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長野県塩尻市 塩尻宿 
Shiojiri,Shiojiri city,Nagano

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Oct.2018 柚原君子

中山道 第30 塩尻宿

概要
冷蔵庫のない昔は食料の保存に塩は欠かすことができません。海に面した地域以外は塩や海産物を荷駄で運んでもらわなければならないことから、海と山を結ぶ「塩の道」と呼ばれる街道が古来より出来上がっていました。
日本海側では「北塩」といわれる糸魚川側の塩を松本経由で運ぶ塩の道の千国街道(ちくにかいどう)(糸魚川 - 松本・塩尻)や北国街道(直江津 - 追分)、太平洋側では「南塩」といわれる塩を運ぶ道の三州街道(岡崎 - 塩尻)、秋葉街道(御前崎 - 塩尻)などが塩の道の主でした。そしてそれらの終点に位置するのが塩尻宿でした。

塩の道の最終地点である塩尻は「北塩」が糸魚川を出発して松本でさばけて塩尻に来る頃に塩が終了になり、同じように三州街道からやってくる「南塩」も塩尻が終点となり、いわゆる終結点、分岐点でいずれからも塩の終り頃、つまりお尻の方になるから「塩尻」という地名の由来説が一般的です。(地質由来説として、青粘土質の底土をシホといい、周辺の粘土質は窪地へ流入して堆積して青粘土ができることから、シホとは窪地をさし、窪地の端なので塩尻という他説もあります) 。

塩尻宿は塩嶺ともいわれて標高は1000メートル。太平洋側と日本海側の分水嶺でもあり、御野立所からは諏訪湖や南アルプス、北あるブスそして富士山までが見える中山道唯一の絶景地でもあります。

江戸時代初期に大久保長安によって整備された中山道ですが、塩尻宿は1563(永禄6)年に武田信玄が伝馬定所を決めている東山道の時代から有る古い宿です。
当初は下諏訪宿から三沢峠〜小野宿〜牛首峠を越えて贄川宿へつながっていて、現在の中山道より短いけれども難所の続く厳しい山道でした。
戦国時代は険しいがゆえに軍略上の重要地点でもありましたが、徳川の安定した時代になって軍事上の都合よりも、経済活動や物流、また大名たちが安全に通れる(各藩を統治する)ためには、険しい意味づけは不必要となり1613(慶長18)年に廃止されています。

そして1614(慶長19)年からは新たに下諏訪宿から塩尻峠を越えて塩尻宿・洗馬宿・本山宿を経て木曽に向かう新しい中山道が造られます。
新しく設置した塩尻宿地点に既成集落が無かったので、当時五千石街道沿いにあった元々の塩尻宿(現在の古町付近)や近郷から人々を移して宿の形が整えられています。元々あった塩尻宿地点は古町と呼ばれて田畑の有る農村地帯(現在は住宅地)にもどり、新しく作られた塩尻宿は上町と呼ばれて現在に至っています。

1843(天保14)年の『中山道宿村大概帳』によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は塩尻峠を控えているところから中山道で第二番目に多い75軒、宿内人口は794人とあります。しかし1828(文政11)年と1882(明治15)年の二度の大火で歴史的建造物のほとんどが焼失し、現在は跡碑ばかりが多く見られる残念な現況です。

塩尻は松本盆地の南端、扇状地形で長野県のほぼ中央に位置しているので、県内随一の交通の要衝となっています。盆地を生かした果物栽培とワインが特産となっています。

1,塩尻峠・塩嶺御野立公園(展望台)

先宿の終わりである岩舟観音を過ぎていよいよ塩尻峠に向かいます。はじめは緩やかな登りですが、その緩やかさも長く続くと息が上がります。道はアスファルト、気候も適度ですので歩調を変えずに一歩一歩行きます。

過ぎてきた長野自動車道のICがかなり下の方に、諏訪湖とともに見えます。山道は曲がりくねるという表現がぴったりです。周辺の木々がまだまだ高いので頂上もまだまだ遠いと思いながら登って行きます。

