長野県佐久市 望月
Mochizuki,Saku city,Nagano
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中山道 第25「望月宿」
概要
人の足より早く、人の手荷物より多くを担げる「馬」は昔よりいろいろな場面でなくてはならない動物でした。馬上の戦士が敵方に槍を突き刺す場面などは映画で多く観ますが、戦の最前線だけではなく、戦が続く間は駄馬に必要な物を乗せて陣地に届ける役目もあり、戦での「馬を持つ」意味は勝敗に大きく影響をしていました。
また中山道などの宿駅から宿駅をつないでいく官、民の荷物を運ぶのもすべて馬で、馬不足の場合は助郷と呼ばれる近隣の村が貸し出す義務も負わされているほどでした。
このような馬を育てる場所を「牧」と言います。特に軍事的に馬を育てる事は重要なことで、天皇を護ることもまた然りで、朝廷に献上する馬を育てるために放牧してある牧を官の牧といいました。官の牧(御牧)は甲斐の国、武蔵の国、信濃の国、上野の国などにありました。
信濃の中でも千曲川や鹿曲川(かくまがわ)と連なる山々に囲まれた、広大な台地である御牧ケ原(現在の地名では、佐久市望月・浅科から小諸市、東御市辺り)にある望月は、馬が逃げ出せない天然の柵を持つような放牧に適した地形で、望月の牧から献上する馬が信濃の中では最も多く、また駿馬でもあったそうです。
官の牧場の責任者を堅牧と言います。堅牧が馬を率いて京に上るのが毎年8月15日の満月(旧暦でいう中秋の名月)の頃で、望月官牧の馬は質が良くて京でも、「望月の駒」として評判であったそうです。
歌人にも好まれて多くの「望月の駒」の歌が残っています。
『逢坂の 関の清水に 影見えて 今やひくらむ望月の駒』(逢坂の関のあたりの泉の水に秋の明月の光が射し、その澄んだ水に姿を映しながら今曳かれていることだろうか。望月の牧の馬よ)紀貫之。
牧を管理する役人として堅牧が置かれていますが、望月では朝廷への貢馬として京に上る筆頭の堅牧が望月氏で望月宿には望月城(現在は跡)もありました。しかし、北条氏に属していた望月氏は、徳川家康が江戸城に入る2年前の1582(天正10)年に、依田氏に攻められて滅亡しています。そして関ヶ原の戦いが1600年にあり、1602年は江戸幕府が開かれて、望月宿が成立しています。
1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人とあります。
1,布施温泉入口交差点よりバス便で望月宿入口に
八幡宿のはずれの百沢集落から国道に出て歩き始めたいところですが、雨。有り難いことに佐久平より宿を巡って行かれるようなバス停の配置になっていて、この先の望月宿にも行かれます。ただし、瓜生峠を歩くことは出来ません。布施温泉入口の交差点脇のバス停から乗車して20分ほどで鹿曲川に架かる「望月橋」に到着。私はバスで来ましたが、正しく旧中山道を歩いてくると、この橋より北の方に架かっている「長坂橋」に出ることになります。バスを降りて、本来歩くはずであった瓜生峠への道を振り返ってみると、かなり上りに見えます。
断崖の脇に「弁財天碑」。その脇に「駒曳きの 木曽やでるらん 三日の月」と去来の歌を彫った石があります。望月町教育委員会の立て札があって説明をしていますが、「石には芭蕉とありますが、正しくは去来です」と書いてあります。去来は芭蕉の弟子ですよね。石彫る間に誰も気がつかなかったのかしら。だれがどこで間違えたのか、おおらかな昔のことでしょうか。おかしいです(笑)。
それにしても岩肌に張り付いた弁財天様。室町時代の末期に近江の竹生島の弁財天を勧請したと伝えられているそうで、洞窟の上に文字が見えて、「蟠龍窟」とあります。龍が張り付いているということでしょうか。望月宿本陣の大森曲川の書とのこと。
2,祭りの準備中の望月宿
宿の入り口を行くと、なにやら屋台の準備。軒にはお祭り提灯。偶然ですが、「榊祭り」という奇祭といわれる当日と合致したようです。うれしいのですが、史蹟の写真はちょっと難しい感じです。屋台を張るには時間が決められているのでしょうか、業者の方々が家々の軒下で商売道具を広げるばかりにしてスタンバっている状態。
3,大森本陣跡
そんな祭りの準備の中をともかく歩きます。右側に「旅籠山城屋喜左衞門」。江戸時代末期の創業。向かい側に「井出野屋旅館」。大正時代の木造3階建て。営業中のようです。その並びを歩いて行くと「望月歴史民俗資料館」。立派な建物。名主と問屋を兼ねた本陣のあった場所です。本陣遺構はありませんが、資料館の中には本陣に宿泊した大名の名が書かれた大きな木札他いろいろ展示されています。
