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長野県塩尻市 洗馬
Seba,Shiojiri city,Nagano

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Nov.5,2018 柚原君子

中山道 第31 洗馬宿(せばじゅく)

概要

洗馬宿は松本盆地の南端の標高750メートルにあり、北国西街道(善光寺道)の起点です。中山道のこの近辺は戦国時代には軍事上必要であった思われる下諏訪宿から小野宿・牛首峠経由で贄川宿に至る別ルートがありましたが、それは非常に険しい山道でした。徳川安泰の世になると物流や諸藩主が安全に参勤交代のできる街道が重要となり、中山道は塩尻峠から木曽路に続く街道に変更され、その間の塩尻、洗馬、本山は近郊の住民を集めて新しい宿として造られました。

地名の由来は、古くは洗場とも記されて、木曽義仲(源義仲)の家臣が義仲の馬の足を近くの清水で洗い癒したことからと伝えられています。

1843天保(14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、洗馬宿の宿内家数は163軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒で宿内人口は661人、伝馬は50人50疋でした。

中山道には、継ぎ立て荷物の目方を検査し、規定の重量を越えた荷物に割増賃金を徴収する貫目改所が3箇所置かれていましたがその一つが洗馬宿にありました(他二つは板橋宿と追分宿)。

洗馬宿は中山道と「北国西街道、善光寺西街道」の追分の宿で善光寺への参拝者、江戸へ向かう人、京に上る人などで大変賑わいを見せそうです。杖一本備えていれば「駕籠かき」、「馬引き」など仕事はなんでもあったと伝えられています。しかし、史蹟の多くは1932(昭和7)年の大火で大部分を焼失してしまい、残念な現状です。

塩尻を過ぎた先の旧中山道は、JR中央線につかず離れず続いていますが無人駅が多く閑散としています。国道からも離れていくので車の往来も少なく、木曽路に入る手前までは平坦な道のりですので、ゆっくりと中山道歩きを楽しむことができます。


1,弥生銅鐸・大門神社〜耳塚神社
特急「スーパーあづさ」での日帰りが続いています。本日も新宿を7時に出発して塩尻到着9時半。先回の続きを歩くために下大門の交差点まで戻ります。右手に大門神社。境内から日本最北の弥生銅鐸(どうたく)が出たことで知られています。
この地は南北朝(1300年代半ばの後醍醐天皇の南の朝廷と足利尊氏の北の朝廷)の戦いでは南朝の指揮所であり柴宮八幡社の敷地でした。昭和になり大門神社となりましたがここから出土した銅鐸は弥生時代後期のものと推定され「柴宮銅鐸」と命名されています。
銅鐸は東海地方では出土するそうですが長野県では珍しいとのことで、銅鐸文化圏がここまで広がっていた証明になるそうで昭和35年の銅鐸出土は考古学的に貴重とも。

その先には耳塚。通称耳塚様。屋根瓦のある祠で鳥居を持っています。1548(天文17)年の桔梗ヶ原の戦い(武田信玄と小笠原長時)で小笠原軍の討ち死にした兵士たちの耳を葬った所です。耳の聞こえがよくなると耳の形に似たお椀が奉納されています。

電柱の脇に道祖神。いたずらの手を加えられてしまったのか今までにない怖い様子の道祖神。宮廷衣裳を着ているようです。
熟れたナツメの赤い実をしばらく見上げてその先にあるのはカネホン造り酒屋。立派な土壁の蔵があります。
                       

2,
JR中央本線のガードをくぐります。昭和電工工場の長々と続くコンクリート塀を右手にしばらく歩いて行くと平出の一里塚が見えて来ます。
一里塚は36町を一里(約4キロ)とする江戸時代の道程標です。土を盛り上げた大きな塚の形で遠くからも見え、松や檜を植えて旅人に木陰を作ったり、近辺に茶屋ができたりと休憩する場所でもあった所です。

国道を通したり、また明治以降の徒歩という交通手段が激少したために必要性がなくなり壊されることの多い一里塚ですが、両塚が当時のままこのように残っていることは珍しいそうです。

松が植えてありますが、武田信玄の軍師である山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と呼ばれてこの松の葉を煎じて飲むと乳の出が良くなるということで「乳松」とも言われたそうです。松の葉は煎じると血行が良くなる効能がありますから、血の道と同じ所を通ってくる母乳も出が良くなるのでしょうね。両塚ともに立派な松です。

平出遺跡を遠くから見て旧中山道を行きます。両側に延々と続くのはブドウ畑。収穫を終えた後に少しずつ残ってぶら下がっています。いろいろな種類があるようです。

踏切を渡り「長野県野菜花き試験場」の「き」はどのような意味なのだろうか??と思いながら燃えるような紅葉を見上げて進みます。中山道一里塚の交差点を渡るとほんの少しですが旧中山道の痕跡がある畑の中の道にはいります。草道です。平出歴史公園の交差点でまた国道を越えて洗馬郵便局の方向に入っていきます。
                                                 

3、肘掛松と分去(わかされ)
緩やかな坂が見えます。右側に道路はみだしてかしいでいる松の木。肘掛けの松です。
細川 幽斎(藤孝)の石の塚もあります。細川 藤孝は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名で歌幽斎の雅号を持つ歌人でもあります。足利義輝、織田信長と仕えますが信長の死後は剃髪をして家督を譲ります。が、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、肥後細川家の礎ともなる人物です。さらに歌人でもあり一流の博識ある人であったようです。「肘懸けて しばし憩える松風に たもと涼しく通う川風」と一句。

