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長野県軽井沢町 沓掛 (中軽井沢)
Kutsukake (Nakakaruizawa) ,Karuizawa town,Nagano


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Aug.21,2016 柚原君子

中山道第19 沓掛宿

概要
沓掛宿(くつかけしゅく)は、前後の軽井沢宿、追分宿とともに浅間三宿(または、浅間山の腰まで続くという意味で根腰三宿)と言われています。地名は1535(天文4)年に追分諏訪神社に奉納された大般若経にある「長倉沓懸」として初出しています。「沓掛」の語源は、旅人が草鞋(ワラジ)や馬の沓(うまぐつ……馬のひづめ保護するための藁や皮革で作った馬の履き物・蹄鉄)をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するものです。京よりの旅人は険しい難所が続く碓氷峠を馬に荷物を乗せて越えていかねばならず、沓掛宿で旅の無事を祈らずにはいられなかったのでしょうね。

「沓掛」と名のつくところはあまり大きな宿ではなく、ワラジや馬沓をちょいと掛けて、ちょっと休んだ小さな休み処についているところが多く、宿駅の形であれば小さい宿であったそうです。「沓掛」は瑞浪市日吉町沓掛、美濃市美濃沓掛、美濃市須原沓掛、中津川市上野沓掛、中津川市神坂沓掛など、各地に残る地名でもあります。

「長倉沓懸」と初出されている沓掛宿は、平安時代より朝廷に献上する馬を放牧する長倉の牧と言われる牧場があったとされる一帯です。奈良、平安時代より信濃国には16の官牧があって、佐久郡には長倉牧・塩野牧・菱野牧・望月の牧がつくられていたそうです。歴史的資料は少ないそうですが、軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であったと想像されています。沓掛は一時は甲府藩や小諸藩の領有になりますが、1716年以後は公儀御料(天領という幕府直轄の地)となります。

1773(安永2)年の大火で沓掛宿140軒のうち104軒が焼失して宿は壊滅状態となり、沓掛宿全体が古くあった地よりやや離れた場所に移動しています。1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によると、宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒で宿内人口は502人となっています。

江戸時代が終わり、明治時代の沓掛は、1875(明治8)年に借宿村との合併により長倉村となります。江戸時代の旅人の往来が無くなり、宿は寂れていく一方でしたが、お隣の軽井沢が別荘地として年々開かれていくのを見て、町の人々は信越本線に軽井沢の次の鉄道駅として「沓掛」駅を陳情。その願いが叶い、1909(明治42)年、夏の3ヶ月間だけ臨時停車駅が設けられることになります。翌年には晴れて正式な沓掛駅となる事ができて、沓掛には学生相手の旅館や少数の別荘が建てられ軽井沢に続く避暑地となっていきます。

1928(昭和3)年、長谷川伸が「沓掛時次郎」を発表したこともあり沓掛は脚光をあびますが、1951(昭和26)年4月の大火で町のほとんどが焼けてしまい、沓掛宿であった頃の面影はすべて失われてしまいます。その後は1956(昭和31)年に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に、沓掛宿の有った地域の地名も中軽井沢とかわり、浅間嶽の神様に沓を捧げて旅の安全を祈ったという歴史的に由緒ある「沓掛」の地名は、残念なことに、ここで完全に消えてしまうのです。

行程

六本辻→旧雨宮邸→宮之前の一里塚跡→長倉神社→脇本陣増寿屋清兵衛→脇本陣蔦屋の跡碑→土屋本陣→秋葉神社→遠近宮→草津分去れ道標

1,旧雨宮邸・一里塚

軽井沢宿は「雲場池」で終了していますので、本日はその続きの沓掛宿を目指します。気温は17度。霧がどこからともなく湧いて辺りは薄日となり、また霧がどこかへ消えていき晴れる六本辻を、すぐ右に曲がり離山交差点に向かいます。「軽井沢」ではなく「軽井澤」と表記されている小学校やお店の前の道を走っていきます。離山の麓と18号線の間のこの道が旧中山道になります。離山交差点で18号と合流。交差点を少し戻ったところに馬頭観音。民俗資料館もあって寄りたいところですが、霧が晴れないままに雨模様になる予報も出ているので先を急ぎます。

南原の交差点先の右側にあるのは旧雨宮邸(長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2112-21 )。登っていくと1255メートルの離山頂上となるその麓にあります。門をくぐると建物が三棟有ります。右側から「旧雨宮邸母屋(西の家)」(入室不可)、真ん中が「旧雨宮邸新座敷」(有料で内覧可)、左にあるのが「軽井沢町資料館分室・市村記念館」です。

雨宮敬二郎は牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)に生まれ、明治時代に一代で財を築いた実業家です。軽井沢の唐松林を植林して開発に尽力しています。彼は1879年(明治12)年に東京府深川(当時の南葛飾郡八郎衛門新田。現在の東京都江東区扇橋)で興した蒸気力による製粉工場を成功させて、本格的に実業界へ進出します。1886年(明治19)年に東京蔵前の官営製粉所の払い下げを受け、翌1887年(明治20)年には主に軍用小麦粉製造を目的とする有限責任日本製粉会社へと改称しています。この会社は1896年(明治29)年9月に日本製粉株式会社となり、現在は日本の代表的な製粉会社となっています。

