
関まちなみ資料館
関宿の伝統的な町家を公開した資料館。関の文化財の紹介や関宿に関係する歴史資料などを展示している。
脇本陣
山車倉(だし)
「関の山」という言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あった。元禄年間(1688〜1703)から伝わる祭。
互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。現在は4基の山車がある。
岩木屋 (吉澤家)
屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業、味噌・醤油醸造業を営む。酒は「岩泉」と銘うった。
明治17年(1884)の建築で、連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。
川北本陣跡町並文化センター
百六里庭(眺関亭)
関宿の町並みの中に生まれた小公園。関宿が江戸から106里余りにあることから名付けられた。
通りに面した建物眺関亭二階からは関宿の家並みが一望できる。
通りに面した建物眺関亭二階からは関宿の家並みが一望できる。
伊藤本陣跡とその付近
川北、伊藤本陣があった。本陣は参勤交代の大名や、公家、公用の幕臣などが利用した格式の高い宿泊施設である。
間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの桧皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の
居住と大名宿泊時の道具置き場に供した建物である。
橋爪家
代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文(1661〜73)の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大阪の「鴻池家」と並び
称せられる豪商だった。江戸期には芸妓の置屋となって栄えた。
街道に面した手擦付きの二階妻入り建てであるが、これは明治期の改造で、元は平入りであった。三角形屋根は珍しい。
石垣屋 辰巳屋
初代石垣杢平が現四日市の朝明郡保々村より来る。二代目杢平は肥料商を始め、後に米穀の販売を営む。
当屋敷は明治24年(1891)に建てられた。
鶴屋 「別掲」
玉屋、会津屋とともに関を代表する旅籠の一つ。江戸時代の終わりには脇本陣もつとめた。
座敷の前についた千鳥破風がその格式の高さを示す。
関の銘菓として名高い「関の戸餅」を売る深川家 一口サイズのかわいい餅で、昔ながらの懐かしい味がふくらむ。
庵看板(いおりかんばん)
瓦屋根のついた立派な看板。看板の文字は京都側が漢字、江戸川側がひらがな。旅人が向かう方向を
間違えないための工夫といわれている。
今も営業を続ける旅館「御茶新」と銘菓白玉を売る「白玉屋」
高札場跡(関郵便局)
関宿のほぼ中心にある関郵便局、ここにはもと高札場があったところ。往時の高札場が復元されている。
郵便局の敷地は天正20年(1592)徳川家康が休息したという御茶屋御殿跡。ポストの名は「書状集箱」
福蔵寺・小万の墓
福蔵寺は秀吉に敗れて自刃した「織田信孝 信長の三男」の菩提を弔うために建立された。
関の「小万」は孝女の仇討ちで知られ、鈴鹿馬子唄にもうたわれている。
その墓と記念碑が福蔵寺内にある。裏門は玉屋の向かいにあった萩屋脇本陣から移築したもの。
停車場道
明治23年(1890)、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として
整備された。「ステンショ道」とよばれていたとか。
地蔵院 「別掲」
国重要文化財
「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」と俗謡で名高い関地蔵院
境内の本堂、鐘楼、愛染堂が国重要文化財に指定されている。
地蔵院付近の町並み 米をつく水車から名付けられた「川音」や伝統のある「鍛冶屋」など特色のある町家が並ぶ。
会津屋洋館屋
会津屋は関宿を代表する旅籠の一つ。もとは山田屋といい、小万が育ったことで知られる。
二階に洋風意匠の窓がついた「洋風屋」
ここの前身が「小万」が住んでいた「山田屋」の跡だという。恐らく小万は毎日関の地蔵様に仇討ち祈願の願をかけていたかも。
