三重県津市 専修寺
Senjuji,Tsu city,Mie
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津市一身田町2819 専修寺御影堂 国宝 近世以前/寺院 江戸中期 寛文6(1666) 桁行九間、梁間九間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺 19610607
津市一身田町2819 専修寺如来堂 国宝 近世以前/寺院 江戸中期 延享5(1748) 桁行五間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺 19610607
津市一身田町2819 専修寺 山門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 宝永元(1704) 五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、北面三間張出し付 20130807
津市一身田町2819 専修寺 唐門 重文 近世以前/寺院 江戸末期 天保15(1844) 四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 通天橋 重文 近世以前/寺院 江戸後期 寛政12(1800) 桁行九間、梁間一間、一重、唐破風造、本瓦葺 棟札1枚 20130807
津市一身田町2819 専修寺 御廟拝堂 重文 近世以前/寺院 江戸末期 安政5(1859) 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、背面千鳥破風付、本瓦葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 御廟唐門及び透塀 重文 近世以前/寺院 江戸末期 江戸末期 "御廟唐門 四脚平唐門、檜皮葺 透塀 東方一四間、西方一二間、潜門付、檜皮葺" 骨堂1棟 20130807
津市一身田町2819 専修寺 鐘楼 重文 近世以前/寺院 江戸中期 正徳元(1711) 桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、本瓦葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 茶所 重文 近世以前/寺院 江戸後期 江戸後期 桁行18.5m、梁間13.3m、一重、入母屋造、本瓦葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 太鼓門 重文 近世以前/寺院 江戸末期 文久元(1861) 桁行19.9m、梁間5.5m、四重、入母屋造、本瓦葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 大玄関 重文 近世以前/寺院 江戸後期 江戸後期 桁行32.1m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺、正面玄関附属、入母屋造、軒唐破風付、本瓦葺 20130807
津市一身田町2819 専修寺 対面所 重文 近世以前/寺院 江戸後期 天明5(1785) 桁行24.5m、梁間19.5m、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺 棟札1枚 20130807
津市一身田町2819 専修寺 賜春館 重文 近世以前/寺院 明治 明治11(1878) 桁行18.8m、梁間14.2m、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺、南面便所附属、入母屋造、桟瓦葺 20130807
June 27, 2020
野崎順次
source movie
親鸞聖人は関東各地を御教化中に、明星天子の夢のお告げを得て、54歳のとき栃木県真岡市高田の地に一宇を建立し、専修念仏の根本道場とせられ(後に専修寺 本寺と称します)ました。
