長野県上松町 上松
Agematsu,Agematsu town,Nagano
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Dec.3,2019 柚原君子 source movie
中山道 第38 上松宿
概要
中山道は江戸時代の国の呼び方を元にすると、江戸より武州路、上州路、信濃路、木曽路、美濃路、近江路とたどって京に行きます。上松宿は木曽路11宿の真ん中にあり(中山道の中間地点は上松宿の一つ前の木曽福島宿)、中山道全体としてもほぼ真ん中に位置しています。木曽路全てが奥深い山の中に有り、それゆえ風光明媚のなか素朴さを味わいながら超えていく山道が多く、樹齢三百年を超える檜が林立する赤沢自然休養林への入口でもあります。
木曽全体の山林管理は前宿の木曽福島に代官屋敷があった山村代官で、関ケ原の戦い以後、代官のみならず関守も兼ねて大権力をふるっています。
1615年、木曽が尾張藩管轄になり、木曽総山の検知を実施したところ山村代官の不行き届きがあったために、尾張藩は上松一帯における木曽山林管理権を山村代官から取り上げて、
現在の上松小学校辺りに直轄の材木奉行を常駐させて材木役所を作ります。
この役所は南北六十五間、東西五十五間で三千五百坪の広さ。周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋だったそうです。大砲設置は実権を取り上げた山村氏からの反撃を恐れたものと見られます。
「御陣屋」と呼ばれた中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって奉行・吟味役・調役・目代・元締・同心が常時詰めていました。また陣屋内には、水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の五社を祀っていました。(上松教育委員会の説明板抜粋)
上松宿は1843年(天保14)年の中山道宿概帳によると人口2482人、町並み5町31間、旅館35軒、本陣、脇本陣共に1と規模の大きい宿場であると記されていますが、大火で大方の町並みが焼け落ちて、広大な材木役所の片鱗もなく、宿の入り口である十王橋から本陣をとおり抜けて行くと案外な短さに驚かされます。
風光明媚な点においては「木曽の桟」、「寝覚めの床」が有名で、思わぬ所にという感じですが浦島伝説もあります。
現在の上松町は、上松村、小川村、荻原村が合併して駒ヶ根村になり、その後1922年に上松町になり、木曽森林鉄道が開通して木曽林集積の地として繁栄しています。しかし、1950年に上松大火が発生して中山道当時の建物はほとんどが焼失。現在は上町の一部のみに町並みが少し残るばかりです。
1,沓掛馬頭観音~木曽の桟~上松駅
先回の木曽福島宿を御嶽遙拝所で区切りました。ここから上松宿の記録としたいのですが、時刻はすでに夕方間近。暗くなり始めて気が急きます。山合いの国道を木曽の桟をめざして先に進みます。事前準備が十分でなかったので『木曽の桟』は現在架かっている橋と思い込み……まっ赤な橋が見えてきたときは日暮れに映える橋と暮れてしまうまでに上松の駅に着けるかどうかが不安で、桟がまさか、橋の対岸から見られる橋の下の石垣とは思えず……どこだどこだと探しているうちに撮影できませんでした。
落ち着いて持っている行程表よく見るべきでしたが……そのようなわけで橋を渡り暗がりになりつつの中を行き、矢印案内のある真っ暗なトンネルは怖くてくぐれなくて戻り、国道を急ぎ足でなんとか上松駅にたどり着きました。
次ぎに上松宿を訪ねるときには木曽の桟までバスで戻りそこから撮影をしようと帰途には思いましたが、以後、新型コロナの関係で遠出できずに東京で過ごすはめになります。そして日を経ること10ヶ月後に都民は東京を出てもいいというお達しがあり、2020年10月にやっと上松宿を訪ねることになりました。
しかしここでまた難題です。ドングリ不足の故か連日熊出没のニュース。しかも住宅地にまでも出ている様子です。中山道歩きも木曽の山の中。行ったことのない所へ地図や先人の歩いたHPなどを見ながらの計画表ですが、熊の怖さは相当なものがありました。