諏訪七不思議の一つと言われる「大岩」が登り道左側にあります。
斜めに傾いている木標には下記のように書いてあります。
『この巨石は昔から『大石』と呼ばれている。「木曽路名所図会」にも、「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、横幅二間余(約3.6m)」と記されている。伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋められた。雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い火がチロチロと燃えていたという。また、この辺りは昔よくムジナが出て、夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている提灯のローソクを奪ったというムジナはローソクの油が大好物という。』どこから転がり落ちてきたのでしょうか。ほんとうに不思議な大きさの石です。

道祖神をみて小さな川を渡り再び曲がりくねった緩い傾斜の山道を登っていきます。時々諏訪湖が見えます。幾度も曲がりくねった後、なんとなく空が明るい感じになってきたところで頂上にでました。ほっ!。

右手に中山道と書かれた比較的新しい石柱。その奥に明治天皇塩尻嶺御膳水碑、その右に浅間神社の小さなお社。お社はかってこの地が松本領と諏訪領に分かれていた頃の群境の宮として祀られたもの、との説明があります。お社の奥にコンクリートの建物。実はこれが展望台。急ぎ中山道を行く人には必要がないのか、展望台への案内はなし。気付かず先に少し歩きましたが、諏訪湖や穂高が見渡せるはずの峠の頂上(笑)がなく、道はやや下りに入ってしまう様子なので、おかしい?と引き返しました。御膳水碑の奥に少しだけ見えるコンクリート建物が展望台なのでした。

展望台へのらせん階段を上がります。
素晴らしい眺め。お天気はあまりよくありませんでしたので南アルプスは雲の中でしたが、富士山の頭や八ヶ岳は良く見えます。富士山と八ヶ岳連峰がけんかして、八ヶ岳が負けて八つに分かれた山になった、と子どものころに聞きましたが、ここからですと確かにけんかできる距離(笑)ですねぇ。
諏訪湖方面でない展望台の後ろ側に回ると北アルプスの乗鞍、穂高、槍ヶ岳の山並みが見えます。南アルプス北アルプスと富士山が一緒に見える場所は日本ではこの展望台のみとのこと。この一帯は塩嶺御野立公園という名称が付いています。
                                                        

2,上条茶屋本陣跡

展望台でアルプスを堪能した後は塩尻峠から塩尻宿に向かっての下りに入って行きます。しばらく行くと民家が見えます。上条茶屋本陣跡です。「立場 上条源治」が1796年に建てた本棟造りの茶屋で、門、玄関、上段の間、次の間が残されていますが非公開です。和宮が休息された場所でもあります。お隣には現在も上条家の方が住まわれていて、その軒先に畑の作物がたくさん有りました。

向かい側に明治天皇御膳水碑があり、その奥には井戸があります。塩尻峠は日本海側と太平洋側への分水嶺でもあります。美味しい井戸水であったのでしょうね。またしばらく下って行くと前方右に赤いよだれかけの親子地蔵さん。1716年の天明の大飢饉で行き倒れになった親子を供養したもの。その隣には「夜通道」の伝説があることが記された木標。夜通し好きな男の元に通った伝説だそうですが、昼間でも暗い道、大岩には追いはぎも隠れていたという山道ですが、すごいエネルギーですね。
                           

3,東山の一里塚

峠をだいたい下りてきた様子で、道はだいぶ平坦になり民家も見られるようになり東山の一里塚に到着。こんもりとした高さ3メートルの一里塚。現在はこの南塚だけが残されています。中山道が塩尻峠を抜けるようになってから造られたものです。
行く手に高ボッチ高原案内があり左にすすみます。
道が分かれる左側に道祖神と馬頭観音と半僧坊大権現としるした石があります。半僧坊とは山や森を守る鎮守のこと。道をまっすぐにとって柿沢の集落に入ります。