ご本尊には、長野の善光寺からお迎えした一光三尊佛をご安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏上人が管理に当たられました。ここを中心とした教団は、関東各地の檀信徒の中で最も有力な教団となり、京都へお帰りになった聖人からは、しばしば自筆のお手紙や、ご自分で書き写された書物などが送られ、関東の門弟及び檀信徒の御教化にもますます取り組まれておりました。
その後、真仏上人を中心とした関東の門弟、檀信徒の教団を高田教団と呼ぶようになり、そして次第に発展し、専修寺は本寺と呼ばれ全国的に崇敬を集めるよう
になりましたが、それを一段と飛躍させたのが第10世真慧上人で、東海、北陸方面に教化を拡げると共に、朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所ともな
りました。一身田の専修寺はその真慧上人が伊勢国内の中心寺院として建てられたものでしたが、関東の本寺が兵火によって炎上したため、歴代上人が一身田に
居住されるようになって、ここが本山として定着しました。
一身田専修寺の伽藍は2度の火災に遭いましたが、りっぱに再建され、住持には皇族をお迎えして、門徒の崇敬はますます高まりました。数多い親鸞聖人のご真筆類は、今も大切に伝持され、教団の誇りとなっています。
(専修寺公式ウェブサイトより)
境内は国史跡に指定されている。
パンフレットと現地説明板
国重文 唐門 江戸末期 天保15(1844)
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
御飯講と第二納骨所
市文 釘貫門と石橋
国重文 山門 江戸中期 宝永元(1704)
五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、北面三間張出し付
国宝 御影堂 江戸中期 寛文6(1666)
桁行九間、梁間九間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
国重文 通天橋 江戸後期 寛政12(1800)
桁行九間、梁間一間、一重、唐破風造、本瓦葺 棟札1枚
国宝 如来堂 江戸中期 延享5(1748)
桁行五間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺
太子堂
ハスとアジサイ
国重文 御廟唐門および透塀 江戸末期
四脚平唐門、檜皮葺 透塀 東方一四間、西方一二間、潜門付、檜皮葺" 骨堂1棟
国重文 御廟拝堂 江戸末期 安政5(1859)
桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、背面千鳥破風付、本瓦葺
御廟
雲幽園 南北朝時代 池泉回遊式
この池庭は専修寺創建以前の池庭である。(中略)ちょうど元弘三年に伊勢斎宮の祥子内親王がこの地を方料として賜り、その邸があって、おそらく本庭はその庭園ではないかと考えられる。
今本庭を一覧すると、この池庭は面積約三千二百五十坪もある広大な池庭であって、その北西部に現状の書院と安楽庵という茶亭とがある。この池庭は、安楽庵茶亭の東南部の大池庭と、さらにずっと西南部にある大池庭とが折れ曲がった地割となり、そして大池庭には中央に大島一島だけがあり、西南の大池庭には小島二島がある。
このような大池庭の様式は、鎌倉末期から南北朝にかけての典型的な地割様式を示すもので、その好例は知恩院(旧常在光寺)の池庭、等持院(旧真如寺)の池庭、,天授庵(大明国師塔所)の池庭、宗隣寺(旧並・済寺)の池庭その他があ・て・本庭がその頃の池庭であることを語っているのである。
ただ現状ははなはだしく荒廃していて、ほとんど護岸石組すら見られないが、その地割の美は日本庭園史上の好参考資料である。
(重森三玲「日本庭園閲覧辞典、昭和49年」高田専修寺庭園より)
通常、庭園は公開されていないが、御廟の背後の納骨所に行く道から西南部の一部が見える。公開時の入り口は東側、御影堂の裏手、渡り廊下の下である。
