JAPAN-GEOGRAPHIC.TV

長野県長和町 長久保
Nagakubo,Nagawa town,Nagano

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 

Aug.29,2018  柚原君子


中山道第27 長久保宿


概要

長久保宿は「長窪」の字が当てられることもあります。
長久保宿辺りは長窪という地名ですから「長窪宿」で然りなのでしょうが、1859(安政6)年に代官所に住民達から「長窪宿」から「長久保宿」にしたいと宿名変更が出されています。
変更届の書面は「御用向きの場合は長窪と書いているが、この字は宜しい字では無いので、人気が沈み宿場が窮迫し、御用が勤まりかねている。古来より御公儀(幕府・朝廷)様方のお輿入れの折りは御吉例を持って長久保宿と唱えてきているので、これからは長久保宿と唱えたり書いたりすることを認めて欲しい」というものです。

これに対して許可可否の代官所からの返答書類は見当たらないそうですが、以後の公文書にも長窪の文字が使用してあることから、住民からの申し出は却下されたようで、公文書では「長窪」、通称では縁起を担いで宿の繁栄を願う「長久保」であったようです。

しかしそれより200年も前の1602(慶長7)年に前宿である芦田宿との間の駄賃を定めた幕府の書類に「長久保」の表記があることも判明していますから、長久保、長窪のいずれが古くていずれが正しいのかはないのでしょう。

明治以降の行政を初めとするおおよその表記は通例表記を優先させたのか「長久保」になっています。それに従って、本文中は長久保で統一します。

平安時代にこの一帯で勢力を振るっていたのは滋野氏で、そこから派生(分家など)した海野(うんの)氏、望月氏、真田氏、禰津氏、矢沢氏などが滋野氏流とよばれています。戦国末期の長久保は真田氏の支配地となっています。関ヶ原の戦い後に帰農して長久保宿の開発に携わりその代官役として派出されていた真田家の家臣である石合氏、小林氏は、のちに本陣や問屋を任されています。

本陣や脇本陣の屋根瓦には真田氏の家紋である六文銭が掲げられています。中でも本陣の石合家は真田信繁(のちの幸村)の長女「すへ(阿菊)」が嫁いでいて、真田信繁が大坂夏の陣の直前に婿である石合十蔵道定に出した文章が残されています。

「父子事御安事、作兵衛方迄御尋尤候、我等篭城之上ハ、必死に相極候間、此世にて面談ハ有之間敷候、何事もすへこと心に不叶き候共、御見捨無之やうに頼入候、委者惣右可申候、謹言」(長井彦助氏所蔵文書)
(口語訳:私ども父子のことをご案じになり、作兵衛方までおたずねになられたとのこと。もっともなことでございます。私ども籠城の上は必死の覚悟でおりますから、この世で面談することはもうないかと存じます。このすへいろいろとお心にかなわぬことがございましても、どうかお見捨てなきようお頼み申します。くわしいことは惣右衛門が申し伝えます。謹言。 ) (引用:東信ジャーナル[Blog版] )

宿は当初は依田川沿いの下河原にありましたが、1631(寛永8)年の洪水で当初成立していた宿場は流されて、少し高台であった現在地に移転します。地名も古町、新町、堅町(宿の中心)、横町と分かれています。堅町に宿の主だった機能がそろい、宿の発展に伴って横町に伸びていったと考えられています。

一番京寄りとなる和田宿、和田峠に向かう旅籠が連なっていたところが横町ですが、この横町で街道は直角に左に曲がっていきます。大体は枡形になっていますが、ちょっとめずらしいL字型の宿です。

長久保宿は江戸寄りに「笠取峠」、笠取峠の北側からやってくる「大内道」、京寄りに「和田峠」、さらに北国街道寄りに諏訪方面からの「大門峠」がありますので、旅籠が43軒もあった宿です。近隣宿の旅籠数が少ない宿では八幡宿の3軒、多い宿でも望月宿の9軒ですから、その数に比べると断突に賑わいを呈した宿ということになります。

