JAPAN GEOGRAPHIC

長野県軽井沢町 追分

Oiwake,Karuizawa town,Nagano

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 


Aug.2016 柚原君子

中山道第20番「追分宿」

概要

追分とは人や荷物を乗せた馬を行く目的地の方向に『追って』『分けた』ことが語源です。そのことがまた街道の分岐点を意味するようになり、追分宿の地名も京へ向かう中山道と、小諸、上田、善光寺を経て北国街道に向かう分岐点となる場所です。

『追分』は、1169(嘉応元)年来収蔵されている土地の豪族たちが追分宿の諏訪神社に奉納した大般若経の中に、『佐久郡長倉郷遂分大明神(追分の諏訪神社)』という表記(遂分→追分)で出現しています。大般若経は奥書600巻中530点が軽井沢追分宿郷土館に保管されて町指定の有形文化財となっています。

古代の追分は沓掛宿と同様に朝廷に献上する馬を放牧する長倉の牧があった地ですが、沓掛宿のように大火にあっていないので、浅間三宿の中では宿の面影を濃く残しています。

追分宿は1660年(寛文)のころから繁栄して、1684年(貞亨)にはすでに約545メートルの町並みができています。江戸初期である1688年ころには旅籠屋71軒、茶屋18軒、商家28軒を数え、飯盛女も最盛期には250人前後もいたそうです。

寒冷地ですので農作物の出来栄えは悪く、人々は商いのほうに身を入れましたので、商店の種類も多く、質屋、酒屋、薬屋、雑貨屋、髪結い屋、菓子屋などがあったそうです。一つの茶屋に飯盛り女が15人から20人はいたことになり、そのにぎやかさが想像できます。こうした飯盛り女たちは貧しさゆえに親から売られた娘、または家族を飢えさせないために自ら売られてきた女性たちですが、食っていくことのできない親が娘を売るわけですから、借金となるお金を返すすべはなく、終生において飯盛り女あった女性が多いといいます。ちなみに1872(明治5)年の芸妓娼解放令と前借金無効令で自由になった女たちは130人であったそうです。

浅間山が大噴火した1783(天明3)春には、上州吾妻郡の飢えた人々が中山道を数十人の塊となって、江戸に出す米蔵のある安中宿や板鼻宿の方に押し寄せたそうです(天明の饑餓)。この流れはやがて百姓一揆となり、秋頃になると飢えた百姓たちは碓氷峠を越えて信州に押し寄せ、その途中にある追分宿で炊き出しを願い、周辺の村々で人々を集めて、岩村田宿で家を打ち壊し、佐久平から小諸藩に至ったと記録にあります。

1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人です。また追分宿には御影陣屋支配下の貫目御改所(かんめおあらためしょ)が設置されています。公用荷物を伝馬で運ぶため、重量を測って運賃を決めるのが貫目御改所で、行政機関と言えます。

1868(慶応4)年には年貢半減をかかげた桜井常五郎らの行動が偽官軍という名で追討されるという追分戦争と呼ばれる事件が起きています。その後、御影陣屋に捕らえられた桜井常五郎ら11名は3月5日に追分の刑場(分か去れの辺り)で処刑されています。

近年になると1909年(明治42)年に無人駅ではありますが、しなの鉄道の「信濃追分駅」が誕生します。高等文官試験を受ける帝大生(現在の東大)が追分に長く滞在するために、夏季臨時停車駅をしなの鉄道に願い出て、その後に正式な駅になっています。鉄道駅が置かれたために軽井沢につながる避暑地としても栄えていく経緯は、沓掛宿(旧沓掛駅、現中軽井沢駅)と同様です。追分宿の旅館には堀辰雄などの文人が常宿しています。

追分節発祥の地であることも特筆すべきです。浅間山が噴火する前後の時代と想像されていますが、薄幸の飯盛り女たちが、碓水峠を往来する馬子たちがうたう馬子唄に、銚子(ちょうし)の袴(はかま)でひづめの音を出しながら、旅人相手の酒席の唄(後に三味線が付きますが)がはじまりです。

「嫌な追分身の毛もよだつ 身の毛どころか髪の毛も」という歌詞が人気となり歌い出しの文句をとって「追分節」とよばれるようになったそうです。何事もそうですが、昔のことゆえ諸説あることが多く、「追分枡形の茶屋で ほろりと泣いたが忘らりょか」という馬子唄が元になったと、井原西鶴が『好色一代男』の中に書いている説を、本説とする場合もあるそうです。追分節の哀調を帯びた緩やかな旋律は当時の追分宿に暮らした人々の感情が表れているようです。

