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長野県塩尻市 本山
Motoyama,Shiojiri City,Nagano

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May 2019 柚原君子

撮影 Nov.5,2018

中山道第32 本山宿

概要

本山宿は長野県塩尻市にある中山道第32の宿で,東西を山に囲まれています。中山道は戦国時代には重要であった牛首峠経由の険しい山道ルートを徳川の時代になって経済の流通の便利さを優先するために、塩尻峠から本山宿までの道が改められています。
新ルートとなる宿には人々が近在より集められて宿の形がとられました。この本山宿も先の洗馬宿と同様に作られた宿となります(詳細は塩尻宿・洗馬宿概要に)。1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によると宿内家数117軒で本陣脇本陣共に一軒、旅籠34軒、宿内人口は592人とあります。木曽路の入口に当たる宿ですが、規模は小さく町の長さは500メートル強。山に囲まれている地ですから耕地が少なく、痩せた土地でも育つ蕎麦の畑が多く、そば切り発祥の地となっています。

古来より日本の権力図は位としては朝廷が高く、権力や政治支配としてはその時代の武家の大将である足利家や豊臣家や徳川家などが幕府となり、幕府は朝廷から将軍や大納言・中納言などの官位をもらい、政治を司るという形の二重構造できています。
幕府は役人がいて政治を行う場所ですから膨大な収入が必要となります。その収入源の品目は米、塩、金、銀,海産物、炭などでした。幕府は、1万石以上の領地を持つ大名を「藩」として置き、各藩それぞれの内情による政治が任され,幕府は石高を決めて年貢として幕府に上納させ、忠誠の証や各藩が過剰に裕福にならないように、参勤交代のシステムなどを取る幕藩体制をとっています。領地は元々全てが幕府のもので各藩は幕府から土地を与えられる形となっています。また、材木のある山、金銀が出る鉱山や政治戦略的に必要な港湾などは幕府直轄の領地として天領としています。

本山宿は江戸初期には松本藩の領地。1723(享保10)年には幕府の領地となり松本藩預かりとなっています。時代は流れて幕藩体制が終わり廃藩置県となりますが、本山宿には鉄道駅がおかれず(京寄りの日出塩村に駅ができた)、国道もバイパスとなって宿と離れたので, 素朴な佇まいが残されている本山宿です。

1、秋葉神社石仏群とそば切り発祥の地の看板

洗馬宿を過ぎていくらも歩かないうちに、もう本山宿の気配。ため池に泳ぐ鴨の群れを見ながら進むと左側に秋葉神社の小さな祠と小さな常夜燈。その並びに庚申塔、供養塔、二十三夜塔、地蔵尊、道祖神、馬頭観音など多くの石塔群が祀られています。宿場の江戸寄りの下木戸の辺りにあったものが集められているとのこと。
宗賀南部地区の農業集落排水と書かれたマンホールの蓋があります。描かれているのは日本アルプスの山々と蕎麦畑。周囲の花はカタクリのようです。やっぱりね。蕎麦畑がデザインされている蓋。なんとも穏やかな絵です。

秋空の中、歩を進めると「そば切り発祥の地」の立て札。日本蕎麦屋さんで戴く「ザル」や「モリ」の麺がそば切りですね。この辺りが本山宿下木戸跡。
そば切り発祥は実は諸説あるようで、文献的に一番古いのは1645(正保2)年の俳書「毛吹草」に「そば切りは信濃国の名物。当国より始まる」との記述があります。1706(宝永3)年の松尾芭蕉十哲の一人である森下許六著の「本朝文選」(再版の時「風俗文選」と改題)という本の中には「蕎麦切りといっぱ、もと信濃ノ国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける」と本山宿の名前がはっきりと記述されているそうです。

他には甲州発祥説、京都の禅林発祥説などもあるようです。いづれにしても日本でのそば畑の起源は古墳時代とも縄文時代ともいわれていますから、蕎麦の実をそのまま食べた古代、また蕎麦の実をつぶして粉より餅状のものであるそばがきなど、痩せた土地の貧しい作物が現在では日本の伝統食となっているのは、日本の食文化の奥深さを示しています。
                        

