長野県御代田町 小田井
Otai,Miyota town.Nagano
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Sep.2016 柚原君子
中山道第21 小田井宿
小田井宿(おたいじゅく)は戦国時代より宿駅が設けられていて、「おた井」・「於田江(オダエ)」「尾台」などの表記の記録が残っています。信州は小豪族がひしめき合った地で、御代田町駅南側にある新幹線高架の手前一帯が現在では広大な畑地となっていますが、小田井城のあった場所(現在は空堀の遺構、井戸があったという立て札しか残っていない)とされています。
小田井城は1521〜1526(大永年間)年に御代田一帯の盟主尾台(小田井とも)六郎福親氏が築城されたと伝えられています。平城でしたが自然の高低を利用した断崖絶壁の城で攻めるには難しい城であったそうです。しかし、小規模の兵力で守るにはあまりにも広大すぎた城で、1544(天文13)年、武田晴信の臣下になることを拒んで戦いに敗れて落城となります。その後に武田氏が滅亡して織田信長も本能寺の変で亡くなるという1582(天正10)年頃には、小田井城は一時北条方の支配下に組み込まれますが、徳川方の依田信蕃に攻略されたのちに廃城になっています。
1573〜1593(天正年間)年に宿の機能が動き出し、1596〜1615(慶長年間)年に江戸幕府の手によって整えられ、周辺の村から26戸を集めて形成された小田井宿ですが、1685年に貝原益軒著『岐蘇路之記』には「寒甚だしく五穀生ぜず、ただ稗・蕎麦のみを生ずる故畠少なし。又、葉の樹なし。民家にも樹木なし。不毛の地といひつべし」と書かれていて、その後の1805(文化2)年に書かれた木曽路名所絵図にも「駅内二町ばかり、多く農家にして旅舎少なし、宿悪し」と書かれているほどの、寒くて不毛なる小さな宿であった様子です。
しかし一つ先の宿である追分宿が、飯盛女の多い歓楽色の濃い宿であったために、旅をする女性たちはこの小田井に宿泊や休憩することが多かったので『姫の宿』という別名が付いています。街道が最も繁栄した1822(文政5)年で戸数199、人口524人。伝馬としての宿駅という風情であったようです。1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によると、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は319人となっています。
近年では明治8年に小田井・前田原・児玉新田・池田新田が合併して御代田村となり、明治26年に信越本線が全線開通して「御代田」駅が出来て、昭和31年には小沼村・伍賀村と合併して御代田町となっています。
軽井沢に近いこともあり別荘地としても開発されますが、別荘だけでは終わらずに、時計、ベアリングなどの大工場が進出して工業団地などもできています。
行程
御代田駅→分か去れ→千ヶ滝湯川用水温水路→御代田の一里塚→御代田観音像→小田井宿入口→安川ハル地蔵→長倉・諏訪神社→寶珠院→本陣・脇本陣・問屋跡→咬月原→鵜縄沢(うなわざわ)の一里塚
1,御代田の一里塚
2016年8月のお盆。軽井沢→しなの鉄道で御代田駅に。予約済み自転車を駅前で受け取る。「夕方に回収するから、駅横の新聞屋さんの脇に止めて鍵はポストに入れておいてください。ところで、本当に分か去れまで戻るの?……国道を行くんだよね。すごい登りだよ」。「はい!大丈夫です」と元気に答えたことを後悔したのは、自転車で出発した10分後です。駅正面左側の橋を渡ったところからの上り坂。三ッ谷東の交差点を左折してロマンチック街道と名の付いている国道18号に入ったところから延々と続く登坂車線。漕いでも漕いでも進まない。背中は汗びっしょり。顎は出る足は引きつる。自転車を押しながら、さながら修行僧のように歩きます。延々と1時間あまりも続いた登りに疲労。この先の宿は自転車の調達は無理と決心する。やっとの思いで、先回終了している追分宿の京口である「分か去れ」に到着。
今日はここから小田井宿の撮影をします。分か去れから見ると国道を斜めに入っていきます。右側に中山道資料館。シャッターが閉まっています。資料館の前は雑木林で、箱庭のように歩ける中山道がある模様。けれども下草が多く、真ダニや蜘蛛がいそうで入るのをためらい、道の外側から写真を撮ります。
向かい側には御影用水路(または千ヶ滝用水路)。追分宿の浅間神社(あさまじんじゃ)の前を流れていた用水です。江戸初期、小諸藩の郷士である柏木小右衛門さんが開削したと立て札にあります。
道は緩やかに曲がり緩やかに下っています。汗をかいて登ってきたのでその分、このまま緩やかに降りて行きたいと願うところです。軽井沢追分教会という案内に寄り道。ステンドグラスがとてもきれい。パイプオルガンを使用した音楽礼拝があるそうです。奏者は全国から招いているとのこと。