過日の和田峠越えでは熊のまだ生暖かいような糞を見たことがあり、木曽の観光協会などにも電話しましたが、中山道沿いに出ている情報はありません、との返事です。が、昨日出なくても今日出ましたという恐怖、喰われたくない恐怖。ということで上松宿はなるべくバスの乗り継ぎに変更にして山道を避ける方針で東京を出発。
先回の続きに歩いて木曽の桟をじっくりと思っていましたが、上松駅よりバスで十王橋まで行く計画に変更。上松駅より東京寄りになる木曽の桟は残念ながら降り立つことができませんでした。
木曽の桟は現在は石積みだけが赤い橋の対岸から見られるところにありますが、一帯は桟という集落の地名で、赤い橋の下にある遺構一つを指して桟というのではなく、福島宿から三留野宿の間にはいくつもあったそうで、山の中腹の急斜面を障子の桟(さん)の様な状態のものを桟(かけはし)といったそうです。しかし今は旧桟村の赤い橋の下の遺構になっている波計(はばかり)の桟のみが残っています。
桟は川を越えるための橋ではなく、山の急斜面の道幅がせまくて通行が危ない崖に道幅を広くするために足したいわば「通路に掛けた橋」をあらわしています。
山道を行く中山道、特に山深い木曽路には何ヶ所も必要だったのでしょう。
丸太と板と藤つるで組んだ『橋』が通行人の松明による失火で焼け落ち、尾張藩は木橋をかけた石積み(長さ62間の橋のうち両側25間が石垣)を完成させたそうで、慶安元年に竣工して1741(寛保元)年に改修された物が残っているとのこと。
中央本線敷設のために大方は取りこわされ、現在、赤い橋を渡って対岸から見らる一部のみ残存しています。それも国道19号の整備で一部ほんの少しが道路の下に残されているということです。どこだどこだと探すばかりで実物を撮影することはできませんでしたが、通過した実績のみで良しとします。
そのようなわけで、木曽の桟を訪れてから再び上松駅に降り立つのは10ヶ月の2020年10月となってします。今回は熊が怖く避けるためにバス便を乗り継ぎます。
先回の続きを道なりに歩いてくれば見られたであろう、沓掛の一里塚跡碑、桟温泉、産業遺産である鬼渕橋などはパスする結果になりました。
上松駅より十王橋バス停下車。すぐ目の前に高札場跡とたくさんのお地蔵様。『十王堂の石仏群』です。ここが上町で宿入口です。1950(昭和25)年に大火があり、宿のほとんどが焼けてしまい残るのはこの上町のみ。後ほど振り返ってみて、宿があまりにも短く見えた理由でした。
コスモスの咲く中を歩きます。出梁造りの屋号を掲げた古い家が続き、江戸時代の雰囲気が残されています。
マンホール発見!赤沢休養林から木材を運び出す森林列車と町花であるおおやまれんげが描かれています。
坂道を上がっていくと『玉林院』。立派な山門鐘楼です。棟札には1766(明和3)年落成と記されていて、年代は江戸時代中期。本堂左手は19代木曽義昌の弟義豊が上松蔵人と名乗って館を構えた場所です。
木曽義昌は奈良井宿の先にある鳥居峠の葬沢で武田勝頼軍と戦って勝った人物。戦死者を沢に放り投げての葬沢の薄暗く不気味だったことを思い出します。
お隣に八幡神社。棟札は正徳4年、玉林院の和尚(木曽義元の二男)が甥である上松蔵人のために勧請。江戸中期の代表的な社殿建築です。
上町に戻るとすぐに男女双体道祖神と水の女神である水速の命の石碑。この後ろの歯科医院が本陣の様ですが、案内はなにもありません。藤田九郎右衞門さんが勤めたと手持ちの資料にあります。向かい側が多分脇本陣。門柱脇に木札があるそうですがこれまた探したがありませんでした。資料では問屋、総庄屋を勤めた原家。本陣跡、脇本陣跡をあっけなく通過。道はすぐに右方向に直角に曲がり、曲がったところに一里塚碑『本町の一里塚(上松の一里塚)』。ほんとうは30メートル下った中町にあったそうです。火事でこちらに移されたのかもしれません。
バスに乗るために上松駅に行きます。途中の「斎藤茂吉歌碑(駒ケ嶽見てそめけるを背後にし小さき汽車は峡に入りゆく)」、「藤村文学碑(山はしつかにして性をやしない 水は動いて情をなぐさむ)」、尾張藩が山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ藩直轄の役所を作ったという役所跡(材木奉行所跡)が上松小学校前にありますが、それらをパスです。
バス下車を一つ乗りすぎてしまい、バスの運転手さんに寝覚めの床の方角を教えて貰って国道を少し戻ります。それなので寝覚めの床には山の中腹からさらに臨川寺めがけて山道を登ることになってしまいました。山は浅そうですが熊怖い!笛と鈴とを鳴らしながら少し登って行きます。
