長野県塩尻市 贄川
Niekawa,Shiojiri City,Nagano
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Sep.2020 酒井英樹
深澤家は、中山道木曽路11宿の贄川宿にある。
深澤家は文化年間に上方に販路を伸ばし贄川屈指の豪商であった。
《主屋》
嘉永4年(1840)の火災後、嘉永7年(1854)に再建されたのが現存する主屋。
木造2階建、切妻造、平入、鉄板葺。
正面は胴差上に出梁を二段に持ち出して二階出格子と両端の袖壁を受け、格子上をさらに出桁形式とし深い軒を形成している。
中山道第33 贄川宿
概要
「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」
島崎藤村が、明治維新前後の時代の流れに翻弄されていく父親をモデルにして書かれた小説「夜明け前」の有名な冒頭部分です。
前宿の本山宿を過ぎて日出塩の駅の少し先に「是より南、木曽路」の大きな碑がありますが、その前に立つとまさに志賀直哉の冒頭の部分のそのままの「すべて山の中」に自身が立っていることが実感されます。
贄川宿は木曽十一宿ある中の最初の宿です。昔は沢から温泉が湧き出ていたそうで「熱川」と書いてにえかわと呼んでいたそうです。木曽路名所絵図にも「いにしえここに温泉あり、かかるがゆえに熱川(にえかわ)と名づく」とあるそうです。けれども、熱い川が変換されるとしたら煮える川の方がすんなりといくのに、なぜあえて「贄」の字になったのかが少し疑問で探ってみました。
すると「贄」には神事にお供えを捧げるという意味があり(“生け贄”などと古今東西の歴史にも出てくる「贄」の字といえばわかりやすいでしょうか)、贄川宿本陣の奥に麻衣廼神社がありその親社である諏訪神社の神事のお供え物に贄川でとれた鱒などを共進していたからではないか、という推測もあるそうで、「贄川」命名の成り立ちは、むしろこちらの方が信憑性がありそうな気がします。
現在の贄川宿は1930(昭和5)年の大火で全て焼失し、遺跡はほとんど失われています。しかも国道が通り、その交通量は半端ではなく、中山道を踏破する人には大型車両にひかれるのではないかとヒヤヒヤしながら国道の片側にしか付いていない細い歩道を命がけで歩かなければならない現状です。
他宿よりも国道に分断された部分が多い贄川宿の中山道。わずかな草道、山道、細道が所々に残っていて、その部分をわずかに楽しみながら、次宿奈良井に向かって、ひたすら国道をテクテク歩くという街道になっています。
贄川宿の中心地は関所跡近辺ですが、唯一国道と離れる区間が長いのでとても静かな佇まいの中にありホッとします。
1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、贄川宿の宿内家数は124軒。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒で宿内人口は545人。文献などから東山道時代以前、中山道が塩尻峠を通らなかった頃、小野を経て下諏訪に至る街道の宿として機能していたという記録も残っていますが、宿にある枡形などはここであろうかと推定されるのみで現状の贄川には宿の面影はあまり感じられません。
贄川宿の中心を抜けた辺りの平沢に漆器点がならび、曲がりくねった街道の商家の並び方に当時の繁栄を感じるくらいです。
また、他宿には少ししか見られない水飲み場が、贄川宿には多くみられます。しかも石の土台付きで大きな屋根にも覆われた立派なもので、津島神社や秋葉神社などで祀られています。祀られた水場は行く先々で目につき山深い豊富な水資源の中にあった宿を感じることができます。
1,是より南木曽路
本山宿を終えて「日出塩」の駅から帰途についた先回ですので、今回は「日出塩」の駅より出発。下車してすぐの街道に出たのですが、あれ?右に行く?左に行く?分らないくなりました。すぐ側の家で猫と日向ぼっこをしていた婦人にお訊きしたら、あちらの方向と指さして戴きました。日出塩猫が無言で見送ってくれました。これから木曽路に入っていくのですから何よりも「是より南木曽路」の石碑が楽しみです。
中山道は大久保長安が整備を進めますが、初期の中山道は下諏訪宿から三沢峠→小野宿→牛首峠と木曽の山林開発の目的もあったと、書かれた案内図が出ています。
塩尻から二つの峠を抜けて行く険しさが軍事上にも必要であったと塩尻宿の概要で書きましたが、この山の中に立ってみると峠を越えていく険しさが、また山林の奥深さが実感できます。
国道19号桜沢トンネル工事の看板を掲げた工事現場を抜けて行くと木曽路の入口の碑が見えてきます。
横に説明板。
『この地は木曽路の北の入口であり、江戸時代には尾張藩の北境であった。石碑は桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立。石碑の裏には、歌に絵に知られたる木曽路はこの桜沢より神坂に至る南24里と書かれてある』とあります。(これより北木曽路碑は馬籠から落合宿の間)。
木曽路の北の入口とありますが、中山道で言えば東口ということでしょうね。表記がややこしいですが。
石碑の少し手前にある桜沢橋は尾張藩と松本藩との藩堺でもあり、橋の修理費用などは両藩で折半したそうです。
石碑の向かい側に登って行く細い道がありますが、これが桜沢旧道。少し登ってみましたが足元悪く引き返し国道を行くことにします。少し行くとアジサイが咲いてところに山から下りてくる細い道がありますがこれが旧道の出口。
旧道を越えた気分ですぐそこに見えている石仏石塔群の写真を撮るために少し登ります。祠に中は三面六臂馬頭観音、傍らの道祖神は1772年建立。今から247年も前!