国重文 茶所 江戸後期
桁行18.5m、梁間13.3m、一重、入母屋造、本瓦葺
国重文 鐘楼 江戸中期 正徳元(1711)
桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、本瓦葺
市文 銅鐘 江戸時代
歌碑と蓮池
国重文 大玄関 江戸後期 江戸後期
桁行32.1m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺、正面玄関附属、入母屋造、軒唐破風付、本瓦葺
国重文 対面所 江戸後期 天明5(1785)
桁行24.5m、梁間19.5m、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺 棟札1枚
宝物館、有慶堂、食堂、大講堂、婦人会館
国重文 太鼓門 江戸末期 文久元(1861)
桁行19.9m、梁間5.5m、四重、入母屋造、本瓦葺
一身田寺内町
Ishinden Jinaimachi
一身田が大きく変わったのは、1464年、真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院(専修寺の前身)を建立してからのことです。その後、栃木県の高田にあった高田専修寺が戦火にみまわれて、真慧上人が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となりました。
寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、1592年の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられます。
17世紀の中頃までは、現在の区域の半分足らずの大きさでしたが、1658年に津藩の二代藩主である藤堂高次の四女いと姫が専修寺の門主に輿入れするにあたり、当時の専修寺の西側の土地を寄進したことによって、現在の寺内町の形となりました。
明治時代になり、宗教団体が境内と墓地以外の寺領を持つことを禁じる法律が制定されたため、専修寺も多くの寺領を失いました。1874年には、赤門・黒門・桜門の三つの門がすべて売りに出されるなど、寺内町も大きく変わっていきました。
(「一身田なび」より)
以下の説明も「一身田なび」からの引用です。
パンフレットと現地説明板
津駅、一身田駅、駅前通り
環濠
東西約500m、南北約450m。南側は毛無川を利用しています。寺内町を区画することに加え、町を防御する機能もありました。一身田の環濠は、寺内町の周囲を巡る環濠としては、日本で唯一ほぼ完全な形で残る貴重なものです。
環濠に囲まれた寺内町には、濠に橋を掛け、内側に門を建てた出入り口が三カ所ありました。
黒門は寺内町の惣門で、門の横には番所がありました。伊勢方面への出入り口で、芝居小屋や水茶屋などが立ち並び、昭和三十年頃まで大変にぎわいました。桜門は、京都方面の出入り口であり、濠の堤に桜並木があったことが、その名前の由来となっています。
寺町通り、専修寺の前の真直ぐな道
映画「江戸の朝霧」ロケ地、太鼓門と慈智院の間の道
慈智院、筆頭三ヶ寺の一つ、本堂(県文)は一身田最古の建築、寛永16年(1639)。
矢来跡
かつての黒門から北に進んだ最初の三叉路に立つ道標です。もともと町の人々への通達を記した高札が立てられた場所で、交通の要所であったことが伺えます。
五郎太夫本店で昼食、中華以外は何でもある。天丼750円は予想以上においしかった。
仲之町通り、寺町通りに並行する.
旧村界水路、もとの一身田村と窪田村の境界の溝でしたが、1658に津藩二代藩主藤堂高次が娘を専修寺に輿入れさせるにあたり、この溝の西側の窪田村領地を専修寺に寄進しました。この溝を境に、寺内町の地番は三桁と四桁に分かれるなど、今も村境であった名残が垣間見えます。
さらに仲之町通りを進む。
向拝前、釘貫門
向拝前と書いて「ごはいまえ」と読みます。専修寺に向かい門前で拝するという意味の町名です。専修寺山門の正面で、かつては旅籠や店が並び賑わいました。
仲之町通り