登って行くに従って木曽路一番に数えられる景勝地「寝覚めの床」のエメラルドの木曽川と真っ白な四角い石が調和の取れた美しさで見えてきます。
目が覚めるほどの絶景からの命名かと思ったら、浦島太郎(浦島子)伝説から来ているようで、へぇ~こんな海でも無いところに浦島太郎が、とちょっと異質感を否めません。でも、きれいな景色です。中央本線の線路をくぐって、ここから有料ですと書かれた臨川寺境内へ。
そんなに広くない境内です。浦島太郎が玉手箱を開けた後に、おじいさんになってしまったかを確認した池があります。池の反対側の藤棚の下はさすがに良い景色。眼下に寝覚めの床が一望できます。寝覚めの床は浦島太郎が昼寝した石とのこと。境内に芭蕉句碑『ひる顔にひる寝せふもの床の山』とあります。
浦島太郎は明治から昭和にかけて教科書にも載ったおとぎ話。玉手箱を開けてはいけないという約束を破ると悪いこと(あっという間に老人になってしまった)が起こる、という道徳を伝えようとしたもの。全国にはいくつかの浦島伝説場所があり、助けた亀は乙姫の化身で竜宮ではなく行った先は蓬莱(とこよのくに)(不老不死の理想郷)とも。大人になって考えれば助けた亀に連れられて海のそこに行くまでに、亀はともかく浦島太郎はおぼれてしまうだろうに、と今時の小学生なら屁理屈をこねるところですが、私の子どもの時はそうなんだ、って思っていました。
浦島太郎のおとぎ話は40編位あるそうで、鶴が出てきたり竜宮城が実はこの世の妖しい場所であったり、子どもには見せられない内容であったりするそうです。
長野県木曽の上松宿に伝わる浦島伝説は室町後期から江戸時代の頃に成立しているそうで、古浄瑠璃『浦嶋太郎』での創作。信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎として登場。浦島と恋仲になる玉の姫は添い遂げられずに木曽川の支流に身投げする。竜宮界で亀になった姫は浦島太郎に釣られて再会を果たすという恋物語になっています。
しかし、臨川寺に残されている『寝覚浦嶋寺略縁起』はまた一つ違ったもので、浦島太郎(見返りの翁)は竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書をもらって帰り、日本諸国を遍歴したのち、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。ここで釣りを楽しみ、霊薬を売るなどして長年暮らしていたが、あるとき里人に竜宮の話をするうち玉手箱を開けてしまい、齢300年の老人と化してしまった。そして天慶元年(938年)この地から姿を消したというものです。
霊薬に関しては天皇がこの話を聞き寝覚めの床に使いを出すと、翁はもう1000年もこの地に住んでいて、霊薬を使って三度も生き返った、という民間伝承もあるようで、寝覚めの床の少し上松駅寄りの村は旧三帰村と呼称されています。
ある時期から浦島太郎と見返りの翁は同じ人物とされている伝承もあるそうです。
寝覚めの床は自然浸食された白色際立つ花崗岩でエメラルドの水面とあわせて、辺り一帯はとても美しい景色で、1923(大正12)年に国の名勝指定を受けています。
地質的には中生界の粗粒黒雲母花崗岩で、露出岩盤には豆腐を切ったように岩石に直角に割れ目が入った状態の方状節理が見られます。最上段は現河床からの比高が約20mです。岩盤は約1.2万年前に露出したとのこと。(いづれも参考はウキィペディア)
臨川寺を出て国道19号の向こう側に見える『寿命蕎麦』に。『越前屋』と呼ばれて中山道時代からあるお蕎麦やさんですが、現在は国道に面したこちらで営業中です。店脇の坂道を登っていく突き当たりが中山道で、古い趣のある家屋はそちらにあります。店内には古い写真やここを訪れた島崎藤村や十返舎一九、そして亀など歴史たっぷりの店内でした。
美味しい寿命蕎麦を戴いたあとは坂道を登って中山道に行きます。突き当たると中山道の雰囲気。ストンと昔に返った一角です。江戸時代の立場茶屋の「たせや」と十返舎一九の「続膝栗毛」や島崎藤村の「夜明け前」などにも登場する蕎麦屋の「越前屋」。風情をしばらく眺めていましたが、先へ。左側に桂の木。さらに歩いて行くと左側奥に山肌の白い険しい姿の中央アルプス主峰・駒ヶ岳が見えてきます。現在の上松町はいくつもの山の登山ルートの入口となっています。柿の木に良く映える駒ヶ岳を望みながら郵便局の左道を進んで行きます。ちょっとの期間ですが石畳みがあります。味があります。
