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宮崎県西都市 都於郡城跡

Tonokori castle,Saito city,Miyazaki

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Dec.19,2015 瀧山幸伸


Dec.20,2013 瀧山幸伸 source movie

国指定史跡

指定日:平成12年(2000)9月6日指定基準:史2

所在地:宮崎県西都市大字荒武鹿野田

宮崎県中央部の西都市南部、一ッ瀬川の支流・三財川右岸の標高約100mの台地上に位置している。南北朝期から戦国期にかけて、日向中央部に一大勢力を有した伊東氏の本拠地として栄えた城跡。

工藤左衛門尉は建久元年(1190)正月、鎌倉幕府から日向国の地頭職に補せられ、その嫡男・伊東祐時から6代目の祐持は足利尊氏に従ってその勲功を認められ、建武2年(1335)に都於郡300町を賜り、その一族を引き連れて伊豆からこの地に下向した。都於郡伊東氏としては、祐持が初代の城主ということになる。

その後2代目伊東祐重が、築城工事を行った。その模様は、「日向記(天正18年1590)」に詳細に記録されている。築城に際して、本丸に存在していた伝説・高屋山上陵(祭神:彦火々出見尊)を掘り、出土品は城の近くにあった一乗院に移したと伝えられている。

以来、天正5年(1577)までの242年にわたり日向の地を治めた同氏累代の本拠地としてその栄華を極めた。

城は空壕や土累をめぐらした中世の典型的な山城で、内城として本丸を中心に5つの城郭(五城郭「別名・浮舟城」【春は花 秋は紅葉に 帆をあげて 霧や霞に浮船の城】)「本丸・二の丸・三の丸・西の丸・奥の城」、外城として「南ノ城・中尾城・東ノ城・目隠城」などが内城を取り巻くように築城され、それぞれの曲輪(くるわ)の縁辺部には土塁(どるい)が構築され、曲輪と曲輪の間には空掘もつくられ、外敵防御体制をとるようになっている。

のちに佐土原城・宮崎城など日向の国一円に48の城を築いた伊東氏も、16世紀後半、一時は日南飫肥城の攻略に成功したが、10代・伊東三位入道義祐の時代、元亀3年(1572)木崎原の戦いにおいて島津氏に大敗し、天正5年(1577)12月都於郡城落城、一族郎党を引き連れて豊後に落ちのび(豊後落ち)、伊東氏の栄華は終焉をむかえた。

その後は、島津氏の支配となり、江戸時代初頭・島津佐土原藩の発足にともない、佐土原島津氏の本城たる佐土原城の外城としての役割を担ったが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったものと考えられる。

天正遣欧少年使節の正使として、ヨーロッパに渡った伊東満所(いとうまんしょ)は、ここ都於郡城で生まれた。

※伊東満所(Ito mansho):永禄12年(1569)?〜慶長17年(1612.11.13)

伊東義祐の外孫で、豊後落ちに加わり、その後、豊後から島原の神学校に入学し、キリシタン大名「大友宗麟・大村純忠・有馬晴信」の名代として、天正10年(1582)2月に天正遣欧少年使節4名「伊東マンショ(正使)・千々和(ちぢわ)ミゲル(正使)・中浦ジュリアン(副使)・原マルチノ(副使)」の正使として、戦国時代に初めてヨーロッパを公式訪問する日本人使節団としてローマに渡り、ローマ法王に謁見した後、天正18年(1590)に長崎に帰った。

天正遣欧少年使節の選考基準は、容姿端麗にして教養・語学に通じ、壮健であること、、であったといわれている。

帰国後、聚楽第において豊臣秀吉に謁見した。とりわけマンショは、秀吉からひどく気に入られ、自分に仕えることを強く求められたが、それを断り、長年の想いがかなって慶長13年(1608)カトリックの司祭に叙階された。

慶長17年病死。

(国指定文化財等データベース・現地案内板等から抜粋要約)

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