大森小児科医院にかかっている御本陣の木の看板は書道家によるものです。望月宿には「屋号看板マップ」があり(資料に写真があります)、その表によると石飛博光氏の書によるそうです。叶屋、あさや、笹屋もこの方の書。著名な方のようです。
「水割り場石と木樋」を示す看板があります。明治時代のようですが、水争いも村々で起こっていたようですね。水をどのように分配して行ったかが説明されています。夫婦の道祖神。お賽銭も。望月宿辺りは道祖神がかなり多いそうです。馬をつないだ石もあります。人には動かせるけど、馬には動かせなかった大きさ、とおありますが、……馬も本気になれば軽々だと思うような大きさに見えます。馬も休みたかったのでは?と思いながら、先に行きます。
4,望月歴史民俗資料館
大変見応えのある資料館です。入って良かったと思えます。縄文時代からさかのぼって望月宿の歴史が展示されています。先ほどの本陣に宿泊された大名の名前の看板も残っています。「尾張中納言殿休」「彦根中将休」「松本×××泊」「彦根××泊」など、お休み処とか泊まり処とかもきちんと記された、ご一行様歓迎看板ですね。今は本陣や庄屋の住宅など、表側から見ることが出来ますが、なかなか古文書などは中山道歩きの一般人は見ることが出来ませんので、このような資料館は有り難いと思います。本陣の宿帳もあります。
また、和宮様下向についての書類も多く、「東海道が荒れているところもあるので中山道へのお道替え、時期は少し遅くなりそう、また追って連絡する」、「御下向の宿継ぎの馬、人がたくさんいるので、周囲の村々に協力を要請する」などの文久一年の公儀よりのお達し書の写しなども展示されています。
公儀が管理する官牧場地の望月ですが、近隣の人々の馬、つまり庶民が持つ馬などはどのように調達していたのかと、想像しながら館内を巡っていたら、やはりいざこざはあるらしく、周囲の村々(助郷)から、望月宿のやり方(割り振り)がおかしいと、奉行所に訴え出ている書もありました。
なかなか見応えのある資料館でうれしくなります。表に出たら、磁石になる鉄の石がありご自由にお持ち下さい、とあり、一つ頂いてきました。
5,鷹野家脇本陣
本陣の並びに大きな下駄を軒下にぶら下げた商家があります。向かい側は脇本陣の鷹野家。問屋を兼ねていたそうです。平入り切妻造で軒下に木鼻彫刻。そのお隣は大和屋という旅籠の「真山家」。こちらも問屋も兼ねていて幕末には庄屋さんでした。家屋は1766(明和3)年の建築で、江戸時代中期の宿場建築の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されています。ネット上では内部を見せてもらっている写真もありましたが、家の前には家の見取り図もなく「重要文化財 真山家」の看板以外には何の説明もありません。木鼻彫刻はきれいですが、ちょっと残念です。
先方の左側に見える森は大伴神社です。右側の民家には午後からの祭りに供える若者達の姿がありました。
6,大伴神社
大伴神社の創建は110年頃。701〜04年に制定された望月牧を管理した望月氏に庇護されたと考えられ、御牧七郷の総社、望月牧鎮守社として広く信仰を集めます。望月氏はその後も神社を篤く崇敬し、1488(天慶2)年、村上氏との兵火で焼失すると社殿を再建。現在の本殿はその後の1677(延宝5)年に建てられたもので、三間社隅木入春日造、こけら葺で江戸時代初期の神社本殿建築として貴重な存在となっています。
毎年8月15日に奉納される「榊祭り」は、佐久市指定無形民俗文化財となっていて信州の奇祭とも称される特殊神事です。松明山から松明(たいまつ)を揚げて望月橋まで一気に駆け下り、その松明を橋から鹿曲川へと投げ込み五穀豊穣や無病息災を祈願します(長野県歴史、観光、見所のHP 要約)。
お祭りの当日ですが、大伴神社の階段を上がった本殿前の広場には誰もいませんでした。榊祭りのパンフレットが本殿の格子扉の両方に貼ってあるだけ。ほんとお祭りなんだろうか?飾りも参拝客もない神社を不思議に思いました。鳥居からかなりの階段を登った山の上にある神社。雨模様でしたが望月宿の連なる屋根や山の緑がきれいで静かに景色が堪能出来ました。
7,榊祭り 町の様子
榊祭りは夜になって川に松明を落とすことが奇祭になっていますが、残念ながら今日中にバスで佐久平に帰らなければなりません。17時頃のバスが最終ですのでその時間まではいられるのでギリギリまで写真を撮ろうと思います。
もう一人最終のバスで帰ろうかと迷っているおじいさんが、松明を川に投げ込むところまで撮影してから、タクシー相乗りで佐久平まで5000円くらい……と持ちかけられたようなそうでないような、……しかしなぁ……一人で17時のバスに乗ることに決定した私でした。