2、国登録有形文化財・斜交屋敷形式の三棟

蕎麦談義をしながら本山宿下木戸跡、下問屋跡と進んでいきます。「俵屋」、「田中屋」、「堺屋」「清水屋」などの看板を掲げた商家らしい格子戸の家や建て替えられた今風住宅の軒先に屋号のみがぶら下げられたりして宿の風情が保たれています。

本陣と脇本陣は跡地と標識が残るのみですが、本陣の向かい側に旧旅籠として「川口屋」・「池田屋」・「若松屋」の3軒が「斜交屋敷形式の三棟」として国登録有形文化財となっています。道路に面して家の片側がグイっと出ています。ノコギリの歯のようにという形容がありますが、まさにそのような感じです。同じような形は望月宿や坂本宿でも見たことがありますが、建物の並び方が斜めに交わるということで、斜交(はすかい)屋敷という名称です。
川口屋は小林家住宅。2階全面千本格子。両側は袖卯建。二重出梁。池田屋は田中家住宅。2階全面に千本格子。棟に越屋根が付いています。若松屋は秋山家住宅。2階全面を腕木で持ち出す出梁造り。管柱を立てて格子を設けています。2階は千本格子。袖卯建と3軒共に間口5間から7間の上級旅館と見なされていて小さい宿場でありながらも繁栄が偲ばれます。ただし建物は明治2年にこの地を襲った大火以後に建てられたものだそうです。(現地説明板より抜粋)。

※国登録有形文化財と重要文化財の違い
■国登録有形文化財……平成8年からできた登録制度によるもの。建造物に限られる。重要文化財より新しい明治〜昭和の近代遺産が対象。保存の対象は外観だけで、中を改装して活用しても良い。
■有形文化財(特に重要なものが国宝、重要文化財となる)
建造物、絵画、工芸品、彫刻、書籍、典籍、古文書、考古資料、歴史資料などで歴史上、芸術上、学術上価値の高い物。中でも特に重要な物が重要文化財や国宝に指定されている。建造物の場合指定文化財になっているのは江戸時代以前のもの。指定の有形文化財(建造物)では外観のだけでなく全体が保護の対象となる。
                                     

3、本陣跡地立て看板全文

国登録有形文化財・斜交屋敷形式の三棟のある向かいの広場は本陣のあった場所。左手に明治天皇行在所跡」の碑その奥にある立派な雀おどりの付いた家が小林家本陣の今。広い敷地であった思われる本陣のあった広場には大きな説明板がありますので、そのまま載せます。
中山道を実際に歩いて見ると「そうだったのか!」に遭遇しますが、今回も木曽路の古い字が“吉蘇路” と書かれていて驚きました。
中山道 本山宿本陣跡地に立てられた説明板
『和銅五年(713)に開通した吉蘇路 において、本山は木曽谷から松本へ向かう重要な位置にあった。中世には東山頂に本山城が築かれ、ふもとに本山氏の館(本陣付近)や根小屋から宿場の原型となる集落が形成されていった。 関ヶ原の戦では、徳川秀忠 軍が開戦当日の慶長五年九月十四日に本山に着陣していた。

中山道 が制定された慶長七年(1602)、幕府代官頭大久保長安 は江戸の大普請の号令のもと、木曽の木材を搬出するため、江戸への近道として小野新道 をひらいた。これは桜沢から牛首峠をへて小野、岡谷・下諏訪へ至る道である。慶長十八年に長安の死後大久保事件の連座により、松本藩主石川康長が改易され、小笠原秀政 が入封した。秀政は慶長十九年(1614)、宿駅制度を整備し、本山宿に問屋職を定めた。また洗馬宿・塩尻宿 を新設して、もとの塩尻峠超えの道筋が中山道となった。