関宿所で江戸後期に栄えた≪田中三家」のひとつである「松葉屋」、 関の特産火縄を扱う
江戸時代の関宿の特産物として火縄があり、新所を中心に数十軒の火縄屋があった。
火縄は鉄砲に用いるため大名の御用があったが、道中の旅人もタバコに使うため大いに繁盛した。
関の近くでは火縄に適する苦竹(にがたけ)が沢山取れ、その竹を叩いて繊維質を取り出し、縄状にして火縄にした。
田中家住宅について「別記」する
新所の町並み
地蔵院を出た関宿は緩やかに曲がっていて、宿の中心地から西に追分に向かう。
観音院
説明では嵯峨天皇の時代(室町時代)の創建された古い寺。
観音院を越えると先は下り坂になっていて、まもなく関の出口である「西の追分」
出口手前に西追分・休憩施設がある。東海道と伊賀街道の分岐点。
西の追分付近
当時は宿の出口であると同時に「東海道」と「大和道」との追分になっていた。大和道はここから東海道と分かれて
左手に入り、加太峠を越えて大和、奈良方面へ出て行った。
「ひだりハいがやまとみち」と刻まれた昔の道標や「鬚題目碑」などがある。
芭蕉も生家の伊賀上野へとこの追分から故郷を目指して旅たったのであろうか。
この先は、「坂ノ下宿」で今は殆ど面影が残っていないとされる。
主な建造物の細部
まちなみ資料館
昭和60年に関町が買取った町家。建築年代は文久年間(1858〜66)以前とされる。
元旅籠屋だった場所を改造した資料館。昔のままの間取りだから、間口は狭いが奥行きの広いのには驚かされる。
建物は街道沿いから、主屋 角屋 土蔵で構成され、主屋の東側(江戸より)を土間・西側(京がわ)に床を張る。
一階にはビデオや貴重な資料が置かれる。ピカピカに磨き上げられた廊下などは今の家にない雰囲気。
保永堂版「東海道五十三次 関」 歌川広重 画
二階の天井はとても低い。資料の展示がある。
塗籠部分の格子窓と部屋
関宿旅籠 玉屋歴史博物館
玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する
大旅籠の一つ。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築に、当時使われていた道具類や、庶民の旅に関係する歴史
資料などを展示して、江戸時代に栄えた旅籠の世界を再現してある。
寛政12年(1800)頃からこの場所で旅籠を営んでいたとされる。
東海道に面した主屋は、慶應元年(1865)に建築された二階建、外観は二階を漆喰で塗り籠める普通の形式である。
江戸時代の建物としては特別軒が高く、屋号に因んで宝珠をかたどった虫籠窓が特徴的である。
一階は、土間(トオリドマ)西側にある板の間(ミセ・チョウバ)と座敷、及び二階が、家族や奉公人の生活に使われていた。
トオリドマから続九吹き抜けの広い土間(ニワ」は、宿泊客の食事などを準備した勝手である。
土蔵
長い歴史を語る諸々が展示してある。宝珠紋様の入った食器や襖に張られた宿帳もある。
土蔵に展示の行書版「東海道五十三次 関」 歌川広重の浮世絵
二階座敷
虫籠窓部と客室
離れ
見事な欄間
中庭と庭
地蔵院
正式には「九関山宝蔵寺地蔵院」と呼ばれ、関宿のほぼ中央に位置し、境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が
国の重要文化財に指定されている。
地蔵菩薩座像は天平13年(731)行基作と伝わり、わが国最古の地蔵菩薩といわれている。僧・行基が諸国に流行した
天然痘から人々を救うため、この関の地にお地蔵様を刻んで安置したのが、始まりとされる。
「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と歌われたほど円満な顔だちのお地藏である。
本堂
国重要文化財
本堂は 四代目、元禄13年(1700)五代将軍徳川綱吉公の建立。
母君の桂昌院が、このお地蔵様を信仰され、そのお陰で綱吉公が誕生されたとされる。
桁行5間、梁間4間 一重 寄棟造 向拝一間 本瓦葺 背面後陣 側面脇間付
天井の見事な天井画174枚が目を惹く。
仏典を題材にのっとり描かれたもので、元禄時代の絵師狩野永敬が10年の歳月をかけて描いたもの。
行在所(あんざいしょ)
書院の中に一段高くなった部屋。江戸時代、諸国の大名や御公卿の方々がご参詣の時に休息された部屋。
愛染堂