行程

追分の一里塚→浅間神社→脇本陣油屋→本陣→高札場→泉洞寺→枡形つがる屋→分去れの碑

1,追分の一里塚・浅間神社(あさまじんじゃ)

2016年7月5日午後1時半。気温17度。軽井沢宿・沓掛宿を撮影した同日に追分宿を目指しています。国道18号、信濃追分駅の標識がある歩道橋を過ぎると追分の一里塚。左右一対で残っていることは珍しいのですがす。ここは南塚は復元物ですが北と一対として残っています。説明板には原型をとどめている、とあります。昔の旅人の一里ごとの道標は無くてはならない物だったのでしょうね。

一里塚を過ぎてしばらくすると右手に入っていく石畳の道があります。江戸方面に枡形は残っていないとされていますが、緩やかに曲がる道に枡形が想像されます。

宿に入り右手の山道を上がっていくと左側に追分宿郷土館があり、その前にはとても立派な馬頭観世音碑が建っています。説明板によると1794(寛政6)年に追分宿の問屋・商人が役馬の安全・供養を祈願して建てたものとあります。浅間山が大噴火して宿が壊滅状態になった10年後ということですね。

資料館を出てすぐ右手にあるのは浅間神社(あさまじんじゃ)。浅間神社は木花開耶姫命(コノハナノサクヤヒメ)を御祭神としてセンゲンジンジャと読むところが多いのですが、ここは木花開耶姫命の姉神である磐長姫神(イワナガヒメ)とその姉妹の父である大山祇神(オオヤマツミ)を御祭神としてアサマジンジャと読みます。

軽井沢町教育委員会の案内板には『本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の2神が祀られている。明治2年(1869)5月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。』とあります。

正面に見えるのは風雨をよける覆堂で本殿はその中にあり、あまりよく見えませんが、老虹梁・宝珠の彫りが大変見事で木鼻(象鼻)の出っぱりが室町時代(1394〜1427)の様式を残しているそうです。

境内には追分節発祥の地の石碑があり「碓氷峠の 権現様は わしが為には守り神」「浅間山さん なぜ焼けしやんす 裾に三宿を 持ちながら」と追分節が刻まれています。これらの歌詞を飯盛り女が時には語彙をアレンジして、恋の歌や客引きの歌などにしたそうです。

7月24日には「馬子唄道中」というお祭りがあるようで、境内にはその幕が張られています。1783(天明3)年の浅間山大噴火の犠牲者を供養するために奉納された小さな不動尊と、1816(文化16)年に奉納された大きな常夜燈もあります。いづれも脇本陣の油屋が奉納したものです。浅間神社の前は、以前は噴火の焼けた石が敷いてあって敷石道と呼ばれたそうですが、今はなんとなく味気ない舗装されすぎた道になっています。神社の前を流れているのは御影用水(または千ヶ滝用水)で小諸市の御影新田まで30キロに渡って続いている用水です。

                                         

2,油屋、本陣、高札場

昇進橋を渡ると左側に堀辰雄文学記念館(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分662 )。本陣はこの先の高札場の横の少しばかりの石垣に「本陣」と示してあるのみで、建物は何も残っていませんが、本陣の門(裏門)が唯一、堀辰雄文学記念館の入り口に残されています。

本陣から移動したのでは無く一度は追分宿に近い御代田町塩野地区の内堀家表門として移築されています。内堀家は門に屋根をもう一つ付けて100年もの間、大切に扱って来たそうです。しかし、軽井沢の歴史的遺産であるとして平成17年に軽井沢町に寄贈されています。大切に扱うために付けた屋根は、正面からは確かに二重構造になっているのが解ります。

この門の材料は『全て欅材、一間冠木付き門・切妻造(桟瓦葺)・妻蛙股・二軒繁垂木・背面控柱。棟札・・維持 天保二 辛卯仲秋二十四日・大工 越後国 片桐伴と明記されていて建築年と大工の棟梁名が分かる』と追分宿郷土館資料にあります。門の脇には本陣の見取り図と棟札などを記した案内板があって、建坪は238坪もあり、中山道の中では塩尻宿・上尾宿に次ぐ大きな本陣であったようです。土屋市左衞門が本陣を勤め、問屋をかねていましたので、御貫目改め所が明治維新の頃までこの本陣の広い前庭にあったそうですが、現在は明治天皇の行在所の石の標柱が立っているのみです。

