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長野県木曽町 宮ノ越

Miyanokoshi,Kiso Town,Nagano

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Oct.8,2019 柚原君子

中山道第36 宮ノ越宿

概要:

宮ノ越宿は長野県南西部に位置し西に木曽の御嶽山、東に中央アルプス駒ヶ岳、木曽川の大きな流れと中央本線が通っている山間の地ですが、木曽山中にしてはめずらしいほどの平坦な地が多く、農地も広がっています。

伊奈地方に抜ける権兵衛街道の追分もあり賑わった宿場ですが、中山道宿場の史跡よりも木曽義仲関連史跡が目立ちます。宮ノ越宿の所在地となる木曽郡木曽町日義(きそぐん きそまち ひよし)も朝日将軍と呼ばれた木曽義仲の「日」と「義」をとっています。

木曽町は平成17年11月1日に木曽福島町・日義村・開田村・三岳村の4町村が合併して誕生した町です。

明治の大火でほとんどが焼失して高札場跡や道路の曲がりくねった鍵方もなく、宿の面影はあまりありません。

宮ノ越の命名は、山の中腹に美濃国一の宮の南宮神社があり江戸時代には南宮大明神、山は南宮山と呼称されていて、その中腹にある村を宮の腰といいそれが変化して宮ノ越の地名になったと伝えられています。

1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、宮ノ越宿の宿内家数は137軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒で宿内人口は585人となっています。

1,巴淵(ともえがふち)

先回は藪原宿を轟音がとどろく山吹トンネルで終了していますのでその続きです。トンネルを抜けると木曽義仲の大きな看板。宿の面影よりも木曽義仲関連史跡が多いといわれる宮ノ越宿です。

山吹トンネルの「山吹」は木曽義仲の愛妾。これから通過する巴淵の「巴」は義仲を生涯守り続けた女性です。木曽の深い山の中は雨のち曇りの事もあってまだ16時なのに薄暗く先を急ぎたくなります。

路傍の句碑や宮ノ越宿のモニュメントを見ながら巴淵に。滞った水が巴状に渦巻き、伝説によると龍が住み、化身となって義仲の養父である中原兼遠の娘として生まれて巴御前と名乗り、戦場にも馳せて義仲を守り通したと説明版にあります。

過ぎて右側に義仲が南宮神社に参拝するときに手を洗ったという碑。山の中とはいえ畑の比較的多いこの近辺だそうで、家の納屋に農作物が干してあるのもなるほどと思います。

                                 

2,徳音寺

宿の面影はあまりというかほとんどない宮ノ越宿。住まわれている表札の横に当時の屋号「紺屋」「まるや」などと、それでも小さく掲げられています。山吹山、ワレモコウ、柿、葉鶏頭、ナツメなどを見ながら徳音寺に。

木曽義仲は1154(久寿元)年、源義賢(みなもとよしかた)と小枝御前の二男として武蔵国で生まれています。翌年に伯父により父親が攻め滅ぼされ2歳の義仲は信濃国木曽に逃れ中原兼遠(巴御前の父)にかくまわれて養育されます。幼名を駒王丸。元服後に木曽次郎源義仲と名乗ります。26歳の頃、後白河法皇の第2皇子より平家討伐の命を受けて旗を挙げて北陸に進撃して倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて戦い、平家を撃滅します。その功績により京都にのぼり征夷大将軍(称号は朝日将軍)に任ぜられますが、その5年後、後白河法皇の策略に落ちて近江の国で討ち死にして、31歳の短い生涯を終えてしまいます。

徳音寺は義仲が母親の小枝御前の菩提を弔うとともに平家追討の祈願所として建立した寺です。元は柏山寺という名称だったのですが、義仲が亡き後に遺臣が「朝日将軍義仲」の名を後の世に伝えるために山号を「日照」、寺号を義仲の法名徳音院殿から「徳音」に変更しています。

鐘楼門は犬山城主よりの寄進。彫刻のあまりない質素の美がある、と説明にあります。境内には馬に乗った巴御前の像がありますが、少女のように見えます。本堂左手に義仲の霊廟があり木曽一族の位牌が納められています。

                                        

3、木曽義仲館、本陣

時間が遅かったので中には入れませんでしたが、立派な銅像が正面にあります。先ほどの徳音寺の巴御前は少女のような像でしたが、こちらの巴御前の方が義仲を慕い守り抜いた勇ましい姿が現れています。