2,桜沢茶屋本陣跡
桜沢バス停の前に「桜沢茶屋本陣跡」。立場でもあります。是より南木曽路の石碑を建立した百瀬家が勤めたとあります。明治天皇の御膳水碑も。
その先にまたもや旧道。少し行ってみましたが民家の庭に行き当たったので引き返します。
ダムを右に見て片平橋を渡ります。左側に「旧片平橋」が見えます。橋の前後が旧道の痕跡で橋は土木遺産とのこと。
右の山肌に白山神社。荒れている感じ。国道は大型車がビュンビュン通り道は少し上りに。ひたすら歩く。気温は25度。東京より5度低い。右側に草が伸びてきたら隠れてしまうような庚申塔。しばらくして中北道標のあるところを右に入っていくと旧片平村。ほんの少し街道の面影があります。通過します。
前方に見える歩道橋の手前が鶯着禅寺(永平寺の末寺で延命地蔵あり)。下より拝み男女相体道祖神の脇で小休憩。
3若神子の一里塚
国道が左にカーブしている所で右上に西塚の「若神子の一里塚」があります。江戸より62里。(東塚は明治43年に中央線の敷設でとりこわされた。西塚も国道19号線開通で小さくなった)。
これより旧若神子村に入っていきます。津島牛頭天王様が祀られている水場があります。贄川宿では行く先々でこのような大きな水場を見ることができます。
諏訪神社、石塔群を過ぎて道標の贄川駅1.3㎞の方に進んでいきます。木の立て札で「旧中仙道」とあります。石畳ですがこれも旧道。左下に線路を見て右上に水屋をみて行くと山側の道に入る指示があります。捨て置かれたような野仏群を見ながら進むと巾1メートルに満たない中山道が出現。草道!左下は国道と線路。右は山が迫るようで、今はどこに熊がでるのかわからないので「熊鈴」を鳴らして通過。山肌にへばりつくこの1メートル巾では姫道中の駕籠は通れなかったでしょうから、今は眼下に見える国道を通すために山を削ったので、残ったのがこの巾の中山道なのでしょうね。
前方に贄川駅。無人駅です。
4、
駅を過ぎると左眼下に復元された関所が見えます。橋が2本。手前の橋は役目を終えて記念に残されている橋です。
贄川関所は人と物(出女や木材・木工品の出荷取り締まり)の往来を監視するために置かれた口留番所です。明治の初めに取り壊されましたが昭和51年に復元されています。前宿の本山宿は松本藩。贄川宿は尾張藩ですので領界にあるために尾張藩の北の番所とも呼ばれ特に厳しい改めが行われたそうです。公家、門跡、諸大名などは通過の予告があらかじめあるので特別なことが無い限り改めなかったそうですが、女性には特に厳しく、特に連れに男性のいない女性に対しては髪も解かせてお歯黒からまゆ毛の有無、大女なのに振り袖を着ているなど不審な点はかなり厳しく検査をされて、さぐり婆といわれる人に暗い部屋に入れられて体も触られたそうです。
旅に出る女性は身分を証明したり行き先や用件の書かれた通行手形をしっかりとした機関からもらっていないと、どこにも行かれなかったということですね。
マンホールの蓋も関所の絵柄。
さて木曽の山の中を歩いてきて贄川宿の中心地帯に来ましたが、本陣は郵便局の辺りであろうと推察される本陣跡の標識があるのみ。脇本陣も津島秋葉神社の横の酒屋さんの辺りだったらしいのですが、酒屋さんもなければ標識もありません。およそ宿らしくない宿です。
観音寺の桜門が見えます。1747(寛政4)年、徳川吉宗の頃の時代に再建。塩尻市の有形文化財です。奥の山道を登っていくと「麻衣廼神社」があり、諏訪神社のような御柱があり、また木曽の枕詞になっている麻衣廼(あさぎぬの)……木曽の地という意味……で、見てみたかったのですが、登る自信が無くパスしました。
街道の家々は現代風の家ばかりです。中山道時代の屋号「井筒屋」などと多少の看板は軒先に付けてありますが、宿としての面影はありません。
道祖神のある秋葉神社津島神社。その向かい側に国の重要文化財に指定されている「深澤家住宅」があります。内覧はできません。
深澤家住宅三棟の説明板。
