宮崎県都農町 尾鈴山
Osuzuyama,Tsuno town,Miyazaki
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Dec.19,2015 瀧山幸伸 source movie
尾鈴山(おすずやま、御鈴山)は、九州南部に広がる九州山地の東部に位置する山であり、宮崎県都農町と木城町にまたがる。
北方に万吉山、神陰山、南方に長崎尾、矢筈岳、黒原山、春山、上面木山などの支峰を従えた山塊を構成する。西側を小丸川、北側を耳川およびその支流である坪谷川、南東側を宮崎平野に囲まれた直径約15キロメートルの範囲に広がる山地は尾鈴山地(おすずさんち)と呼ばれる。
岩盤が固いため山腹には多くの深い谷が刻まれている。特に尾鈴山から南東へ流下する名貫川から分かれる矢研谷、甘茶谷、欅谷には、落差73メートルの矢研の滝(日本の滝百選)、落差75メートルの白滝など大小30を越える滝があり、尾鈴山瀑布群として日本国の名勝に指定されている。また、尾鈴山から上面木山に至る133平方キロメートルの範囲は宮崎県の尾鈴県立自然公園に指定されている。山頂には一等三角点が置かれている。
多雨地域であり、年間降水量は2700-3000ミリメートルに達する。植生は、標高400メートル以下にイチイガシ、標高400-600メートルにウラジロガシ、標高600-1000メートルにモミやツガ、標高1000メートル以上にブナの林が分布する。山頂の南側にシャクナゲの群落があるほか、寒蘭の自生地もある。また、世界でも尾鈴山にしか見られないキバナノツキヌキホトトギス、尾鈴山地周辺地域にしか見られないウラジロミツバツツジ、ナガバナサンショウソウなどの固有種が分布する。イノシシ、シカなどのほか、ニホンカモシカの生息も確認されている。
四万十層群と宮崎層群の間に割り込む形で分布する尾鈴酸性岩体と呼ばれる火成岩から成る。中新世の1500万年前、大規模な火砕流の噴出を伴う大噴火があり、耳川河口付近を中心とした直径40キロメートルの尾鈴カルデラと呼ばれるカルデラが形成された。火砕流は周辺に溶結凝灰岩の地層を残した。その後、カルデラの西側にマグマが貫入し花崗斑岩からなる岩体となった。これら一連の火山活動は数百万年に及んだ。やがて九州山地の隆起に伴って岩体が地表に露出したものが尾鈴山である。
古くは山麓の古地名「新納院」に因んで新納山(にいろさん)と呼ばれていた。「尾鈴山」の名称の由来については次のような伝説がある。山麓の牧場にしばしば白馬が出現し、後に山の神が白馬に乗って麓の神社を参詣したものであることがわかった。その際に鈴の音が聞こえたことから白馬は「お鈴様」と呼ばれるようになり、山名の由来となったというものである。また、山の尾根にスズタケが茂っていることから名付けられたともいわれる。
矢研の滝にはニギハヤヒが天の磐船に乗って天降した際に鏃(やじり)を研いだとする説があり、滝の上には「天の磐船」と呼ばれる巨石がある。また、神武東征において鏃を研いだとする説もある。
古くから山岳信仰の対象となっており、周辺の農民たちは山にかかる雲の様子で天候を予測したほか、日向灘を往来する船乗りたちもこの山を目印として船の位置を確認していた。旱魃の年にはしばしば雨乞いが行われた。中世には修験道の霊山となっており、瀑布群は修行のために利用されていた。
江戸時代においては高鍋藩の管轄下にあり林業が盛んであった。特に木炭は日向国における主要産地の一つであり、大阪などの市場へ出荷されていた。木材を運搬するために1909年(明治42年)から名貫川沿いに敷設された森林軌道(森林鉄道)が使われるようになり、1915年(大正4年)には都農土場(都農町市街地)まで、1924年(大正13年)には都農駅まで延長された。軌道はその後も1945年(昭和20年)頃まで整備が続けられたが、その後の台風被害や林道整備によって使われなくなり1958年(昭和33年)に廃止されている。
近代に入ってから観光地としての整備が行われ、1944年(昭和19年)に尾鈴山瀑布群が名勝に指定され、1958年(昭和33年)には128.5平方キロメートルが尾鈴県立公園(後の尾鈴県立自然公園)に指定されている。
(wikipedia)
矢研の滝付近
Yatoginotaki area
矢研の滝
Yatoginotaki
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