千ヶ滝湯川用水温水路という大きな堰が見えてきます。先ほど中山道資料館の前を流れていた用水ですが、千ヶ滝湯川用水温水路として大きな幅となっています。理由があります。この用水は浅間山の雪解け水や湧き水を水源としていますが、稲作に利用するには水温が低すぎるためにこの施設で水温の上昇を図っているそうです。どこかで温泉のように温かく湧かしているのかと思えそうですが、そうではなく長さ934m幅20mの堰のようにして、浅くゆっくり流す方法をとることで水温の上昇が数℃上昇するというシステムのようです。
しばらく行くと御代田観音像と道標が見えてきます。小田井の宿まで3.4キロとあります。その次の道標は小田井まで3キロ。道は緩やかな下り坂が続いています。ホッとします。右側に大山神社。その先が御代田の一里塚です。街道より右手に入っていった畑の中にあります。見事な枝垂れ桜。春にはさぞかしきれいなことでしょう。一里塚には榎が定番ですが、この一里塚の枝垂れ桜は明治の頃に戦に勝った記念に植えられた、と一里塚のすぐ裏で畑仕事をされていた方の弁です。
長野県教育委員会の説明板があります。
『中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井宿へと至り、更には佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602)に整備され、寛永12年(1635)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5m。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mである。これらは、現中山道より7m離れた畑中に位置するため遺存状態も良く貴重である。
ちなみに、国道18号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が2基保存されており、町指定の史跡となっている。』
その先は地下道でしなの鉄道線路をくぐり、向こう側の栄町の交差点に出て右に折れていく中山道に出ますが、自転車ですので踏切を探して渡ります。馬頭観音や道標、荒町上宿のバス停名を見ながら行きます。Y字路に出たら左に進みます。
2,小田井宿入口・安川ハル
信号の角に筆塚がありその前に道標と『中山道小田井宿跡 入口』と書かれた白い標柱があります。足下に明和と刻まれた道祖神。合わせた両手は何を抱いていたのでしょうか。信号の対面には御嶽信仰の石碑もあります。
小田井宿に入ります。当時の宿の家並みを想像する商家のような旅籠のような家が所々にあり、静かな佇まいです。戸口に掲げられているのは馬の絵。当地は後で訪れる長倉神社・諏訪神社に神馬舎があり藁で造った馬があります。民俗行事であるお祭りに使われるもので、馬の絵が民家の戸口にあるのもうなづけます。
左側におはる地蔵。『明治36年小田井に生まれた女傑おハル(安川ハル)。小学校教員だったけれども、貧しい人々が肥料を買えないことを目にして研究を重ねて、ゴミと人糞から『安川式肥料燻炭炉』を発明した女性。難病にかかりながらも地域に貢献し平成3年、89歳で生涯を閉じた』とあります。宿の案内板がありますが、この辺りの緩やかなカーブが東の枡形の跡です。
3,長倉・諏訪神社(北佐久郡御代田町大字御代田字上ノ沢1828)
朱色の一の鳥居とその奥の鳥居、いずれにも前垂れのある注連縄がかかっています。注連縄はここから先は神様の領域という区切りのことですが、二つの鳥居にかかっているのはけじめの付けすぎのような気もしますが、拝むようにくぐって入ります。
この神社はかつて、伍賀地区久能の宮平に祀られていた春日神社であったと伝えられていて、1502(文亀2)年に上小田井に移されて創建されています。のちの1588(天正16)年に現在の地に移されて宿として機能し始めていた小田井の鎮守となります。 社殿は1884(明治17)年に改築されたもの。1987(昭和62) 年には本殿上屋がかけられ、拝殿の葺替えがされているそうです。正式な呼び名は『長倉神社・諏訪神社合殿』。神社内の神馬舎には、町指定無形民俗文化財「小田井の道祖神まつり」(毎年2月に行われる民俗行事)に使われる藁馬があります。黒い目をした可愛い素朴な藁馬で、小さな赤ちゃん藁馬もあります。狛犬も何故か可愛いです。左右のどちらも笑っているようで、藁馬と共に愛らしく印象深いです。
4,寶珠院(長野県北佐久郡御代田町大字御代田1814)
1504〜21年の永正年間の創建。小田井の城が造られるよりよりも以前からあった古刹。藁葺き屋根の鐘楼は珍しいのではないでしょうか。1779(安永8)年の建立とあります。しだれ桜は樹齢300年。アカマツは徳川綱吉の時代の1690(元禄3)年の植樹とのこと。どちらも町指定の天然記念物。
5,本陣跡
居住中なので公開されていませんが、教育委員会の立て札があります。
