長野県大桑村 野尻
Nojiri,Okuwa village,Nagano
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Apr.4,2021 柚原君子
中山道 第40宿 野尻宿
概要
戦国時代にも出てくる地名「野路里」または「野次里」が、なぜか江戸時代頃より「野尻」というあまりきれいではない字に転じています。
整備された道幅の広い直線が続く前宿の須原に比べると、車がすれ違えないような細い道が折れて続く『七曲がり』が特徴といわれる野尻宿。『東のはずれ』の屋号を持つ尾上家と『西の外れ』という屋号を持つ西村家で宿内が始まって終わるのはわかりやすいです。しかし町並みは明治27年の火災でほとんどが焼失したため、以後に建てられた大正から昭和初期に掛けての町家が少々残っているのみです。木曽11宿内では奈良井宿に次ぐ長さですが、これといった印象がなく、曲がりくねりながら歩いて行っても立ち止まって見入る事があまりない宿内なのは少し残念です。
マリア観音を有する妙覚寺に上がって行く石段の脇で犬に吠えられて、コラコラと叱りに来た年配の女性が、特に最近は家も建て替えられることが多く、何もなくなってしまったよ、とおっしゃっていました。
街道のすぐ脇を中央本線が通っていますから便利ではありますが、たっぷりの時間を取って行って見所無く余ってしまったとしても,17時半頃からしか電車は停車しないので要注意です。宿として特に手入れもしていない、投げ捨てられたような宿の印象でした。1843(天保14)年の中山道宿村大概帳によると本陣1軒・脇本陣1軒、問屋2軒・旅籠19軒(大2・中10・小7)・宿内人口は986人とあります。
1,高札場
前宿の『須原宿』の続きで歩いていますが、岩出観音堂より歩いて次宿に行くには私の足では国道や山坂を2時間弱歩かなければなりません。今日中には東京に戻る予定ですので岩出観音堂のあとタクシーに来てもらいました。途中どこか寄るところはありますか?と親切な運転手さんでしたが途中の2㎞先にある『天長院……子を抱く姿がマリア様に見えるマリア地蔵』と南塚を残している『大桑の一里塚』、『大桑駅』、『関山関所跡碑』などはパスすることとなりました。野尻宿の入り口にある『高札場』でタクシー下車。
ここも桜の花満開です。高札場より少し戻ったところに創業1898(明治31)年の赤い煉瓦のレトロな建物『奥田工業』があります。建物の建築年月日は1932(昭和7)年です。
建物が宿の入り口の目印になっているようです。奥田工業の前の右の方の坂を上がっていくと高札場。立て札一つと南無妙法蓮華経と書かれた大きな台座の石があり、俗名『いぼ石』。イボを箸で挟む真似をしてここに置くと取れるのだそうです。
2,妙覚寺(マリア観音)
宿に入ると3軒ばかりの家の先の街道がもう曲がっています。『東のはずれ』という家を探したのですがこの家なのかしらと思う町家は二つばかりありましたが、特に案内もありません。一分も歩かないうちに常夜灯と祠。その手前には左手に向かって長い石段が伸びています。犬に吠えられて、コラコラと犬を叱りに来たご婦人が「宿内は建て替えがどんどん進んで、何もないよぉ」とおっしゃいました。「石段を上がっていくと妙覚寺でマリア様のお地蔵さんがあるから見てらっしゃい。どこにあるかと探すような小さいお地蔵さんですよ」と。
妙覚寺は前宿の須原の定勝寺の末寺でこの階段は往時は参道だったようです。途中に国道が割り込んで通ってしまったので、妙覚寺に行くには国道を渡るか地下道に入るかしなければなりません。
階段を上っていくと猫。どいてくれません(笑)。途中に庚申塔。そして国道。
越えて妙覚寺に。見事な桜と石仏群が迎えてくれました。
妙覚寺は臨済宗妙心寺派のお寺で木曽七福神大黒天霊場(南無大黒天)。1720(享保5)年開基。立派な鐘楼門の先にある本堂は1724(享保11)年の建立。観音堂は1856(安政3)年建立。
観音堂の脇にあるのがマリア観音像。1832(天保3)年建立。もともとは木曽川右岸の野尻向地区にあったそうですが、昭和46年になって妙覚寺に安置。