秋真っ只中。青い空と柿とナツメと秋の花が美しい集落を通過していきます。先方から京方面から来た中山道歩く人にすれ違いましたが、塩尻宿中心からはとてつもなく長い緩やかな上り坂続きで心底疲れた、とおっしゃっていました。
国道に合流したあとに歩道橋の斜め右に進みます。犬飼の清水という看板があります。国道工事の前までは清水が湧いていたとそうです。
                                                   

4,首塚胴塚〜永福寺観音堂

再び国道に合流してしばらく歩きますが、神渡看板のところでまた右の道に入っていきます。国道が通ったので中山道は国道を跨いだり逸れたりが頻繁にあります。それでも元の旧中山道が残っているだけ良いのでしょう。場所によってはほんの何メートルかの畑の中を中山道として歩くところもあります。
国道を逸れた道は山道のようで細く、民家も畑もあり零余子を摘み、桑の葉に透ける赤とんぼ、産卵前のジョロウグモにも出合い、しばし写真を撮って遊びました。

山の斜面に牛馬守護神。交通手段や荷役として欠かせない牛馬は大切にされて死後も供養されています。下り坂が緩やかに続きます。先ほど汗をかきかき京方面からあえぐようにすれ違った中山道歩きの人の苦労が偲ばれます。ほんとうに見渡す限り、緩やかな下りです。特産品なのでしょうかカリンの畑が続きます。あまい香り。熟しているようですが、こればかりはもいでも食べられません。

中山道歩きはおにぎりや菓子パンを持ち歩きます。バスも通る道でもコンビニがないところが多く、まして旧道ですので今流の生活の道と外れていますので、食事にありつけなくなることがあります。本日もちょっと見晴らしの良いところに登って、畑の中にあったトタン板をお借りして、塩尻の駅で買ってきたおにぎりやゆで卵を戴きました。

おなかがいっぱいになったところで出発。柿沢橋を渡ります。右奥に乗鞍岳。下は長野自動車道。まだまだ続く緩やかな永井坂の下り。15分ほど行くと首塚胴塚に。塩尻市地域ポータルサイトに詳しくでていますので要約させて頂きます。

『戦国時代、武田信玄と小笠原長時が戦をしたときに亡くなった方々を埋葬した首塚胴塚では毎年の旧暦のお盆に柿沢分館主催の「首塚胴塚供養」が行われます。今年も例年と同じく住民や子どもたちが参加して供養が行われました。供養では永福寺住職がお経を唱え、最後に参列した小・中学生が一緒に「南無阿弥陀仏」を唱え、手を合わせ礼拝をします。

供養のあと、柿沢子ども育成会会長から「首塚胴塚」の由来を聞き、この地であった出来事に思いを馳せます。
首塚胴塚の由来は今から400年以上前の戦国時代に、塩尻峠から下った永井坂(柿沢)でとても大きな戦がありました。甲斐の国(山梨県)の武田信玄が天下統一を果たそうと信濃侵略をはかり、松本まで攻め込もうとしていました。塩尻,松本、安曇、三つの地方の大名が地元の豪族などの協力を得て、塩尻峠と勝弦峠に陣を引き、諏訪地方の武田軍に立ち向かいました。武田軍7000人、小笠原軍5000人のにらみ合いが続きました。戦が始まったのは7月19日、梅雨明けのとても暑い日の朝、武田軍が塩尻峠の小笠原軍を奇襲。最初は互角の戦いをしていましたが、勝弦峠を守っていた小笠原陣営が武田軍に寝返ってしまいました。小笠原陣営は挟み撃ちに合い、塩尻峠から逃げ帰る途中、塩尻峠を下った永井坂でとても大きな戦いとなりました。
武田の兵士にとっては手柄をあげるチャンスとばかりに甲首をとり、首実検も行われました。血で血を洗うような戦いの末、首と胴がばらばらに転がる惨状となっていました。柿沢の住民はあまりの惨状を哀れみ、首と胴、それぞれに埋葬し供養をしました。柿沢地区には今も武田の家紋を継ぐ家系があり、武田がこの地を治めていたことをうかがい知ることができます。石碑は昭和10年、地元の有志と小笠原の末裔とで建てられています。』