榊祭りは火と榊によって一切の不浄を払い浄め、五穀豊穣や無病息災を祈る、室町時代から続いている荒々しい火祭りです。望月源三郎(望月信雅、印月斎)が武田信玄との戦の折に大軍と見せかけるために松明をかざした、とも言われています。松明山(たいまつやま)から松明を手に2kmの道のりを駆け下り望月橋から鹿曲川に投け?こみます。松明はまるで火の滝のように川に落ちていくそうです。そして大伴神社へ駆け上か?った4基の榊神輿は、神輿同士でぶっつけ合ったり、ゆさぶったり、地面に叩きつけたり、水を掛け合ったり、深夜まで激しくあおり合うのだそうです。……むちゃくちゃな動きですね。だから大伴神社の境内には何もなかったのですね。神輿に飾られた「榊」が方々に散らばりますが、ご利益のある榊として、皆さんは自宅に持ち帰るそうです。
いつか機会があったら望月宿に宿泊をしてお祭りだけを見たいです。
8 パンフレット
Nov.2016 柚原君子
望月宿再訪(2016.11.01)
先に訪れた望月宿は「榊祭り」の当日で祭本部や出店に隠れて宿の町並みはほとんど見られず、祭風景を中心に撮りましたので、宿の雰囲気を知りたく出直しました。前回は望月橋を渡って右折してそのまま宿のメイン通りに入りましたが、前宿の八幡宿から歩いてきた場合は「長坂橋」(鹿曲川に架かる望月橋より一つ上流にある橋)に出てくるということで、本日は「長坂橋」より再度望月宿に入ります。
0,弁財天
先回訪れたときは、上まで登りませんでしたが、今日は行ってみました。荒れたお寺になっていました。
1,長坂石仏群
僧衣姿の道祖神などがありますが、雨模様及びカメラの設定が今ひとつうまくいっていないようで、くっきりと撮れないのが残念です。坂道を登っていくと望月城城址に。
2,望月城址
望月城址は一の郭(くるわ)二の郭跡や堀のあとなど説明板が立っていますが、草ぼうぼうで荒れています。宿を見下ろせる展望は素晴らしいものでした。正面に見えるのは蓼科山のようです。右側の雲の中が美ヶ原方面。城址を降りてくると馬つなぎの立て看板もありました。望月駒の里、草競馬という垂れ幕が下がった道路と交差しました。望月と言えば自然に馬が思い浮かびますが、どのような草競馬でしょうか。11月開催とあります。
3,信永院
本堂は江戸末期の建築とあります。望月城址遊歩道にあります。柿が見事に実っていました。根元から5本の幹を出しているのは榧(かや)の木は樹齢500年。
4,城光院
望月氏代々の菩提寺。本堂は江戸後期建立。
5,大伴神社
6,望月宿町並み
榊祭りの日は多くの人が行き交っていましたが、今日はひっそりとして、昔日の宿の風情があります。
Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie
瓜生峠
Uryutouge
瓜生坂一里塚
長坂 相体道祖神
Nagasaka
望月宿
Mochizuki
June 2005 瀧山幸伸
中山道 八幡から望月 ドライブ
Nakasendo Yawata to Mochizuki drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 望月 宿場内 ドライブ
Nakasendo Mochizuki town drive
June 2005 source movie
望月
Mochizuki
June 2005 source movie
瓜生坂 一里塚
Sep.2008
瓜生坂下 道祖神
本陣跡
真山家(国重文)
Sanayamake
佐久市望月201-1 真山家住宅(長野県北佐久郡望月町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 明和3(1766) 桁行10.9m、梁間17.8m、一部二階、切妻造、北面突出部 桁行9.8m、梁間4.6m、二階建、切妻造、桟瓦葺 19730602
佐久市望月201-1 真山家住宅(長野県北佐久郡望月町) 土蔵 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 土蔵造、桁行4.5m、梁間3.6m、二階建、切妻造、桟瓦葺 19730602
Sep.2008
望月の街並
取材メモ
望月の宿場には多くの歴史的建造物が残っている。看板などの規制を行えば、大変美しくなる。街並に起伏があり、周囲の山、川にも恵まれ、歴史的街並復元のポテンシャルが高い宿場町だ。
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