1843(天保14)年の中山道宿村大概帳には本陣1、脇本陣1、旅籠43軒、家数187軒、宿内人口721人、と記されています。

訪れた日にほとんど人影は無く、観光案内場所も歴史館も無人で自由にお入り下さいになっていて、昔日の人の行き交うにぎやかな面影は全くありません。しかしその反面、前宿の芦田宿と共に江戸時代より時間が止まっているかのように、ひっそりと残る宿の趣は貴重なものとなっています。

宿に人影が無いのは交通の便の悪さもありそうです。
長久保宿を歩くには「佐久平駅」よりバスで芦田宿周辺まで行き、笠取峠を徒歩で越えるか、または佐久平駅の一つ先になる「上田駅」を下車して、1時間ほどバスにゆられて終点である長久保に入り、徒歩で前宿である芦田宿方面に戻りながら、長久保宿を歩き直す、という方法しかありません。

中山道の中ではこの近辺が新幹線や在来線と一番離れているところで、東京から日帰りや一泊でどう歩くのか思案する街道筋です。

昔の人にとって和田峠を含むこの界隈が中山道1の難所であったように、現在の中山道歩きを楽しむ人々にとっても交通の便が悪いという意味で難所であることに変わりはないようです。


1,芦田宿を経て笠取峠の松並木へ

先回は芦田宿の終わりの「石打場公園」で終了しています。今回はその続きですが、バス便の関係で「佐久平駅」→バスにて「立科町役場」下車。徒歩で芦田宿を足早に歩き、先回続きの「石打場公園」まできて、ここから「長久保宿」に向かってスタートです。

京都方面から来る人の為に信号表記は「芦田宿入口」。私はここから右の松林が見える方向、笠取峠に向かって歩きます。

常夜灯に夫婦道祖神が迎えてくれます。
古い標柱「笠取峠松並木」と新しい標柱の「笠取峠のマツ並木」と両方があります。新しい標柱のマツのカタカナの意味が分りません。首をかしげながら歩きますが、それにしても立派な松がそろっています。約2キロに渡って続く松並木は平成20年現在で73本、老赤松は樹齢150年から300年、長野県の天然記念物とあります。大正末期には229本が確認されているといいますから、ずいぶんと減ってしまったのですね。

旅人の日除け、暴風、暴雨の為の植林であったとも書かれています。現代では立科町によって公園緑地化されている笠取峠の松並木。道祖神や歌碑なども所々にある石畳の道を松を見上げながら進んでいきます。

と、ここで行政の出している松並木説明の案内文中に、『芦田宿成立は小諸藩城主である仙石越前守秀久が、岩間忠助と土屋右京野左衛門に命じ、それを受けた両名が蓼科神社にその成就を祈願した原文の木札がある』と明記してあります。

芦田宿の概要に、宿の成立をどこに願い出たのか不明、と書きましたが、小諸藩城主の命令であったのですね。城主の命令であればどこに願い出る必要も無かったことになりますね。ちなみにこの松並木も始めの数百本は幕府から下付されたものを小諸藩が植林したとあります。
この先は国道145号線を横断します。国道手前の右側に小諸藩領界石。1806(文化3)年に小諸藩が建てたものの復元です。振り返ってみてもとてもきれいな松並木でした。
                                                 


2,笠取峠の一里塚

信号も無い国道を横切って再び松並木に入って行きますが、こちらは楓など他の樹木も混ざっています。それでもビックリするくらい大ぶりの松です。「笠取峠1.3q」の標識に従って国道に合流します。やがて右側に一里塚が見えてきます。塚の木は赤松。街道の両側にある一里塚ですがここは北塚となるこれのみが残っています。道路改修をした記念碑もあります。国道の交通量は多いのですが、歩道がついているので安心して歩けます。
                      