1905年(明治38)年には江ノ島電鉄社長にも就任。東京のホテルニュージャパンは雨宮敬二郎邸の跡地に建てられたものだそうで(ウィキペデア要約)、東京にも縁の深い実業家です。市村記念館は総理大臣を務めた近衛文麿の別荘跡です。大正初期に建築された米国式洋館造りで、雨宮敬二郎の甥が譲り受けています。

記念館前の交差点を渡って踏切を越えます。道はなだらかな下り坂。深い緑の中を快適に進みます。右側の住宅の中に馬頭観音。後側しか見えませんが写真を一枚。前沢橋を越えます。お天気が良ければ右側に煙を吐く浅間山が見えるはずですが、今日はあいにく厚い雲の中です。しなの鉄道の橋りょうの手前を左に折れた坂上に「宮之前の一里塚跡」(長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)があります。一里塚と銘打った石があります。

一里塚は江戸時代初期の中山道に沿って作られたものですから、現在の中山道である国道18号線からはかなり離れています。古来の中山道をたどることができる中山道グーグルマップでみると、この一里塚のすぐ側をながれる湯川に沿って古来の道があったようです。一里塚のすぐ前にはかつての「沓掛駅」、現在の「中軽井沢駅」があります。宮之前の「宮」は長倉神社のことでこの先にあります。一里塚のあるこの一帯は古代に長倉の牧があった場所で、街道筋に人家などなく原っぱが続いていたのでしょうね。一里塚がぽつんと立っているのをみると、余計に時の流れを感じます。
                                       

2,長倉神社

所在地:長野県北佐久郡軽井沢長倉2283
一里塚を後にして橋りょうをくぐって直進すると中山道(国道18号線)にでます。国道を越えて右側に湯川、正面の鳥居の奥が長倉神社です。公園になっているのでどこまでが神社なのかよく分かりません。脇を流れる湯川は水が温かく厳寒の冬でも凍ることが無いことから、湯川の命名があるそうです。

長倉神社は平安時代の文献にも出てくる由緒ある神社。本殿内には1758 (宝暦8)年の建立当時の彫刻が残されているそうですが、1773(安永2)年の大火で沓掛宿140軒のうち104軒が焼失してしまったということがありますが、焼け残ったのですね。沓掛宿の繁栄した当時は八幡宮と呼ばれ、沓掛宿の鎮守産土神として崇敬されていたそうです。現在は鳥居も本殿もやけに新しく、狛犬は色鮮やかでびっくりします。凜々しくって好きな形の狛犬ではありますが。
公園となっていて遊具のあるあたりに長谷川伸が生み出した架空の任侠者「沓掛時次郎」の石碑があります。1953(昭和28)年に当時の沓掛商工会が中心になって建立したそうです(任侠股旅物は当時人気がありましたけど、時代は過ぎて今では知っている人は少ないと思います)。
                        

3,本陣・脇本陣跡

所在地:長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢1-2
街道に戻って少し行くと左側に「脇本陣増寿屋清兵衛」があります。樹木が伸び放題で家は荒れて全体の形が解らない状態です。なぜこのように、と思いながら膝丈ほどにある雑草を踏み込んで写真を撮ります。大きな看板はそのままにあって、そこにははっきりと脇本陣と書かれてありましたので少しホッとします。旧旅館枡屋との看板もあります。平成13年に中山道を歩かれた方の記録の中には『枡屋本店』の看板を掲げられた旅館が撮影されているので、3年前までは営業されていたということのようです。
脇本陣を過ぎてすぐ左側に中軽井沢の信号。その左手奥が旧名を沓掛駅と名乗っていた現在の中軽井沢駅です。脇本陣蔦屋の跡碑は信号の先左手の八十二銀行の駐車場の奥。問屋を兼ねていた本陣はその先右側の一般住宅です。表札に「本陣土屋」と書かれているのみ。これで沓掛宿はあっけなく終了です。
                         

4,秋葉神社(あきはじんじゃ)

草津に行く道があることから湯治客で賑わっていた沓掛宿ですが、中心街を過ぎてみて全体に宿の面影はありませんでした。本陣の先右側には湯治客が曲がっていった草津の道標があります。「右くさつへ」と書かれた道標は1798(寛政10)年建立。
再び国道18号(日本ロマンチック街道)より外れて、草津道標の向かい側の上田信用金庫側の道に入っていきます。道祖神を二つばかり見ながら、緩やかな登り、また時には緩やかに下りの街道を行きます。秋葉神社が見えます。この辺りは旧古宿村で中馬(ちゅうま)、中牛(ちゅうぎゅう)で賑わった立場(たてば)です。中馬・中牛とは信州の農民が農閑期に駄賃稼ぎとして自分の所有する馬の背に物資を乗せて目的地まで運ぶ運送業のことです。途中で中継をせずに目的地までダイレクトに運ぶので荷崩れが無く評判が良かったようです。立場(たてば)とは難所のある場所や次の宿が遠い場合の中間にあるような場所で、茶屋などがあって一休できる場所です。時に「間の宿」とも呼ばれます。次ぎの宿の追分までにこの旧古宿村のほかにもう一つ旧借宿村という中馬・中牛の立場があります。この辺りに馬頭観音がとても多い理由もうなづけます。