帰途
Jan.6,2017 中山辰夫
三重県津市一身田町2819
山号は高田山。真宗高田派の本山で、伊勢国内をはじめ、三河、越前など全国に650の末寺を持つ。栃木県二宮町にある専修寺を起源とする。
現在は三重県の専修寺を高田本山、栃木県の専修寺を高田本寺と呼び、区別している。関東で教化を行っていた親鸞が神のお告げで専修念仏の道場を建立した。それが高田本寺である。
高田本山は室町中期の1464(寛正5)年、当時の伊勢国における教団の拠点として第十世・真慧(しんね)が建立した無量寿院(寺)が草創である。
教団の中心であった下野国高田の専修寺が兵火で焼失し、1548(天文17)年からは専修寺の住持が無量寿院に住むようになり、教団の中心が三重に移り、寺名も専修寺となった。
現在の伽藍は、2度の火災を経た3度もの再建で、約10万㎡の境内に巨大な御影堂(みえいどう)と如来堂などが並び、周囲に末寺、坊舎や町家を配し、さらに外側を濠で囲むという寺内町(じないじ)の形態をとる。
1658年以降、津藩の援助で整備された伽藍は13棟あり、多くが重要文化財で豪華絢爛たる彫刻が施されており、その多彩さは栃木日光東照宮の影響を受けているともいわれる。又、国宝の親鸞真蹟を数多く所有することでも知られる。
境内案内図と歴史
唐門
如来堂の正面に建つ四脚門 国重要文化財 檜皮葺の屋根の正面・背面に大きな唐破風がある 総ケヤキ造 装飾が隈なく覆う 完成まで35年かかる
大工の頭領は近江八幡野高木光規・光一で、二代にわたる 光規は如来堂を手掛けた人物の孫である
専修寺の勅使門として使われた 扉や柱間などには華麗な彫刻が、扉中央には大きな菊花紋をはじめ華麗な彫刻が施され目を惹く。
近くにある手水舎
山門
御影堂の前に建つ 専修寺伽藍の総門である 国重要文化財 入母屋造、本瓦葺の巨大な二階建ての門 山門としては最高の格式
五間、三戸、二階二重門形式 「指肘木」などの大仏様式の建築技法を取り入れている 左右対称の建物 外側・内側に石畳が延びていて美しい
二階軒下の額は、親鸞聖人550年遠忌が勤められた1811(文化8)年に掲げられた。額字は弘法大師流といわれる
楼上には釈迦三尊仏を安置している
茶所(ちゃじょ)
山門に入って直ぐ右手にある湯茶の接待所である 国重要文化財 正面:向拝、一間、唐破風付 本瓦葺
鐘楼及び銅鐘
山門から入ると右手斜め日横行に建つ 国重要文化財 一間四方で、入母屋造の屋根に、四本の隅柱は柱の先を内側に斜めに倒した四方転びという形式を取っている。
「四方転び」というのは屋根を支える柱の足が斜めに倒れていることをいう。
銅鐘は「慶安5年鋳造」(1652)に、専修寺の第十五世堯朝上人の内室高松院が、夫の7回忌を迎えるにあたり、辻越後守重種とその一族に鋳させた
辻は近江の人で多くの作品を残す 銅鐘は市文化財
銅燈籠
市文化財
御影堂前の二基は、唐獅子が浮き彫りされた基礎や火焔の付いた宝珠が傘の上に乗る均整のとれた造りである。津の鋳物師である辻越後守陳種の代表作
太鼓門・食堂・大講堂・高田会館
太鼓門
専修寺の東側にある左右に長屋がつく四重の櫓門 1760年ごろの絵図には現在いの場所に描かれている 国重要文化財
内部に大きな太鼓が吊り下げられている門 街の人々に時を告げていた。
食堂 改修中
大講堂
高田会館
お土産の販売や団体の宿泊を受ける
太子堂
如来堂
御影堂の西側、唐門の正面に建つ 国重要文化財 御影堂と同じように各柱の間が吹き抜けで、「通天」という廊下で結ばれる 規模は御影堂の半分程
間口25.66m 奥行26.62m 一重 裳階付 入母屋造 向拝三間付 本瓦葺 この堂が本堂 屋根が二層、棟の高さを御影堂と合わせるための工夫
屋根は入母屋造の本瓦葺で、裳層をつけ、裳層正面には唐破風の向拝が設けられ、真宗寺院には珍しく禅宗風の仏殿形式
鶴の彫刻 大屋根の東と西の妻にある。夜になると飛び立つ伝説が残る。伊勢湾台風で首と右羽が吹きちぎられたが、平成2年の修復で元に戻った。
二層と下屋根の上層は、垂木が二股で扇形、それを四手先で受ける 下層の屋根は裳階と呼ばれる三種の庇となっている