国重要文化財
寛永7年(1630)建立 三重県で最古の建造物といわれる。
桁裄3間 梁間3間 一重 寄棟造 向拝1間 本瓦葺
鐘楼
国重要文化財
寛永21年(1644)建立
桁裄一間 梁間一間 一重 切妻造 本瓦葺
一休禅師の関地蔵開眼ばなし
「関の地蔵に振り袖着せて、奈良の大仏婿(ムコ)にとる」の俗謡で名高い地蔵堂であるが、途中火災などに遭い、そのたびごとに再興されたという。
むかし地蔵の開眼(カイゲン)供養をたまたま通りあわせた一休(イッキュウ)禅師(1394〜1481)に頼んだところ、禅師は地蔵にむかって「釈迦はすぎ、弥勒(ミロク)はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠(ヨ)み、前をまくって立小便をして立ち去った。人々は怒って別の僧に頼んで開眼供養をやりなおしたが、その夜世話人に高熱が出た。夢枕に地蔵が立ち、せっかく名僧の供養で開眼したのにと、供養のやりなおしを命じた。あわてて桑名の宿にいた禅師に助けを求めると禅師は古びた下帯をはずして地蔵の首にかけるよう手渡した。人々は半信半疑で言われた通りにすると、世話人の高熱はたちまち下がったという。関の地蔵が首に麻の布切れをまいているのはこの故事によるとか。(重要歴史探訪より抜粋)
地蔵院関係参考資料≪西国愛染霊場会事務局HP、国文化財データーベース、他≫
関宿の町家の特徴
関宿の町家で最も古いものは、18世紀中頃の建築とされる伊藤本陣である。
明治時代中頃までのものが半数以上を占めている。
平入の二階建が一般的であるが、二階前面を土壁で覆った塗籠のものが目を引く。
代表となる「田中家」の詳細
町家の細部意匠
関宿の町家には、庇下の幕板、軒の持ち送りの繰形、二階の虫籠窓や漆喰細工、起(むく)り屋根、格子、建具など
細部の意匠に工夫されたものが多くある。
特に、漆喰細工や瓦細工は、子孫繁栄、家運長久などを願って職人が技をこらして作ったもの。
こうした様々な細部の意匠は、宿場町を行き交う多くの人々を楽しませる。
幕板と持ち送
庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除け。
座敷の前の出格子窓は、明治以降に取り付けられたもの。店の前に取り付けられた、上げ下げが出来る棚のこと。
虫籠窓(数例)
町家の正面二階にある、漆喰で塗籠めた堅格子窓のこと。さまざまな形が見られる。
漆喰彫刻
虎・龍・虎・亀・鶴など) 一例
細工瓦 器
桶屋さんの端瓦
その他
A camera
地蔵院
B camera
Feb.2005 関の街並 瀧山幸伸 source movie
673年、天武天皇は都の飛鳥浄御原宮を守る目的で、東海道の鈴鹿関、東山道の不破関(関ヶ原付近)、北陸道の愛発(あらち)関(敦賀市疋田付近)を設置した。関宿は東海道の四十七番目の宿場であるとともに、伊勢別街道、大和街道が分岐する交通の要衝であり、現在においても第二名神道路が近くを通過するなど、地理的に重要な位置を占めている。
また、町の中央には中世から周辺地域の信仰を集めた地蔵院が立地し、この寺の門前町としての街並形成も複合されている。
天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、632戸、1,942人と大きな町であった。
この宿場町には江戸後期から明治にかけて建てられた町屋が200棟以上も現存し、延長が1.8Kmに及ぶ全国一長い宿場町として有名であり、昭和59年(1984)国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
保存地区は、木崎・中町・新所・北裏の4つの地区に大きく分かれ、それぞれ特色ある街並を形成している。
新所は関宿の西側に位置する。地蔵院門前の東側は中二階が多く西側は小規模な平屋が多い。
北浦は街道から一歩入った寺町である。
中町は関宿の中央に位置し、本陣、脇本陣、問屋、旅籠などの宿場機能が集積し、町屋の虫籠窓、鏝絵などの意匠が華やかである。
木崎は関宿の東側に位置し、平屋ないし厨子(つし)二階(二階の天井が通常より低い町屋)が多い。
Feb 2005 瀧山幸伸 街並を車で走る source movie
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