3,笠取峠迷いながら古道と国道

笠取峠は、以前は狩取峠とか狩鳥峠とか書かれた時代もあったようです。現在は笠取峠。意味的には諸説あります。近くに見える浅間山があまりにも雄大なので笠を取るような形で見上げたとか、風が強いので飛ばされないように笠を取って歩いたとか、あるいは飛ばされたとか……。

峠を過ぎてここからは下りになる国道を歩いて長久保宿のある長和町に入っていきます。この辺りは中山道古道が山の中を縫っていて(多分国道を通したので分断されたのでしょう)、消えてしまって行き止まりになっているところもあるようです。

今歩いているの国道のもう少し上の山の中に、立場茶屋(街道の休憩所で、掛け茶屋のこと。旅人や人足などが腰掛けて休憩出来る場所で宿泊は禁じられていた)があったと、その説明が国道の擁壁に掲げられています。当時は二軒の茶屋があったそうです。

「道中たっしゃ薬」「せんきの妙薬」「でころよく通じ丸」など旅人が必要であった薬の名前も書かれていておもしろいです。休み処で薬など買えるようになっていたのでしょうか。それとも今流でいう広告であったのでしょうか。絵は茶屋で人々が休み、遠くに浅間山、馬で行く人、松並木などが鮮やかに描かれています。(鳴釜屋に伝わる版木を写したもの、とあります)。

この先「中山道原道」表示に従って古道の細い道を行っては見るのですが行き止まりだったり、その先が分らなくって戻ってきたりと、少し迷います。それでもそのような道に少し踏み入れただけでも満足です。

推定樹齢150年の枝垂れ桜の前に出ました。道は再び山の中の原道に続きます。少し行きましたが、怖いので引き返して国道に戻ります。国道を下っていくと「長久保」の標識。ホッとします。標高980メートルとのこと。

この先、またも迷います。五十鈴川橋を渡って松尾神社に入っていきたいのですが、国道で渡れるのは平沢橋しかありません。後で考えたら、国道の右側にほんの小さな脇道があって、それを下っていくと松尾神社に行き着けたようです。けっこう無駄に近辺をウロウロ歩きましたが、五十鈴川橋を発見!またもやホッとします。
                                                             

4,松尾神社

道に迷ったので松尾神社の正面から入ることになりましたが、本当は国道を外れて小径を降りてきて、ガードレールの切れ目から神社の脇に入って行くのが正しい中山道です。
赤い鳥居は足を支えるために前後に支えがある両部鳥居という形。五十鈴川を渡って境内に入ります。

草創年月は不明ですが社伝では1557(弘治3)年再建。1599(慶長4)年には上田城主真田信繁が、社領四斗二升九合を寄進とあるそうです。祭神は、大山咋大神(おおやまぐいのおおかみ)酒造の守護神。本殿は、1860(万延元)年、立川流3代目の立川和四朗富重(たてかわわしろうとみしげ)の作。
                           



5,吾一庵

松尾神社をあとにいよいよ長久保宿に入っていきます。堅町です。緩やかに下って行く一本道。人っ子一人いません。珍しいL字型の宿ということで正面の行き止まりまでまっすぐな道が見えますが、誰もいません。不思議な静寂。

右側には「吾一庵」。田字型四間取り、兼農で馬を扱っていたと伝えられている江戸末期の農家建築の貴重な遺構です。主屋の土間を通って馬が家の裏にある馬小屋に行ったと書かれています。

ご自由にお入り下さい、とあります。江戸後期の堅町の写真が残っています。横町で直角に折れるまでの一本道に所々に家のある、土埃が舞っているような白黒の写真です。堅町に本陣、脇本陣などが集まっていますので、長久保の宿は当初はこの辺りだけであったのでは?と書かれています。

長久保宿の歴史や中山道をどうして姫街道というか(東海道は去るとか切れるとかの名前がつくところがあり、縁起が悪いこと。また川が多く、増水足止めで予定が取れなくなるから、中山道を使う方が輿入れには良かった)などが書かれていました。
                                