肘掛けの松の先はさらに急な枡形状の細い坂道になっていますので降りて行きます。突き当たった県道293号線と合流する角に1857(安政5)年に建立された分か去れの常夜燈があります。ここが北国西往還の善光寺西街道の追分となります。立て札には江戸からは59宿30里、善光寺へは松本を経由して17宿19里とあります(昭和7年の大火以前は先ほど下ってきた細い道の枡形の辺りにあったそうです)。
                    

4,邂逅の清水〜本陣〜荷物貫目改め場所〜言いなり地蔵
邂逅(かいこう)と書いて「おうた」と読ませる邂逅の清水(おうたのしみず)が分か去れの道標の反対側を降りて行くとあります。洗馬の地名の由来ともなっている馬の足を洗った清水です。
木曽義仲が家臣の今井四朗兼平と合流して、兼平が疲弊した義仲の馬の足を清水で洗うと馬が元気を取り戻したという故事に由来しているそうです。
普段あまり使われることのない邂逅ですが、邂は出合うという意味があり逅にはおめにかかるという謙譲語の意味がありますから、合流というよりも、出合って助かった!という意味があったのではないでしょうか。「おうた」は「会った」が転化したものといわれてはいますが、邂逅という字にまで昇華させるにはよほどの理由が必要と、ちょっとこだわって考えてしまいました。
街道から下った大きな木の下に流れ落ちる邂逅の清水。さきほど細川幽斎が肘掛け松の下で詠んだ歌の“通う川風”はこの清水の流れだったのでしょうか。

JR洗馬駅の案内板の先にあるのが百瀬本陣。跡とあるのでこの場所にあったものなのか住まわれているお宅が子孫なのかは不明です。本陣跡とある家は改築中でしたが、よく見ると塀の一部が白色に抜けているので、もしかしたらここに説明板があったのかもしれません。帰宅して調べたら、矢張り説明板があったようです。それによると本陣脇本陣の庭園は「善光寺名所図会」にも載るほどの名園であったそうです。現在の洗馬駅の構内がそれに当たるそうです。大火にあっていますから仕方ないのですが残念ですね。
すぐ隣に「荷物貫目改め場所跡」。規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど伝馬役の過重軽減をはかったそうです。

向かい側に赤い門のある萬福寺。都会暮らしの身で慣れているコンビニはどこにでもありそうですが、中山道の特に国道を外れたところを歩くときは一軒もありません。お昼を食べ損ねることもあるので用心して食料は多めに持って歩きます。今日も駅で購入したいろいろなものを萬福寺の本堂前に座らせて戴いて昼食となりました。御手洗もあり感謝です。

萬福寺で満腹になったところで再び出発します。大火で大部分が焼け落ちたとはいえ、宿の趣のある家が時々現れてくる街道です。

芭蕉の句を刻んだ大きな石があります『入梅はれの わたくし雨や 雲ちきれ』。入梅はつゆと読み、わたくし雨は地域に一時的に降る雨のこと、と立て札に解説してあります。街道の景色が遠く見えて、どこかに雨の様子が見て取れるのですが、どこか一部が晴れていたりするのでしょうね。侘しいような楽しいような句ですねぇ。

高札場跡もあります。京方面にある東の枡形です。行政のお知らせが掲載される高札場ですが、こちらでは「御判形(おはんぎょう)(ごはんぎょう)」と呼ばれたそうです。少し奥に行くと言いなり地蔵堂があるそうです。もともとは江戸方面の西の枡形に合ったそうですが、「言いなり地蔵」はいろいろな地方に結構多くあります。庶民の願いなのでしょう。当地の言いなり地蔵もどんな願いもかなえる地蔵と言われていて、馬に乗っていても地蔵の前では下りるならわしでしす。しかし、ある時馬に乗って侍が通り過ぎると真っ逆さまに落馬します。侍は地蔵を切りつけますが、和尚は傷ついた地蔵を袈裟でていねいに巻き上げた、との伝説が残っています。
明治維新で廃寺になってしまった地蔵山新福寺にあった言いなり地蔵を、お堂を立てて安置していますが、白い布で覆われ、それを見たものは目がつぶれるとの祟りを恐れ、見た人はいないということです。……というわけで私も見にはいきませんでした。
                                     


5、牧野の一里塚〜半端ない渋柿
JRの高架をくぐると左の山の斜面に「牧野の一里塚跡」があります。宿の入り口にあった平出一里塚は乳松の謂われのある立派な松が生い茂った両塚でしたが、こちらは開発の波に呑まれて、この辺りであろうと推測したとの石碑が建つのみです。青空にコスモス。野生の柿……と思って一つ口に入れたら飛び上がるほどの渋柿。豆柿という半端ない渋さ。持参していた豆大福を二個食べましたがその渋さは治まりませんでした。可愛いい柿ですが要注意です。
山肌は照る山紅葉の彩り。中央本線に四両の電車が走り、すすきが揺れる田園風景の中を歩きます。
洗馬宿はここで終了です。このまま本山宿に向かいます。
                         



June 2,2016 瀧山幸伸 source movie

アルセーバ

         


Sep.2009 瀧山幸伸

    

Map
中山道 塩尻から洗馬 ドライブ
Nakasendo Shiojiri to Seba drive
June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 洗馬 宿場内 ドライブ
Nakasendo Seba town drive
June 2005  source movie

洗馬

 洗馬は火災で元の宿場の面影をなくしている。明治の小学校も壊してしまった。その中で、あうた湧水のみが昔と変わらぬ冷たい清水をささげてくれる。初夏の暑い日にもその潤いがうれしい。この水で義仲の馬を洗った「洗馬」の地名の由来となっている。

June 2005  source movie

  

善光寺道追分
   

本陣跡
  

逢田(あふた)湧水
June 2005  source movie

  

取材メモ

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