本山宿 の問屋は、一ケ月の上十五日を小野七左衛門に、下十五日を小林八右衛門に命じ、半月交代とした。上問屋は小野氏(後に花村氏)が脇本陣と兼帯し、下問屋は小林氏が本陣と兼帯し、幕末まで続いた。

本山宿は、南から上町・中町・下町で構成され、南北の長さ五町二十間(582m)、道幅は二間〜三間、戸数百十七、本陣一、脇本陣一、問屋二、旅籠三十四軒であった。松本藩の南境として口留番所が設けられ、米穀・塩、女など通行改めが行われた。宿場用水は南の二つの沢から山斜面に堰や懸樋で引き込み、宿場の中央に用水を通し、五カ所に土橋が掛けられていた。

本山の名物そば切りは、宝永三年の風俗文選に「そば切りといつばもと信濃国本山宿より出てあまねく国々にもてはやされける」と紹介された。また本陣では、そば粉やそば切りが諸大名に献上されている。

文久元年(1861)十一月四日、本山宿は十四代将軍徳川家茂に嫁した皇女和宮の宿泊地となった。京方一万人、江戸方一万五千人、松本藩などの警護一万人、助郷人足など総勢八万人が四日にわたり通行し、空前絶後の大名行列となった。助郷二万人・馬二千疋などの仮小屋は洗馬宿まで連なり、夜は二千本の提灯の灯りで昼間のようであったと伝えられている。

慶応四年二月三十日、本山宿の長久寺において、松本藩主戸田光則は東山道軍総督岩倉具定に勤皇の誓約をしたが、態度決定の遅れを理由に、三万両の軍資金と兵糧、出兵を命じられた。松本藩の戊辰戦争の始まりとなった。』
本陣のあった広場の先には下問屋跡。中山道石柱の奥には花村屋脇本陣跡と上問屋跡の立て札。上問屋も兼ねていた花村家は宿駅廃止後他の地に移り、脇本陣建物は公民館建設のために壊されたそうです。しばらく行くと口止め番所跡(各藩で設置している関所)。松本藩領の本山宿はこの少し先で尾張藩との藩境があった為に出入りには厳重な取り締まりがあったとあります。
                                   

4、一里塚〜日出塩の無人駅

本山上町のバス停を過ぎて見えてくるのは長久寺と常光寺跡。
定光寺は木曽名所図会に「本山観音信濃巡礼所21番也」との記述があるそうです。その先に高札場跡があり小さな常夜灯もあります。そして京方面への上木戸跡と続き本山宿の家並みは終了します。
日出塩の一里塚に向かって歩き始めます。
左手国道の山の方に本山宿の大きな看板。その奥に少し見えるのは本山神社。登る元気がなくスルーします。
国道から右に入る道を進みJR東海中山道踏切を渡ります。日出塩の青木という伝説の地に出ます。大きな檜と貴人の墓があったそうですが江戸の屏風絵という意味も全く分らず、なんだかなぁ……と思いつつ通過。一里塚を過ぎたところが日出塩の駅。本山宿は栄えていましたが、日出塩は単なる集落。なのにどうしてここに駅が?
日出塩の青木とともに本山宿最後の不思議二つでした。
木曽路の入口らしく重なり合う山々は目の前で、立て場では熊の皮や熊胆(くまのい)を売っていたとありますから、木曽の山に入ってきた感じがさらにします。山間の早めの夕日に映える紅葉を堪能して、薄の群れる無人駅日出塩より乗車。歩いてきた洗馬宿を車窓より振り返りながら塩尻に戻り帰京します。
次は贄川宿です。
                                                


Sep.2009 瀧山幸伸

       


June 2005 瀧山幸伸 source movie

中山道 洗馬から本山 ドライブ
Nakasendo Seba to Motoyama drive

中山道 本山 宿場内 ドライブ
Nakasendo Motoyama town drive


本山
Motoyama

とりたてて素晴らしい所は無いが、静かな宿場町

 

川口屋
 

本陣跡
 

木曽路の碑
 


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