畑仕事をしている人に秋葉神社の場所を訊きましたが、あまり知らないとのこと。たぶんあそこ!あの家の脇を通らせてもらったら近道!と教えてもらい到達。秋葉神社は小さな神社。あまり手入れされていない神社で、写真はぶれてしまって手元に残せませんでしたが平安時代の初期(元慶2年)に創建されたという神社です。ぶれた写真の中に石碑があったのですが、阿夫梨大神と刻まれているそうで、修験道に所縁のある神で雨乞いの神様。雨降り(あぶり)の語が、阿夫梨(あふり)に転訛したとあります。祀ってある神様は秋葉権現。秋葉山三尺坊大権現という信州戸隠出身の修験者だそうです。江戸時代には火防(ひぶせ)の神社として秋葉神社が流行したそうです。沓掛宿は火災で宿が全滅していますね。「中筒男命」とも石碑には書かれてあるそうで、この神様は、イザナギの命が、禊祓いをしたときに生まれた神で海神です。この街道のどこが海?と思われそうですが、当時は川魚を捕って蛋白源としていましたので、この山の中にも海の神様つまり漁業の神様を祀る必要があったのですね。
折良く前方に見えてきたのは川魚料理の看板「ゆうすげ」です。ランチに入ります。その量にびっくり!写真の御膳で850円!しばし休憩します。

甘い桑の実を採って食しながら出発します。少し左に分岐しますがまたすぐに18号と合流です。緩やかな曲線の街道を行くと左側に女人街道(上州姫街道)追分となる案内板。1802(享和2)年建立の馬頭観音もあります。
                                   

5,遠近宮(おちこちぐう)

所在地:長野県北佐久郡軽井沢町長倉4751
秋葉神社のある旧古宿村の集落を過ぎて、遠近宮のあるこの辺りが、古くは遠近の里と言われた旧借宿村です。古宿と同様に農民たちが馬や牛の背に荷物を乗せた運搬業を糧にしていた村です。右手に遠近宮。

遠近宮は『伊勢物語』の主人公として登場する在原業平が、「むかしをとこ有りけり。京にや住み憂かりけん、あづまの方に行きて住み所もとめむとて、ともとする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国、浅間の嶽にけぶりの立つを見て『信濃なる浅間の嶽に 立つ煙 をちこち人の 見やはとがめぬ』と詠んだ和歌から、1771(明和8)年に建立した神社に「遠近宮」と名付けたという言い伝えが残っています(北軽井沢ブルーベリーYGHのHP引用)。創立年代は不詳ですが、享保年間に社殿、鳥居が整備されていることが棟札から判明しています。紋は「変わり羽団扇」で天狗が持つもの。どのような伝説があるのでしょうか。

再び出発します。左側に沓掛宿では見ることの無かった大きな家が見られます。表札は本陣と名乗られていた土屋さんと同じ土屋です。屋根瓦など多数飾られたり置かれたりしています。由緒あるのか、それとも収集か、説明が欲しいところです。右側には杉玉がつり下げられた家。佐久酒商組合員の看板とその上に遠山印刷の看板。造り酒屋、あるいは酒類販売店のあと印刷屋さんになって、今は店じまい、そんな様子の店舗跡です。沓掛宿本陣の辺りよりも風情がある街道筋です。

馬頭観音が二つばかり続きます。一つはこれまでに無い見上げるばかりの大きな石碑です。そして沓掛宿の終わりは草津分去れ道標です。「従是左上上州くさ津道」と刻まれています。道が二手に分かれる場所を追分といい、牛や馬を追って行き先を決めたことが語源となっているのに対して、同じ追分の道でも「分去れ」となると分かれる去るの人間らしい感情の表現でいいなぁ、と思います。ここで沓掛宿を終了します。次は追分の一里塚からです。
                                              




Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie

                          




June 2005 瀧山幸伸  HD(1280x720)

MAP 中軽井沢東 
MAP 中軽井沢西

沓掛時次郎碑
Kutsukake Tokijiro monument
  

中山道 軽井沢から沓掛(中軽井沢) ドライブ
Nakasendo Karuizawa to Kutsukake (Naka Karuizawa) drive
June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 沓掛(中軽井沢) ドライブ
Nakasendo Kutsukake (Naka Karuizawa) town drive
June 2005  source movie

取材メモ
中山道時代の地名沓掛が中軽井沢に変わってしまった。かつての宿場町の風情も無く、味気ない。

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