尾垂木の先端に象・龍・瀑の彫刻が見られ、下層の裳階の軒廻りにある蟇股には中国の故事に基づく人物の彫刻(ごく一部)が組み込まれてある
堂内
「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来の木像が本尊 欄間の彫り物は一刀彫り、金色で華麗に装飾されている 精緻な彫刻の欄間
東南の礎石には「1743(寛保3)年7月12日」という日付とともに、「本覚道元信士 俗名勘六」という名が刻まれている 信徒が人柱になったとされる
通天橋
御影堂と如来堂を結ぶ廊下 国重要文化財 両御堂の縁側にかかり高床、板張り 柱間はすべて吹抜 全長31.86m 幅6.79m
唐破風造 本瓦葺 高欄付 屋根はいわゆる「照り起(むく)り」で、両端に唐破風をつける 床下は柱に三手先の挿肘木を挿し込んで、この縁側を受けている。
天井のあたりには細部に彫物を多用し、同一部材でも彫物の図柄や形に変化を持たせ、建物の単調さを防ごうとする工夫が凝らされている。
助六松
如来堂建立の際に人柱となった「助六」老人の言い伝えが残る
御影堂
山門をくぐると正面に見える 国重要文化財 専修寺最大の建物で、現存する木造建築物としては全国で5番目の大きさ 純和風
現在の建物は1645(正保2)年の大火後、津藩の援助で1666(寛文6)年に再建されたもの
標準的な二重虹梁組 典型的な三つ花懸魚 破風板に金色に輝く五七桐紋の金具
軒丸瓦の向拝を身舎につなぐ虹梁の上に笈形のついた太瓶束を乗せ、海老虹梁で身舎へつなぐ
1666年再建時の懸魚
軒下周りに見られる蟇股(一部である)
堂内中央の「見真」の額は、明治天皇から贈られた称号で、僧侶への称号としては最高の号 内部は739畳の畳敷きの空間
金欄巻の大きな柱や多彩な天井画、全面に見られる豪華な装飾で、荘厳な雰囲気を醸し出している。
句碑
「千部読む 花の盛りの 一身田」 芭蕉の門下珍願が本山の大法要「千部法要」に群参する善男善女の方々を詠んだ
大玄関・賜春館・御対面所・宝物館
大玄関
大玄関は境内地の中心やや東に位置し、御影堂の北東、対面所の南西に立つ。 国重要文化財
建立年代は殿舎が焼失した1783(天明3 )年の火災の後、対面所と共に再興された。平成24年に改修工事完了
賜春館
国重要文化財 1878(明治11)年に貴賓接待用として新築された書院 屋根を銅板葺とするほかは純和風の建築 明治工匠が傑出した手腕を見せている
明治天皇行幸の行在所にされることを祝って「賜春館」と命名 天皇の行幸は1880(明治13)年に実現 (青い銅版の屋根の建物)
御対面所(おたいめんしょ)
国重要文化財 入母屋造 妻入 向拝唐破風 法王が門徒と対面する所
宝物館・ほか
専修寺が誇る親鸞聖人真蹟の数々を収蔵する宝庫。昭和37年の宗祖700回大遠忌法要を記念して建造されました。展観室と収蔵室の二棟があり、とくに収蔵室は厳重な防湿構造です。
御廟—透塀・唐門
御廟
如来堂の西の奥に、開祖である親鸞聖人と歴代上人の御廟がある
透塀
国重要文化財 正面の唐門の廻りに透けて見えるように造られた透塀 唐門の両脇から東西につらなる 菱格子 腰回りに草花の彫刻
唐門
国重要文化財 一間一戸 檜皮葺 平入 隅々まで装飾彫刻が埋める
御廟—拝堂・墳墓
御廟は平成22年から平成24年にかけて、修復工事が行われた
御棒境内に入る手前にある井戸
拝堂
国重要文化財 前後千鳥破風付 本瓦葺 屋根の正面と背面に大きな千鳥破風、正面の軒に唐破風、やや大げさな外観に比べ内部は構造材を露出
御廟は平成22年から平成24年にかけて、修復工事が行われた
墳墓
装飾を省いた整然とした造り 切石でかこんだ土饅頭の頂上に墓標もなく四角い石が置かれているだけ 周りは石門と石柵にかこまれている
親鸞の歯骨五粒が納められている
霊幽園・安楽庵
専修寺庭園 8雲霊園) 県史跡・名勝
御影堂・如来堂の奥に、1万㎡にも及ぶとされる広々とした庭園がある この庭園が「雲幽園」と称される
「池泉回遊式」庭園である。中の島をもつ北よりの池庭と二つの小島をもつ南の池庭とからなり、この間を細い流れで繋いでいる。