6,旅籠「丸木屋」

屋根にいっぱい石が乗っている旅籠「丸木屋」です。1867(慶応3)年の構築。平成28年に保存事業が行われて公開されています。濡れ縁や片土間二列のある部屋数の多い旅籠です。黒光りする部屋。やっぱり見学者は誰もいません。静寂。
         


7,一福処濱屋

明治初期に旅籠として建てられたものですが、その頃から鉄道の発達があり中山道を利用する人が減り始めたので開業にはいたらず、住居として使用された時期もありますが、現在は歴史資料館になっています。

旅籠形式の常道である二階が少し出ている出梁造り(だしばりづくり)です。間口九間のとても大きな建物です。中でも目立つのは土間がとても広いこと。荷車や牛馬が庭に通り抜けられるように、とのことですが、牛馬が主屋の奥にある家畜小屋に行くことは良くある農家の造りですが、荷車も通れる広さというのは珍しいです。
概要に記した「真田信繁の書状」、町割り、荷に刺された板の荷札、笠取峠にあった立場茶屋の原本、中を見ることの出来ない長久保宿本陣の様子なども詳しく展示されていて見応えがあります。
                                                                               


8,本陣

宿の一本道の、もうそろそろ左側に直角に曲がろうかという手前に本陣はあります。本陣は真田家の家老であった石合家が代々務めています。概要でも記しましたが真田信繁の娘が石合家四代目の時に嫁いでいます。

現存する遺構では大名が宿泊した座敷棟と、江戸時代末期の1624年、寛永年間に建てられて表門が残っています。中山道では現存する本陣の中では最古のものといわれています。石合家には江戸時代からの古い文書や史料が保存されていますが、居住中のためでしょうか一般公開されていないのは残念です。本陣の横には立派な高札場があります。
                          


9、釜鳴屋(竹内家住宅)と脇本陣と問屋(小林家)

先に進んで同じく右側に「釜鳴屋」。江戸時代初期から酒造業と醤油の醸造を手がけていた竹内家です。明治末期の屋敷図では1500坪余りの広大な敷地に、母屋、納屋、蔵など棟数14もあったそうです。母屋の屋根の端に小屋根をつけた本うだつが見事です。笠取峠でみた立場茶屋の版木は当家の保存で、本陣の石合家と同様に古文書も多く残っているそうです。

構築年代は明らかではありませんが、寛永2年の絵図に同じ間取りが記載されていることや1731(享保16)年の祈祷札に打ち替えた跡がないことなどから、それ以前に建てられたと考えられる、と表の説明板にあります。県内で最も古い町屋でもあるそうです。白壁が街道に長く続き広大な敷地であることがわかります。釜が鳴るというネーミングも当時の活気が感じられます。

脇本陣は一般住宅になっていて跡碑が残るのみです。

脇本陣の隣は問屋を務めた小林家です。小林氏は真田家の家臣でしたので屋根瓦には家紋である六文銭が上がっています。母屋は1870(明治3)年に焼失。その後に再建。街道筋より引っ込んだ形にありますが、当時の宿絵図では通り沿いには長屋門や人足だまりの付属屋が描かれていて、再建された母屋の位置は正しいそうです。

公開されていませんが、母屋の後方の土蔵には、1803(享和3)年の小林九右衛門墨済・棟梁佐久郡柳沢(国)蔵」と記した棟札が残り、その内壁には、谷文晁が描いた「恵比寿・大黒」の壁絵が残っているそうです。
                     


10,旧旅籠辰野屋(竹重家住宅)

松尾神社から一本道で続いてきた中山道・長久保宿は突き当たったところで左に直角に折れて、和田宿方面へと続いていきます。突き当たったところの右側はバスターミナル。「上田」方面から来るバスの終着点であり、また和田宿や和田峠登山道入口の「男女倉」に行くバスの出発点でもあります。コンビニも商店も何もない、自動販売機があるだけの一帯です。