前方に滑川橋。滑川はやがて木曽川と合流しますが、川幅が随分広いです。
往時は刎懸造りの橋で、長さは十五間、南北より刎木にて中に橋抗はなく、この辺りは特に急流だったそうです。木曽の桟、伊奈川橋と共に木曽三大橋とのこと。この先くだったところに老人センターバス停。そこより「小野の滝」までバスに乗ります。
どこかで工事現場があるのかダンプーカーがひっきりなしに通ります。電気関係工事服の男の人達が全員が腰に鈴を付けて目の前を。出るのですか?と恐る恐る訪ねると、出ないと思うけど用心です、といわれました。
小野の滝でバスを降りて道路沿いの柿の木の落柿を拾っていたら、国道の向こう側から親切なおばあちゃんが「それは渋柿だでよぉ」とおっしゃって下さいました。
落差15メートルの小野の滝に。上に中央本線の高架。江戸時代には高架はありませんでしたので、滝の付近に橋が架かり人々は橋の上から滝をながめたそうで、歌川広重と渓斎英泉が記した浮世絵「中山道六十九次」に描かれています。当時は滝の脇に茶屋もあったそうです。今は国道から眺めるだけの滝になりました。冬は凍結とのこと。滝の前で読書にふける人。イオン効果がありそうですね。
滝を後にして先を歩きます。暫く行くと国道から離れて左折の中山道案内。荻原の一里塚跡です。旧萩原村の入口で高札場もあったそうですが塚も高札場も現存していません。集落はゆるやかにまがる道の両側に多少の面影があります。
左側に石塔。1807(文化4)年建立。南妙法蓮華経と記した石も。道の奥には風越山からからの湧き水があると案内が出ています。左に中央線の高架が現れてきてその先に「串が下」のバス停。時間は16時半。バスに乗り倉本の駅に行き東京に帰ります。
駅に着き40分ばかり時間があったので、駅前や駅後ろの花の写真を撮りました。日暮れてローカルの松本行きが入線してきました。上松宿を終了します。
October 19,2020 大野木康夫 source movie
寝覚の床
所在地(臨川寺) 長野県木曽郡上松町上松1704
国指定名勝
【国指定文化財等データベースより引用】
花崗岩ヨリ成レル木曽川ノ峽谷ニシテ河幅逼リ両岸殆ト垂直ニシテ深潭ヲ成シ其ノ區域甚ダ狹小ナレトモ標式的ノ花崗岩峽谷ナリトス
両岸ニハ階段アリテ處々ニ水蝕ノ爲メ刳ラレタル痕跡アリ
岩石中ニハ数多ノ甌穴アリテ釜石獅子岩象岩鳥帽子岩屏風岩等ノ名アル竒岩アリ
町営駐車場かに車を停めて臨川寺から木曽川のほとりに下ります。
寝覚の床
Oct.12,2015 瀧山幸伸 source movie
木曽の桟
Kiso no kakehashi
桟温泉
中山道 木曽福島から上松 ドライブ
Nakasendo Kisofukushima to Agematsu drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 上松 ドライブ
Nakasendo Agematsu town drive
上松宿
Agematsu post town
【街並】
上松宿の上町に少し宿場の面影が残るが、本陣などの形跡は薄い。
寝覚付近の旧街道には茶屋本陣の「たせや」と寿命蕎麦の「越前屋」が残っている。
この2つの建物だけでも大変良い街並を形成するから、建築物のデザインコントロールは重要だ。道路標識、カーブミラー、消火栓などに工夫が必要だ。赤い旧式ポストはなぜか街並に映える。そのやわらかい曲線形状と、色が古来からの建築の朱色と類似しているからであろう。しかしながら、江戸の当時には無かったであろうから、宿場の街並を重視するのであればこのポストの存在は再考が必要であろう。
木曽の桟(かけはし)
本陣跡付近
寝覚ノ床と中山道との分岐
寝覚ノ床
有名だが、発電取水のため水量が少なく自然のダイナミズムはあまり感じられない。
小野の滝と石塔
上松のまとめ アセスメント 合計 2点
周辺の自然と景観 +1
宿場町の街並と建築物 +1
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