参考図
古くは宝物館であった横を通り庭園に向かう。池の水はつい最近までは湧き水であったときく。
杉苔や種々の竹木が茂る中を進むと萱葺の屋根の惣門に出合う。池の水際は石組を全く使わない洲浜形で、作庭は室町時代以前ともいわれる。
更に進むと、大きな短冊型の2枚の延べ石使った石橋が掛かり、趣向を凝らした飛び石についてゆくと茶席「安楽庵」に至る。
この延べ石や飛び石の並びは織田有楽斎の好みとされる。茶席で使う水を汲む井戸を見かける。
安楽庵
茶席 江戸時代初期に造られた名席といわれる。その名は、千利休の長子道安と織田信長の弟有楽斎の名前のそれぞれ一字を取って名付けられたとされ、合作ともいわれる。内部構造も独特で、茶席へつづく辺りの石の配置一つにも趣向がこらされているとのこと。
茶室建物は萱葺 入母屋造 東側ににじり口をもつ 内部は南北に長い山上の広さ 足の悪い道安に合せた廊下や桟戸がある。
珍しい金明竹の群生 稈が黄金色で、芽溝部に緑色の縦縞が入る。中国原産の「まだけ(真竹)」の一品種
舟で往来していた船着場跡もある
帰路に見かけた池庭
一身田寺内町
最寄駅は紀勢本線 JR一身田駅
駅舎は、瓦葺屋根の前面に回廊のような庇をもち、寺の建物を連想させる造り 1923(大正12)に建築 1991(平成3)年改修
まちなか案内図
一身田寺内町は一身田町の一部、高田本山専修寺を中心に大きな寺や古い町並みが残る環濠に囲まれた町
「寺内町」とは、15世紀の終り頃から16世紀にかけて、浄土真宗の寺院を中心につくられた自治都市のことで、その多くは濠で囲まれていた
その町の中では、寺院、商家、住民(信者)が運命共同体の生活を行っていた。広く開放された境内では「本山さん」 「高田さん」と呼ぶ声が縦横していた
ほっとするまち 一身田寺内町
環濠に囲まれた寺内町には三カ所の入口があり、濠には橋が架けられ、その内側には門が建ち、明け六つ(午前6時)開門、暮れ六つ(午後6時)閉門された
これら三つの門は明治時代に売りに出され、現在は残っていない
寺町通りの町並み
本山前の通りは「寺町通り」とよばれ、左側は本山の境内、右側には末寺・ほかに伝統的な景観が残っている
専修寺の4つ末寺のうち、智慧光院・玉保院・慈智院の三寺が通りに並ぶ。三寺は専修寺に準じる高い格式を有する
山門の正面に向い合っているのが智慧光院と玉保院
智慧光院には唐破風、玉保院には長屋門が設けてある
慈智院は本山の角地にあり「角院」とも呼ばれる。一身田では最も古い建物.県指定文化財 木造阿弥陀如来像(市指定)も有する
厚源院 玉保院の東隣にある。合掌して立つ幼少の聖徳太子像がり県指定文化財である。子どもの夜泣きが治る「夜泣きの太子」の伝承がある
釘貫門(くぎぬきもん)
山門の正面にある 寺内(寺領)と地下(町家)を区分する門 1752(正歴2)年建立 8年後に石橋が架けられた。釘貫門と石橋は市文化財
この辺りは向拝前(ごはいまえ)の街並みといわれ、釘貫門をはさんでお寺に向かって門前で拝する意味からこの名がある。旅館や店が多く並んだ。
下津邸長屋門 国登録文化財
高田青少年会館の向かいにある「下津邸」の長屋門 専修寺の警護に当たった江戸末期の寺侍宅の門 大正時代より下津家邸宅の一部として使用されていた。入母屋造、桟瓦葺、板扉、潜り、簓子下見板張、物見格子、与力窓、無双窓などを配した風格ある外観である。
寺内町の館
寺内町の歴史や文化を紹介するガイダンス施設
高田幼稚園と角にある旧家
入口が専修寺の黒門ともいわれる 幼稚園は専修寺の境内にふくまれる
宮ノ前の一御田神社(いちみた)
真慧上人が無量寿院を建立する以前の一身田の様子を示す1443(嘉吉3)年の棟札を有する古社 周辺に集落があったことを示す 明治時代に改称
仲の町通りの町なみ
寺町通りに平行する通りで、歴史的な家並みも残る町並み 多くの商店が立ち並び、一身田の中心としての賑わいがあった
桜門跡(西の町)から入る
環濠の上に架かる 用途方面の出入口となっていた 濠に2〜5mの堤があり、名前は桜並木であったことに由来する
仲の通り商店街の様子である