左側の角は旅館濱田屋さん。この先和田宿と和田峠を越える中山道はどこかで一泊をしなければ峠が越えられません。長久保にたどり着くまでの時間がかかりすぎるために、そのまま和田峠を日帰りで越えていくことは大体の人はできません。ですから濱田屋さんは現代の旅人がお世話になる旅館です。

この辺りは「横町」という呼び名で、長久保宿が栄えるにつれてたくさんの旅籠が出来ていった通りになります。道角に宿場道標「右ぜんこうじ」とあります。大門峠に向かう追分でもあります。濱田屋旅館の前は「よねや」。米屋傳十郎という旧旅籠です。吾一庵の展示の中に馬子歌があり「送りましょうか、送られましょか、せめて米屋の角までも」という歌詞がかかれています。最近まで旅館を経営されていたような感じです。

少し行って左側に「旧旅籠辰野屋(竹重家住宅)」。入口にはくぐり戸が付いた両開きの板扉が付いていて開いています。入ってもいいということのようですが、中は薄暗く、帳場は吹き抜けで天井まで見えます。とても広い大きな建物。その内部は(上がるわけにもいかないし)よく見えません。しかし、外側の造りは装飾にお金を掛けたような出格子の下の彫刻など、贅を尽くして建てられています。今でいえば五つ星のような旅館でしょうか。長久保宿の役職もしていた竹重家。豪華彫り物付きの出梁造りの総二階建で建築年代は江戸末期と想定。長久保宿の全盛時代を偲ぶ建物です。
                      


11,長安寺、四泊一里塚(よどまりいちりづか)

竹重家の脇道を上っていくと「長安寺」。江戸末期の経蔵が残っているということで行ってみます。白い小さな経蔵です。回転式の書庫には般若心経600巻が納められているとのこと。少し高台になるお寺からの眺めは気持ちが良いです。

横町の通りに戻ります。
旧旅籠の面影があちらこちらに見られる横町を通過して、国道に合流します。まっすぐ行っても国道ですが旧道が細くあり、案内が出ていますのでそちらの道に入ります。四泊一里塚(よどまりいちりづか)の案内が出ています。長久保横町の交差点。国道142号から152号へと進んでいきます。歩道の無い怖い国道を少し行くと右側に入る小径。四泊一里塚です。碑のみ。榎の大木があったそうですが道路改修で切り倒されたとのこと(なんてことを!)文中「エノミ」とありますが榎のことです。

一里塚には榎が多いのですが、成長が早く根を張るので塚の土固めに好都合。旅人が休むのに枝振りが多いので日陰を多く作ることが出来て、これもメリットの一つになるそうです。

他方、一里塚に榎を!の植栽のおもしろ話もあります。
街道には松並木や杉並木が定番ですが、街道整備をはじめた当時の総奉行大久保長安が「一里塚には余の木(松以外の木)を植えよ」との家康の命を聞き誤って、エノキを植えた、という説。榎は生でも燃えやすいのでいざ戦が始まったときに夜の戦で使用できるので植えられたという説などなど。
いずれにしても、一里塚!一里塚!と踏みしめながらひたすら歩いた昔の人は偉いと思います。
この先、和田宿へと続きますが今回はここで終了して、途中見落とした不聞道祖神を確かめながら横町のバスターミナルまで引き返し、「古町」「窪寺」など町名を楽しみながら「上田」に出て新幹線で帰京します。次回は和田宿です。
                                                              

Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie

笠取峠 石荒坂
      

長久保宿
                                     

June 14,2014 瀧山幸伸 source movie

                      



June 2005 瀧山幸伸


MAP


中山道 芦田から長久保 ドライブ
Nakasendo Ashida to Nagakubo drive
June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 長久保宿内 ドライブ
Nakasendo Nagakubo town drive
June 2005  source movie

中山道 長久保宿
Nakasendo Nagakubo post town
June 2005  source movie

坂に沿い、山並みと調和した美しい宿場

   

  

 
取材メモ
 芦田から笠取峠を越えて到着。峠の風景が懐かしくも美しい。街はひっそりとしている。
All rights reserved 無断転用禁止 会員募集中