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三重県鈴鹿市 伊奈冨神社

Inoujinja,Suzuka city,Mie 

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  General
 
県名勝古代庭園七島池
  Nature
 
 
  Water
 
  Flower
 
県名勝つつじ
  Culture
 
 
  Facility
 
  Food
 


Mar.30,2019 野崎順次 source movie

三重県鈴鹿市稲生西2-24-20

伊奈冨神社(いのうじんじゃ)

(Inoujinja Shrine, Suzuka City, Mie Pref.)

当神社は社伝によれば、神代、東ヶ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ、今より遡ることおよそ二一〇〇年の崇神天皇五年、霊夢の神告により勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を占われ、神路ヶ岡に大宮・西宮・三大神の三社を鎮祭されました。その後、仲哀天皇の御子品屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え(※1)、雄略天皇五年には数種の幣物が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜りました。降って奈良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、獅子頭を奉納、七島池を一夜にして造られたと伝えられております。貞観七(八六五)年四月、正五位上より従四位下に進階し(三代実録)、延喜式内社に列せられております。当時の神領は東は白子、西は国府、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進階し、文永十一(一二七四)年三社それぞれに勅額を賜りました。以後「正一位稲生大明神」として武門武将の尊信篤く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家より造営料銀二十二貫を賜り、三社の大造営をなしております。明治期に入ると明治六年に郷社、同三十七年に県社に列せられましたが、戦後この制度は廃止され現在に至っております。

(本神社公式ウェブサイト)

      

県名勝 伊奈冨神社庭園 七島池 上古 多島式神池

この七島配列という多島式の神池は、上古の海神の多島配置であるから、宗像系や、出雲系、または神武系と異なって、伊勢地方における別系の神社祭祀の諸島と考えられる。これについて参考となるのは、当社所蔵の古文書中に、「稲生大明神御縁起」があり、これには

七所之別社

第一 八幡大菩薩 一社

第二 山王権現神社 一社

第三 山本大明神 一社

第四 中跡大明神 一社

第五 福住大明神 一社

第六 大古曾大明神 一社

第七 比伊留大明神 一社

と記されていて、大体に七島七社の配置が考えられる。もとよりこの七社も、垂迹説の起こった以後の神名であるから、七社七島の参考とはなるが、必ずしもこの神々という訳ではない。むしろこの七神七島の形式は、いずれの場合でも海神であるから、この地方特有の海神配島であって、これらの島々は、いずれも島それ自体が本来は神として崇拝の対照であるから、この島の上に神々をまつったのではなく、上古の形式で考えると、島自体を神として配島したものであり、宗像三島三神ものと似た点もあるが、直線状でありながら、中央の二島が異例の配置である。当社所蔵の「勢州稲生村三社絵図」は古図であり、現実にそのままの姿で画かれていて、その神池の保存されていることは珍しい。

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」伊奈冨神社神池・神島より)

                                    

参道を進む。

            

拝殿、本殿など

            

県名勝 むらさきつつじ

境内は一名つつじ山とも呼ばれ、全山数千本といわれるむらさきつつじ(和名・コバノミツバツツジ)が群生している。つつじの高さは三m余りに及ぶものが無数にあり、四月上旬から中旬にかけての開花期には紫雲がたなびくような美観を呈する。

(本神社公式ウェブサイト)

まだ咲き始めである。

                  

稲生民俗資料館、七島池修復工事の展示がある。

                                                       

帰り道の花々

                       

最寄りの駅、伊勢鉄道伊勢線 鈴鹿サーキット稲生

        

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