『深澤家は屋号を加納屋と称し、行商を中心とする商家を営み文化年間(1804〜17年)には、京、大阪などから北陸・東北地方への遠隔地商売を展開し贄川屈指の商人となった。街道に西面した短冊型の敷地(564.47㎡)に主屋(2階建切妻造)が建ち、その背後に中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建で同7年に竣工。北蔵は文政4年(1821年)、南蔵は文久2年(1862年)の建築。各建物の建築年代がほぼ明らかで,保存状態も良く江戸末期の木曽地方宿駅の町家の姿を忠実に留め、主屋の規模・大きさ、独特な正面外観、整然とした架構、洗練された重厚で落ち着いた室内が構成され、木曽地方の町家建築の到達点を示す建物として価値が高く、国重要文化財に指定されている』
5、押込の一里塚
先に行きます。鉄道を跨ぐ橋を渡り贄川のトチの木の案内。多分あれかなぁ、と高く繁れる木を横目で見て桜宮跡という地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音様などの並ぶ所を通過。この先は木曽民芸館側に渡り旧道に行かなければいけなかったようですが気がつかず国道を進んでしまい、滝のあるあたりであれおかしいな?と国道を少し外れて左に入ったら津島神社と「押込の一里塚跡」がありました。ヤレヤレ。
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深沢家
塩尻市贄川1622 深澤家住宅(長野県塩尻市大字贄川) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸末期 嘉永5(1852) 桁行10.6m、梁間17.3m、2階建、切妻造、東面便所及び廊下附属 家相図関連資料(家相図4枚、地理家相建物之断書)5点 20050722
塩尻市贄川1622 深澤家住宅(長野県塩尻市大字贄川) 北蔵 重文 近世以前/民家 江戸後期 文政4(1821) 土蔵造、桁行9.1m、梁間3.3m、2階建、切妻造、鉄板葺 20050722
塩尻市贄川1622 深澤家住宅(長野県塩尻市大字贄川) 南蔵 重文 近世以前/民家 江戸末期 文久2(1862) 土蔵造、桁行8.4m、梁間3.4m、2階建、切妻造、鉄板葺 20050722
June 2005 瀧山幸伸 source movie
深沢家(国重文)
観音寺山門
Map 贄川北
Map 贄川南
Map
平沢
Nakasendo Motoyama to Niekawa drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 贄川 宿場内 ドライブ
Nakasendo Niekawa town drive
June 2005 source movie
中山道 贄川から平沢 ドライブ
Nakasendo Niekawa to Hirasawa drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 平沢 ドライブ
Nakasendo Hirasawa town drive
June 2005 source movie
平沢と贄川(にえかわ)
July 2004 source movie
Aug.2003 source movie
【贄川の街並】
贄川も宿場の街並が破壊されている。町外れに贄川関が復元されたことは好ましい。ただし、関所の復元だけではこの町を目的地とした訪問客が増えることに直結しない。木曽11宿全体での街並形成と、そのスタート地点としての位置づけが必要であろう。言い換えれば大人のスタンプラリーであり、ある人には奥の細道中山道版であり、伊勢物語中山道版だ。物語によるフィーチャリングとブランディングが必須である。
旧中山道
贄川の街並
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