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三重県四日市市 四日市港

Yokkaichi port,Yokkaichi City,Mie

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四日市市稲葉町地先 四日市旧港港湾施設 防波堤 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治27(1894) 石造防波堤、延長199m 記念碑1基 19961210

四日市市稲葉町地先 四日市旧港港湾施設 西防波堤 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治27(1894) 石造防波堤、延長77m 19961210

四日市市高砂町稲葉翁公園内 四日市旧港港湾施設 顕彰碑 重文 近代/産業・交通・土木 明治 明治37(1904) 石造顕彰碑 19961210

四日市市末広町5・千歳町4 末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋) 重文 近代/産業・交通・土木 昭和 昭和6(1873) 鉄製プレートガーダー橋 四基(跳上橋 一基を含む)、コンクリート製橋台 二基(築堤部護岸を含む)・コンクリート製橋脚 四基(機械室を含む)、バランスウェイト・支柱及び巻上装置 一式(操作室を含む)よりなる 19981225


June 1,2025 大野木康夫 source movie

 

末広橋梁


所在地 三重県四日市市末広町5-29地先~千歳町10-11地先

【国指定文化財等データベースから引用】
 末広橋梁は、三重県四日市港に所在する跳開式の鉄道可動橋で、四日市港修築工事による第一号埋立地(末広町)と第二号埋立地(千歳町)間の千歳運河に架けられている。全長五八メートル、全体では五連の桁より成るが、鉄道起点寄りの第二連目から第四連目の三連が可動橋本体部にあたり、中央の一連(第三連目)が第二橋脚上に建てられた門型鉄柱側に跳ね上がる可動桁となる。
 可動橋型式は、門型鉄柱の頂部に架け渡されたケーブルにより可動桁の一端を持ち上げるケーブル・タイプで、設計製作は、アメリカ留学の経験を有する山本卯太郎の主宰する山本工務所で、昭和六年十二月の製作になる(可動桁主桁側面中央及び門型鉄柱頭部の銘板による)。
 中央の可動桁は、回転軸廻りを除けば標準的な五○フィートの単線下路式鋼鈑桁で、可動桁前後の第二連目と第四連目の鋼鈑桁も標準的な四○フィートの単線下路式鋼鈑桁であるが、第五連目の鈑桁は、いわゆるポーナル型の二○フィート上路式鈑桁になる。門型鉄柱は高一五・六二メートルで、一○○ミリ角のアングル材で組み立てられている。また、鉄道起点寄りの第一橋台と第一橋脚の間は跳上装置の機械室となっており、機械室の脇に木造平屋建の運転操作室を建てる。橋台及び橋脚はコンクリート製になる。
 末広橋梁は、四日市旧港港湾施設(平成八年十二月十日重要文化財指定)とともに四日市港の発展過程を示す土木遺構として貴重であり、陸上輸送と運河舟運とが拮抗していた時代状況を物語る典型的な橋梁遺構としての歴史的価値を有する。また、日本近代における橋梁コンサルタントの草分け的存在であり、可動橋を専門とした山本卯太郎の代表的橋梁作品として橋梁技術史上の価値が高い。


末広町側から

                                     

臨港橋から

   

千歳町側から

                              

臨港橋に戻る

  

末広町側に戻る

         

 

 

四日市旧港港湾施設

June 1,2025 大野木康夫 source movie

【国指定文化財等データベースから引用】
 古くから良港として知られた四日市湊が、近代港湾としての形を整えたのは明治十五年(一八八二)のことである地元の廻船問屋稲葉三右衛門が私財を投じて開始した改修工事は、途中三重県への移管を経て三右衛門自身の手にょり完成し、このとき現在旧港とよぱれる港湾施設のおおよその形が整えられた。その後明治二十一年の暴風雨と翌年の台風によって防波堤が破損したため、同二十六年から公営による改修工事が着手され、翌年に竣工している。
 四日市旧港港湾施設は、防波堤と西防波堤からなり、西防波堤の側の陸地に顕彰碑、同じくその付け根に「明治廿七年五月建立」の銘をもつ記念碑がある。
 防波堤は、総延長一九九メートルで、旧港湾内を包み込むように湾曲して延びる。埋立て高四・七メートル(以下大堤という)と三・七メートル(以下小堤という)の防波堤が平行する二列構造をとり、大堤には五角形の水抜穴が四九か所設けられている。この特徴的な防波堤の構造は明治二十七年の改修時に設けられた。この改修工事を請け負ったのは服部長七であり、彼が発明したとされる人造石工法がこの防波堤にも用いられている。港外側の小堤を越えた海水が両堤の間にある溝にたまり、水抜穴から港内に流れ出すようになっており、波の力を直接受けて防波堤が破損することを防いでいる。水抜穴から海水が流れ出す様子から「潮吹防波堤」の名で親しまれている。この特徴的な形態の考案者は、服部長七ともオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケとも伝えられるがいずれも確証はない。
 昭和十六年(一九四一)から二十一年にかけて防波堤の付け根の直線部分を東に延長した線上より北側が埋め立てられ、さらに同二十七年から三十年にかけて防波堤の先端と先の埋立て地を結んだ地域まで埋立てが進んだ。また、昭和三十七年には伊勢湾台風後の高潮対策として大堤の上部にコンクリートによるかさ上げが行われ、水抜穴も埋められているが、先端部約一四・七メートルはかさ上げと水抜穴の封鎖がなされなかったために、旧状を残している。
 西防波堤は、石積みで総延長七七メートルであり、直線状に延びている。防波堤と同じく、上部にコンクリートによるかさ上げが行われている。
 顕彰碑は、私財を投じて四日市港築港に貢献した稲葉三右衛門の功績をたたえるため、明治三十七年に建てられた(本体には「明治三十六年六月建」の銘がある)もので、石積基壇の上にフルーティングのある西洋古典様式風の柱身が載る。
 四日市旧港港湾施設は、明治期に建設された港湾施設の姿を良く残しており、わが国の築港技術の近代化の過程を示すものとして貴重である。とくに防波堤は、他に類例を見ない水抜穴を持つ二列構造をとっており、技術的に見てきわめて価値が高い。

南方の千歳町から

      

防波堤(重要文化財)
明治27(1894)年の築造
石造防波堤、延長199m
所在地:三重県四日市市高砂町7-13

                                      

西防波堤(重要文化財)
明治27(1894)年の築造
石造防波堤、延長77m
所在地:三重県四日市市高砂町7 稲葉翁記念公園地先

                           

高砂町の遊歩道から

                    

顕彰碑(重要文化財)
明治37(1904)年の建立
所在地:三重県四日市市高砂町7 稲葉翁記念公園

               

西防波堤から

                          

記念碑(附指定)
明治27(1894)年の建立
所在地:三重県四日市市高砂町7 稲葉翁記念公園地先

         

西防波堤の先端へ

              

防波堤を望む

                          

遊歩道を北へ

     

稲葉水門から

                                   

稲葉町の埠頭から

                                                   

帰路

       

 

 


Aug.2012 酒井英樹

末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)

Suehiro bridge

          


July 2011 瀧山幸伸 source movie

A camera

旧四日市港 港湾施設

Old Yokkaichi port focility

    

末広橋梁

Suehiro bridge

     

B camera

                        

           

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