1549年にフランシスコ・ザビエルの来日と共にキリスト教が布教され、改宗者が増えていきますが1614年に徳川家康による禁止令が出た後は,取り締りも厳しさを増します。それでも信徒たちは潜伏キリシタン、隠れキリシタンとなって祈りを続けます。表面上は仏教徒ですので小さな秘密結社のようになって慈母観音像をマリア様に見立てて祈ることが多かったそうです。はっきりと十字架がある場合もありますが、帯の所、胸の所などに密かに十字架を下げたり抱えたりしているように見える慈母観音像もあります。妙覚寺のマリア観音は右手に錫杖、左手に高々と十字架を上げている像です。
3,本陣、脇本陣、庭田屋、西のはずれ
妙覚寺から街道に戻ってすぐの左手に『本陣跡』。問屋を兼ねて木曽氏の家臣であった森家が代々世襲で勤めましたが、明治の大火で建物は焼失し何も残っていません。跡地の前には本陣の間取り図が残されています。建坪192坪、門構えや玄関もあり大きかったようですが、1802(享和2)年に本陣に泊った太田南畝は「全て板ばめで壁がない」と記してあり、質素であったことがうかがえます。本陣の敷地内には「明治天皇御小休所」の碑も。
向かい側には『脇本陣跡碑』。木戸家が庄屋と問屋を兼ねていました。1601(慶長6)年、木曽の代官である山村氏より野尻の木戸彦左衛門を半分問屋に任命した山村道勇手形が残されています。半分問屋というのは,本陣、脇本陣などで一ヶ月間の問屋の任務を半分ずつ担うということでしょうか。大名の宿札や古文書も残っているとのことですが,どこにあるのでしょうか。現在はクリーニングの看板は出ていますが、店舗らしきものはありません。脇本陣の細かな説明板もありません。
郵便局を過ぎて『旅館庭田屋』。野尻宿には19軒の旅籠があったそうですが、現在の街道筋にそのような気配はあまり見られません。唯一(と確定はできませんが)旅籠の形式らしい彩りを残しているのが庭田屋。『男はつらいよ』の22作目「噂の寅次郎(マドンナは大原麗子」では、定勝寺などとともに出てくる旅館。
街道はまたいくつめかを曲がっていきます。枡形が宿内にいくつもある事になります。そして曲がった先に『西のはずれ』の屋号を持つ西村家。
4,下在郷の一里塚跡碑~『野尻駅』に戻る
はずれの屋号を持つ西村家を過ぎてしまったので野尻宿はここで終わりの様です。時間はまだ15時。1時間あまりで野尻宿を見てしまった感じ。七曲がりなどそれなりに風情はありましたが,物足りない気持ちが残ります。
東京に帰る電車は17時少し過ぎまでありませんので次ぎ宿の『三留野』めざして、行かれるところまで行ってみようと出発します。
はずれの家から一分も歩かないうちに二反田橋に。小さな橋。少し行くと『下在1』のバス停がありその先に『下在郷の一里塚跡碑』があります。一里塚跡碑の右手側の竹藪に沿って降りて行く道が中山道。線路があり花桃が咲き乱れ、特徴のある白い石がゴロゴロある木曽川と橋が二つ見えて,とても良い景色です。
右の橋が「阿寺橋」、左の赤い橋が「阿寺川橋」。ヒノキ美林のある阿寺(あてら)渓谷入口になります。中山道は線路の先へと曲がりながら伸びていますが国道に合流せずにこの線路沿いに道は続いていくようですが、このさき十二兼の駅までもまだまだありますので、ここまで、としてツクシや蕗の花の写真を撮りつつ『野尻駅』に引き返します。ゆっくり戻りましたが塩尻に向かう電車の時間にはまだ1時間半もありました。
誰もいない駅舎で横になりました。野尻宿を終わります。
June 2005 瀧山幸伸 source movie
【街並】
この宿場にも街並保存や復元の兆候はあまり見られない。宿場は長く、街道が湾曲しスロープがあり、高台に沿っている。
須原から野尻への街道沿いのアヤメ
本陣跡付近
Aug.2003 瀧山幸伸 source movie
野尻のまとめ アセスメント 合計 1点
周辺の自然と景観 +1
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