徳音寺も義仲館も中山道からは少し離れた山の方にありますので、これから再び街道に戻ります。

本陣

村上弥惣右衛門が代々勤めた本陣。1883(明治16)年2月の大火で街道沿いの90軒の家と共に本陣の主屋部分も焼失。客殿部分は焼失を免れて、無料で一般公開されてるそうですが、訪れた日は定休日の火曜日。中に入ることはできませんでした。立派な門から中の方を少しだけ撮影して通過します。

本陣と同じ側の木立の中に立て札のみあるのが脇本陣。都築家が勤め問屋と名主を兼ねていたと書かれています。

                              

4 田中邸(旅籠)

旅籠であった田中邸も1883(明治16)年2月の大火で焼け落ちていますが、持ち出して無事であった家具を戻し、隣村の建物部材などを使って建て替えられています。

17時になり、付近はさらに暗くなりました。田中邸もしまっていましたが運良く役所の人が何かを取りにきた様子で、ほんの少しでしたらどうぞ、と中に誘っていただきましたので、急いで内部の写真を。

昔の中山道の古い写真がありました。道幅はせまく軒を寄せ合う感じです。宮ノ越宿では至る所で”大火で全焼し”という記述が見られますが、なるほど、このように木造が軒を寄せ合えば、わずかな火事でもひとたまりも無いだろうと想像できます。けれども、何があっても近隣で助け合うような温かさが写真からはあふれていました。

宮ノ越宿は木曽大工と呼ばれた出稼ぎ大工が多く住んでいたそうで、質の高い仕事ぶりであったそうです。田中邸の二階部分をささえているかのような玄関の持ち送りは波の飛沫の模様が彫られて、とても綺麗。

向かい側にも旅籠であっただろう造りの家が残っていて、史跡の少ないといわれる宮ノ越宿ですが、付近は宿の中心地点であった面影があります。

                  

5 御膳水、一里塚、原野駅

明治天皇の御膳水。井戸は江戸末期に掘られ昭和初期まで使用され住民の貴重な飲み水。1880(明治13)年の明治天皇の巡幸の際にはこの井戸の水で茶を出したそうです。

その先には元禄時代(1690年頃)の石仏群。十三夜塔、観世音菩薩、道祖神などがあります。

15分ほど歩いて行くと左側に一里塚跡。木の立て札は判読不明。丸みのある石に「宮ノ越一里塚」と刻んであります。宿場の外れとなり、夕焼けも綺麗な見晴らしの良い場所に出ます。原野の駅に急ぎます。JR中央本線のレールが見えています。大きな工場もあります。第5中山道の踏切を越えて松沢のバス停に。

原野の駅までもう少しですが、中山道時代の原野は「間の宿」の機能を持っていて、緊急伝達用に七里毎に置いた七里番があり、出梁造りの家が少しあり面影が少し感じられますが、18時になり周囲はほとんど暗く急ぎ足に。あと20分で塩尻に行く電車が来ます。乗り遅れると1時間待ち。やっぱり急ぎ足になります。街道を右に折れたところに駅。ぼんやりとついている灯。「原野」無人駅。ここで終了します。

                                              


June 2005 瀧山幸伸 source movie

Map 薮原から宮ノ越

Map 宮ノ越

Map 宮ノ越南

Map 宮ノ越から木曽福島

中山道 薮原から宮ノ越 ドライブ

Nakasendo Yabuhara to Miyanokoshi drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 宮ノ越 ドライブ

Nakasendo Miyanokoshi town drive

June 2005  source movie

宮ノ越宿

Miyanokoshi post town

巴が淵

   

【街並】

本陣がわずかに当時の面影を残しているが、宿場保存は積極的ではない。

道路に平行して水路が走るが、特段の配慮もなされていない。

本陣跡付近

     

水路が残るが、修景はなされていない。

 

井戸が懐かしさを演出する

 

井戸付近の街並

 


Aug.2003  瀧山幸伸 source movie

  

【木曽義仲館と巴が淵】 巴が淵付近は美しく涼しい環境だ。

  

宮ノ越のまとめ アセスメント 合計 1点

フィーチャリング(義仲)+1

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