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宮崎 佐土原

『佐土原城趾』
Miyazaki Sadowara Sadowara castle (Shimazu Sadowara han)

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Nov.2008

国指定史跡
指定日:平成16年(2004)9月30日
所在地:宮崎県宮崎市佐土原町上田島8202-1

古い時代の佐土原は田島といい、鎌倉初期源頼朝の命により、伊東氏が代官を派遣していました。田島伊東氏は、8代伊東休祐のときに男子がなく、都於郡(とのこおり)の伊東祐賀(すけよし)が入り、建武年間に佐土原城は休祐により築城されたようです。
戦国時代には伊東氏の中心的城郭で、特に伊東義祐のころには、その全盛時代でした。
『凡よそ一村一芸の士から農工商の徒に至るまで、四方より輻輳し、廓外市塵宇櫛比(カクガイシジンイエクツビ)し、鶏狗吠相聞(ケイグホエアイキコ)え四境に達するの景況なり』と古書にあり、奈良から兄弟の仏師を招いて大仏を鋳造したり、京都・奈良の名所を真似て神社仏閣を作ったりして、まちづくりをおこなったとおもわれ、現在もその地名が随所に残されています。戦略的にも、最も重要な四十八城の要の城として飫肥進攻・都城盆地への進攻も全てこの城で策を練られたものとおもわれています。
最盛期には三層の天守があったことが発掘調査によって判っています。南九州で唯一天守閣を持つ最南端の城。「天守閣最上の鯱ほこ瓦には金箔が施されいた」
それまで勢力を誇った伊東氏も元亀3年(1572)木崎原の戦いで大敗し、天正5年(1577)豊後に逃げました(豊後落ち)。その後、島津氏の勢力圏となり、島津家久が入城。この島津氏を前島津と呼んでいます。佐土原藩は薩摩島津藩の支藩とされていますが、慶長8年(1603)、島津忠将の子である島津以久(ゆきひさ・初代佐土原藩主)が、日向国那珂郡・児湯郡内で3万石を与えられて独立し、居館を日向佐土原に構えました。この地は元々島津一族の一人であった島津家久・豊久親子の領地であったのが、改めて徳川幕府より島津以久に拝領されたものであり、この経緯からすると正式には薩摩藩の支藩とはいえません。
しかしながら、薩摩島津からは幾たびかの政治的介入もあり、佐土原藩は従属的立場にあったともいえます。その一つに、代々の佐土原藩主正室には薩摩藩出身者(島津氏の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘もいる)が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどがあげられます。
二代島津忠興(ただおき)が山城の館から、山の下の御殿に居を移し住み、以降明治2年(1869)広瀬に転城されるまで佐土原城は藩統治の中心地でした。
また、徳川幕府第13代将軍家定の正室となった「篤姫」ですが、一橋派や大奥の意向は出自(島津分家の出)などの問題もあり、輿入れそのものを問題視する意見や正室としてではなく側室として迎える意見などが存在し、島津斉彬も、もし正室での輿入れがかなわない場合には、佐土原島津藩の第10代藩主島津忠寛公の妻にしようとの計画があったようです。

【関連する人物】
「島津啓次郎」(Shimazu Keijiro)
安政3年(1856)〜明治10年(1877)9月24日、10代藩主忠寛の第三子。勝海舟門下、海舟の紹介により西郷隆盛に会い、その人柄と考えに心酔し西南戦争時西郷薩摩軍の佐土原隊長として出陣、城山で戦死。
米国留学後、学習院設立への関与を誘われるが、教育の自由・平等とはほど遠い内容に反発し、宮崎に帰郷後私学校「きょう文黌(きょうぶんこう)」を設立したが、開校翌日に西南戦争勃発にともない出陣、志半ばの21才で死去。性格は豪放磊落・物事に動じない性格で、この参戦には親はもとより、西郷隆盛もその若さと将来性から反対したといわれる。アメリカ留学の経験を経て、自由・民主思想から学校の運営等は全員合議で決める方法で、自ら炊事・雑用なども喜んで引き受け、上下の隔てなく人に接する情の厚い人物であったという。
「島津久永氏」(Mr. Shimazu Hisanaga)
昭和9年(1934)3月29日〜、現山階鳥類研究所理事長・昭和天皇第五皇女、貴子さん(清宮貴子内親王)の夫)は、佐土原島津家第十三代島津久範氏・久子氏の次男。




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