高札場の跡は1633(寛永10)年の古文書に基づいて復元されています(現物は追分宿郷土館に保管されています)。

追分宿は脇本陣が2箇所。甲州屋と油屋です。堀辰雄文学記念館の向かい側に脇本陣油屋(長野県北佐久郡軽井沢町追分607)があります。昭和12年に焼失して反対側の地に移して再建されて、旅館を営業したこともあるようです。現在は立原道造などの意志を受けて、芸術の拠点となる『信濃追分文化磁場 油や』として再生されています。明治頃には多くの文人が常宿とした油屋です。堀辰雄はこの油屋でお殿様が泊まった上段の間に逗留して『風立ちぬ』を上梓しています。右側に骨董・雑貨屋さんがありますが、もとは『現金屋』という旅籠であったようです。

                                      

3,諏訪神社

本陣の西端を北に向かう道がありますが、その角に『浅間山道路第一詣石』と刻まれた石標が立っています。この道は草津道。現在では浅間山に登山する人々の注意書き札が立っています。

続いて諏訪神社。創建は不詳ですが、追分宿概要でも記しましたが、1169(嘉応元)年来収蔵されている土地の豪族たちが奉納した大般若経がある諏訪神社ですので、鎌倉時代にはすでに創建されていたと思えます。かなり広い境内です。今はひっそりとしていますが、宿が繁盛していた頃は勢いのあった神社だったのでしょうね。拝殿の後ろに五社が連なっている形です(拝殿の横にあるのはトイレ?神様に対してちょっと失礼な感じですが何故?)。狛犬は昭和18年作成。常夜燈は1835(天保6)年に宿内の永楽屋が奉納したとあります。

続いて見えてくるのは「つた屋旅館」跡といっていいのでしょうね。飯盛り女が出てきそうな風情の旅籠です。向かい側にはマーケットがあり桃などは都会の半値、キュウリも新鮮イガイガがいっぱい!庶民的な雰囲気もある宿です。

                    

4,泉洞寺(せんとうじ)、つがる屋

泉洞寺(長野県北佐久郡軽井沢町大字追分1259)は追分宿に唯一あるお寺です。開創は長篠の戦いに参加して死を多く見ての無常感から出家された元武士とのこと。1598(慶長3)年、心庵宗祥禅師となり開創。曹洞宗のお寺です。作家堀辰雄がこよなく愛したという半伽思惟像があるとのことでしたが、探せませんでした。首をかしげて左手を頬に充てているところから、歯が痛いことにつなげて歯痛地蔵尊とも呼ばれているそうです。見たかった……。境内にある常夜燈は脇本陣油屋が奉納したもの。星と月、弓と矢を持って三猿を従えた庚申塔ほかの石仏群もあります。

その先にあったのは京方面(西口)への枡形跡。枡形は宿の入口と出口にあるものですから、そろそろ追分宿が終わるということです。枡形とは宿の警備上、道をあえて鍵型のように曲げて作り、特に馬などが突進できないようにして、出入りを取り締まる場所です。鍵型の道に加えて土手、木戸などのいくつもの設備を施して宿場の安全を守っていた江戸時代です。現在この追分宿に枡形は残ってはいませんが、緩やかに曲がる道が当時を想像させてくれます。このあたりにある茶屋は枡形茶屋と呼ばれて、宿が繁栄した当時は5,6軒あったそうですが現在では『つがる屋』のみが残っています。二階を前に突き出した出桁造り、縦格子窓で当時のままに残っている貴重な建物です。右側の梅の絵のある部分は、昭和36年に台風の被害にあっています。枡形つがる屋の先で道は国道と合流します。

                            

5,分去れの碑

合流・枝分かれの正面の三角地帯が「追分の分去れ」史蹟です。国道を斜めに左方向に横切っていくのが京に至る旧中山道。右側の小さな道が小諸から善光寺を経て高田で北国街道に繋がっていく道。分岐点の双方ともに本当に小さな小さな道幅です。人が引く馬、荷を乗せて行く馬の蹄のポクポクの音や、下に〜の振れでやってくる殿様の行列に、座っておじぎする旅人や農作業の人……分去れに立っていると見えてきそう。