案内図にある店名の店舗が並ぶ 今も専修寺の「御用掛」を掲げる商家も多くあるが、最近は空き店舗が目立ち始めたとか
連子格子の家が残る
幕板は雨除け、これを設けると暗くなる 丸長の繰抜きは「あかり取り」 四角の繰抜きは「来訪者」を窺うためのもの
道標
百五銀行の角に立つ 1837(天保8)年建立 「右江戸道」「左御堂井京道」と刻む 三叉路に建つ かっては高札も建てられていた交通の要衝の地
毛無川と外堀
環濠は、東西約500m、南北約450mの寺内町の範囲を明確にし、南側は毛無川を利用している 町内の区画と町の防御を目的とした ほぼ完全な形で残る
黒門跡付近 毛無川に架かる
橋内から寺内へ入る門は「黒門」と呼ばれ、この門は寺内町の惣門 門の横に番所があった ここは伊勢方面への出入口で、ここから南の橋内である
橋向の町並み
黒門跡から環濠(毛無川)に架かる常盤橋を渡り、伊勢別街道に当たるまでの約300mが「橋向」の街並み 1945(昭和30)年頃までは大変賑わっていた
この界隈はかっての歓楽街で、風情を感じさせる連子格子や妻入り二階建ての建物が道沿いに残っている 道は所々で鍵状に屈折している
伊勢別街道(江戸橋〜関)沿い
橋向からの道を合せた三叉路周辺 この付近の商店や民家からも昔の風情が感じられる。
角地にある建物は、伊勢木綿(臼井織布㈱) かっては多くの製造元があったが、現在は唯一の伊勢木綿の製造元
豊田佐吉が開発した豊田式自動織機が現役で活躍中
窪田の常夜燈
近江国の商人が本来は伊勢神宮に寄進する予定でここまで運んできたが、疲れ果て、これ以上運べなくなって、地元と相談の上この地に建立したとされる
1817(文化14)年の銘がある 伊勢別街道沿いは勿論、市内で最大の常夜燈である。高さは約8.6m 台座には寄進した980名余の人名が彫られている
February 28,2016 大野木康夫 source movie
所在地 三重県津市一身田町2819
専修寺は、津市街の北方に位置する真宗高田派の本山である。
正保2年(1645)の伽藍焼失後、順次、諸堂が再建された。
このうち境内中央の御影堂と如来堂は重要文化財に指定されている。
御影堂前の山門、如来堂前の唐門、御影堂と如来堂を結ぶ通天橋をはじめ、鐘楼や茶所が境内南側を構成する。
境内西側には華やかな彫刻で飾られた御廟の諸建築が、東側には大玄関、対面所、賜春館などの上質な殿舎群や、三重の太鼓櫓をもつ太鼓門が建ち並ぶ。
専修寺の堂舎群は、いずれも規模雄大で、優れた意匠を持つ。近世の浄土真宗本山寺院にふさわしい格式をもつ壮大な伽藍を創出しており、高い価値が認められる。
(国指定文化財等データベースより)
唐門(重要文化財)
天保15(1844)年の建築
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
山門(重要文化財)
宝永元(1704)年の建築
五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、北面三間張出し付
太鼓門(重要文化財)
文久元(1861)年の建築
桁行19.9m、梁間5.5m、四重、入母屋造、本瓦葺
対面所(重要文化財)
天明5(1785)年の建築
桁行24.5m、梁間19.5m、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺
大玄関(重要文化財)
江戸後期の建築
桁行32.1m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺、正面玄関附属、入母屋造、軒唐破風付、本瓦葺
賜春館(重要文化財)
明治11(1878)年の建築
桁行18.8m、梁間14.2m、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺、南面便所附属、入母屋造、桟瓦葺
鐘楼(重要文化財)
正徳元(1711)年の建築
桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、本瓦葺