『安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣をつとめた。現在、その本陣の客室部を良好に残している。客室部は切り妻造りで、その式台、広間、三の間、二の間、上段の間、入側などは原形をよくとどめており、安川家文書で宝暦6年(江戸時代1756年)に大規模改築が行われたとされていることから、その際の建築と考えられる。また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861年)の和宮降嫁の際に修蓄されたものであろう。厠は、大用所、小用所ともに二畳の畳敷となっています。昭和53年6月1日 御代田町教育委員会』
立派な門構えと白壁。居住中の家の屋根に『安川』の銘が見えます。小田井宿は片側に寄せられた用水が通っていて水の勢いも強く水音が聞こえるほどに流れてさわやかな宿です。特に本陣の辺りはきれいに整えられていて、明日にでも参勤交代の殿様行列が無事に通れそうな気配です。
本陣の隣は同じく安川家がつとめていた連子格子の『上の問屋跡(安川家住宅)』 、1831(天保2)年に建築されています。さらにその隣にある立派な商家は旧旅籠でしょうか。向かい側に脇本陣跡。屋敷は残っていませんが屋敷図は現存しているそうで、すはま屋又左衛門が勤めたとあります。
そのお隣は『下の問屋跡(尾台家住宅)』。小田井城城主であった尾台六郎福親氏の御子孫でしょうか。『この建物は1772(明和9)年大火以降のもの。切り妻造り、屋根は元板葺石置き、三室続きの客室をそなえた良質の建物である。荷置場と問屋場には、門の左右の建物を使用した』と説明標識にあります。
用水路と植えられた夏の花々の原色が似合う気持ちの良い宿、そして江戸時代のものが多く残る印象の宿でした。小松や商店の辺りの曲がりが京方の西の枡形跡となります。きれいな曲線です。
6,咬月原(こうげつはら)
宿場を抜けて旧中山道は県道に合流します。右側に古くは『かないか原』と呼称された咬月原があります。用明天皇の頃(586年)に、咬月という官女が勅勘(勅命による勘当)を受けてこの地に流されてきます。咬月は白馬をかわいがって乗り回していましたが、ある日、馬は天の竜馬で、咬月は馬と共に空へ駆け上がり、平尾山山頂で「吾は白山大権現なり」と称して岩の中に入ってしまった、との言い伝えがある咬月原です。咬月はたびたび山頂から降りてきて、その跡が草の色がそこだけ異なるという咬月の輪の伝説として今も残っています。空に登っていった伝説といい、空と行き来した伝説、草の色がそこだけ異なる輪となっている地面といい、まるで古来にこの地に宇宙船が飛来したような痕跡!というロマンは広げすぎでしょうか。まるで竹取物語のようですね。
1723(享保7年)頃の小諸藩士で押兼流馬術を習得したと伝えられる押兼団衛門長常という人の歌碑もあります。小田井宿本陣の安川家文書の中にあったもので、『むかしより かはらぬ影をうつしてや 月毛の駒の跡のみちしば』という歌です。
涼しい風が吹く原っぱに、靴を脱いで石の長いすでしばし休憩をします。
7,鵜縄沢(うなわざわ)の一里塚
鵜縄沢(うなわざわ)の一里塚が見えてきました。中山道開通当初の慶長 (1599-1614) 年に設置されたもので、その後の道路改修によって街道から外れたそうです。中山道の道筋が江戸時代になって大きく変わったことを示すものである、と標識にあります。うっそうと茂った森のようです。ここで小田井宿終了と区切ります。
Oct.10,2015 瀧山幸伸 source movie
御代田一里塚
小田井
Otai
June 2005 瀧山幸伸
中山道 追分から御代田一里塚 ドライブ
Nakasendo Oiwake to Miyota ichirizuka drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 御代田一里塚から小田井 ドライブ
Nakasendo Miyota ichirizuka to Otai drive
June 2005 HD quality(1280x720): supplied upon request.
中山道 小田井 宿場内 ドライブ
Nakasendo Otai town drive
June 2005 source movie
中山道 御代田
Nakasendo Miyota Ichurizuka
June 2005 source movie
ドイツパン みらい
地元産のかぼちゃを使ったパイ
ライ麦パン
中山道 小田井宿
Nakasendo Otai post town
June 2005 source movie
水路が流れる小奇麗な宿場町
取材メモ
交通もそれほど多くなく、水と緑が印象に残る小奇麗な町。当時女性が安心して宿泊できる宿場として人気があった理由だろうか。
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