『分去れ』は旅の道連れで親しさの増した人々がそれぞれの目的地に向かうために、この分岐で袂を分けて別れを惜しみながら去って行ったという場所。石仏や供養塔や馬頭観音、常夜灯が残り、往時の旅の苦労を物語っています。また、分去れの北国街道寄りには、農村に設置された公的な米蔵や御影陣屋の牢があり、その北側の草地の広場は刑場の跡です。

概要にも記しましたが、この追分宿では、1868(慶応4)年には年貢半減をかかげた桜井常五郎らの行動が偽官軍という名で追討されるという追分戦争と呼ばれる事件が起きています。その後、御影陣屋に捕らえられた桜井常五郎らは追分の刑場(分去れの辺り)で処刑されています。桜井常五郎はこの二つばかり先の宿のある望月で生まれていますが、偽官軍の汚名を着せられたまま明治維新の波の中に消えていったことになります。旅人ばかりでは無くこのような人をも供養する石仏などがこの中にはあるのかもしれません。

分去れで初めに目につくのは道祖神。その後には「北国街道道標」があります。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面には「従是北国街道」、左側面には「従是中山道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年」と彫られています。街道の文字は海道とあります。道を表す言葉は江戸時代の頃までは海道、往還、大道などでしたが、明治初期の頃から街道に統一されています。この道標が建った「延宝」の頃はまだまだ海道の文字が主流です。

その後ろの石は「森羅亭万象の歌碑」。「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」とあります。大きな常夜燈は1789(寛政元)年に建立されたもの。台石に「町内安全」「是より左伊勢」などと彫られているようです。奥の方には追分で翻訳家の延原謙が油屋の離れて全訳をしたホームズの物語の100周年記念として像が建っています。洋風の像です。違和感があります。分去れの碑があるこの三角地帯の歴史的由緒のある史蹟の奥に建てなくても……と思うのは私だけでしょうか。

このまま国道を横切って、追分宿の外れの御代田の一里塚辺りまで行きたかったのですが、疲れたので今日は終了にして軽井沢駅に自転車で戻ります。30分ばかりの道のりです。帰りは霧、霧は雨に変わり、カメラだけは濡れないように、手足はびしょ濡れの体で軽井沢駅に到着。予定の新幹線までに時間が余ったので、旧軽井沢駅を撮影します。

             


Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie

女街道分かれ

    

遠近宮

Ochikochinomiya

          

仮宿 大日堂

Kariyado

                          

追分

Oiwake

追分一里塚

      

                  

堀辰雄文学記念館

            

                               

北国街道分去れ

Hokkokukaido wakasare

                                

中山道69次資料館

                     


June 2005  瀧山幸伸 

HD quality(1280x720): supplied upon request. 追分宿

Oiwake post town

Map

中山道 沓掛(中軽井沢)から追分 ドライブ

Nakasendo Kutsukake (Naka Karuizawa) toOoiwake drive

中山道 追分 ドライブ

Nakasendo Oiwake drive

June 2005  source movie

Sep.2008 source movie

一里塚

  

June 2005 No.1 HD(1280x720)

   

追分宿の街並

Sep.2008

   

June 2005

 

June 2005 No.2  HD(1280x720)

油屋付近

Sep.2008

  

June 2005

    

高札場

Sep.2008

 

June 2005

      

本陣跡

Sep.2008

 

June 2005

 

追分分去れ

          

中山道69次資料館

Nakasendo Museum

Category
Rating
Comment
 General
 
岸本館長自ら調査した膨大な資料を自費建設の資料館で展示。中山道の全てがわかる。
 Nature
 
 
 Water
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 

追分の中山道69次資料館、岸本館長は、地理好きで、徳島で社会の先生を続けながら中山道歩きを続けてこられ、リタイア後中山道のカナメ、追分近隣に引っ越してこられました。素晴らしいガイド本を出版し、さらに病が高じて、2005年春追分に自費で中山道69次資料館を開館されたものです。館内には詳しい資料が所狭しと展示されています。

No.1 June 2005  HD(1280x720)

No.2 June 2005  HD(1280x720)

No.3 June 2005  HD(1280x720)

No.4 June 2005  HD(1280x720)

No.5 June 2005  HD(1280x720)

   

      

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中