茶所(重要文化財)
江戸後期の建築
桁行18.5m、梁間13.3m、一重、入母屋造、本瓦葺
御影堂(重要文化財)
寛文6(1666)年の建築
桁行九間、梁間九間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
御影堂〜通天橋〜如来堂
通天橋(重要文化財)
寛政12(1800)年の建築
桁行九間、梁間一間、一重、唐破風造、本瓦葺
如来堂(重要文化財)
延享5(1748)年の建築
桁行五間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺
御廟唐門及び透塀(重要文化財)
江戸末期の建築
御廟唐門 四脚平唐門、檜皮葺
透塀 東方一四間、西方一二間、潜門付、檜皮葺
御廟拝所(重要文化財)
安政5(1859)年の建築
桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、背面千鳥破風付、本瓦葺
Aug.16,2014 酒井英樹
撮影:2011年9月、 2014年4月
代表写真:mie-tsyucity-senshuji-miedosakaih-201109-001.jpg
《詳細は後日》
<御影堂>
正面9間、側面9間、組物二手先、中備蟇股、二軒繁垂木、入母屋造、妻二重虹梁大瓶束、本瓦葺
江戸時代[寛文6年(1666)]
≪蟇股彫刻≫
≪内部彫刻≫
<如来堂>
正面7間、側面6間、一重もこし付、組物禅宗様四手先詰組、もこし出組、中備蟇股、二軒扇垂木、もこし二軒繁垂木、入母屋造、妻二重虹梁大瓶束、本瓦葺
江戸時代[延享5年(1748)]
≪内部欄間彫刻≫
雅楽器
笙
龍笛
篳篥
鞨鼓
楽太鼓
古琴
簫
竪琴
迦陵頻衣装
<山門>
5間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、北面三間張出し付
江戸時代[延享5年(1748)]
<唐門>
四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、檜皮葺
江戸時代[天保15年(1844)]
≪門扉彫刻≫
<太鼓門>
桁行19.9m、梁間5.5m、四重、入母屋造、本瓦葺
江戸時代[文久元年(1861)]
<通天橋>
桁行9間、梁間1間、一重、唐破風造、本瓦葺
江戸時代[寛政12年(1800)]
≪彫刻≫
<鐘楼>
桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、本瓦葺
江戸時代[正徳元年(1711)]
<茶所>
桁行18.5m、梁間13.3m、一重、入母屋造、本瓦葺
江戸時代後期
<大玄関>
桁行32.1m、梁間10.9m、一重、入母屋造、桟瓦葺、正面玄関附属、入母屋造、軒唐破風付、本瓦葺
江戸時代後期
≪内部≫
<対面所>
桁行24.5m、梁間19.5m、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺
江戸時代[天明5年(1785)]
≪内部≫
<賜春館>
桁行18.8m、梁間14.2m、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺、南面便所附属、入母屋造、桟瓦葺
明治時代[明治11年(1878)]
≪内部≫
<御廟唐門>
四脚平唐門、檜皮葺
江戸時代末期
≪彫刻≫
<御廟透塀>
東方14間、西方12間、潜門付、檜皮葺
江戸時代末期
<御廟拝堂>
桁行5間、梁間4間、一重、入母屋造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、背面千鳥破風付、本瓦葺
江戸時代[安政5年(1859)]
≪蟇股彫刻≫
≪彫刻≫
July 2011 瀧山幸伸 source movie
A camera
門前
唐門
Karamon
如来堂
Nyoraidou
御影堂
Mieidou
鐘楼
山門
B camera
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