中山道から少し中に入った、今では畑の中にある首塚胴塚です。周囲には大きなダリアの花が華やかに咲いていましたが、いつの時代でも戦いは悲惨なものだ、と思いつつ街道に戻ります。

夫婦道祖神や塩尻宿猫や塩尻宿犬や屋根の雀おどりを見ながら坂の街道を下っていきます。高札場、道祖神と過ぎて下柿沢の交差点を過ぎて火の見櫓から左の方に入ります。見えてくるのは藁葺き屋根の永福寺朝日観音堂。市の有形文化財指定を受けています。
朝日将軍と呼ばれた木曽義仲が信仰した駒形観音がおさめられているそうです。観音堂は一度焼失していて、現在のものは1855(安政2)年建立。入母屋造りの屋根の曲線が優しいです。明治の終わり頃に建てられたという山門(仁王門)も見応えがあります。
                                                                                          

5,いてふや・本陣・脇本陣

仲町の交差点からいよいよ塩尻宿の中心地に入ります。概要にも記しましたが大火に二度もあっている塩尻宿はほとんどが残っておらず「跡碑」ばかりが目立つようですが、仕方ありません。
宿の入り口(出口)は江戸方面を東口、京方面を西口といいますが、木戸口といわれる塩尻宿東口を示す宿碑があります。一里塚はどこにあったかは不明としてとりあえずこの辺りということで立っています。
松本藩塩尻口留番所跡碑(出入りを取り締まった関所)、地蔵・脱衣婆・閻魔などを祀る十王堂の跡碑、南塩がやってくる三州街道の碑、昔は領地替えや石高の増減などが戦の後に行われていましたので、領地が褒美や分割で飛び地になることもあったので、諏訪藩主が東5千石の飛び地の巡見に利用した道がといわれているのが五千石街道で、その方向を示す石柱も立っています。

庚申塔や抱き合う男女の道祖神などを見ながら、歩道の狭い通行量の多い街道を進んでいくと、「いてふや」と看板を掲げた国の重要文化財に指定されている小野家住宅が見えてきます。元旅籠屋。1850(嘉永3)年建築です。明治15年の大火を免れた建物です。
「いてふ」とは銀杏のことなのですね。銀杏の葉っぱの絵が描かれています。ベンガラ格子になまこ漆喰の優美な建物です。切妻造平入で、2階建桟瓦葺。2階には5室の客室があるそうで、室内装飾は幕末期の大都市で流行したものだそうですが(塩尻市公式HPより引用)、残念ながら内覧はできません。

住宅のわきに飛脚問屋跡、上問屋跡、下問屋跡、本陣跡、脇本陣跡、と碑ばかりが続きますがこの辺りが中心。高札場跡もあります。本陣は間口が24間(43メートル)、建坪367坪の大きさで中山道最大の規模であったそうですが、明治の大火で焼失しています。本当に残念です。
                                                                              

6,笑亀(しょうき)酒造(陣屋跡碑)

海鼠壁の立派な土蔵を構えた笑亀酒造。1883(明治16)年創業。店舗兼主屋・酒造造蔵・穀蔵の3軒の建物はまとめて登録有形文化財となっています。
おおきな酒林が吊されています。酒林は杉玉とも呼ばれるもので、杉の葉を球形に束ねたもの。酒の神ともされる奈良県の大神(おおみわ)神社が杉を神木とすることにちなんでいるそうです。
杉玉の下には陣屋の跡碑。塩尻宿は松本藩所領ですが、1726年(享保10)年に幕府の直活地となり政務を執る役所である陣屋がこの地にあったという碑です。

前方に見えてくる歩道橋は枡形の跡。
中山道は歩道橋の手前から右手に入っていきます。歩道橋の下には駕籠立場跡があります。
立場は宿から宿へ馬や駕籠を引き継ぐ(料金の区切り場所でもある)目安になるところですが、参勤交代の場合はお殿様の駕籠を置くところが必要で、小休止やトイレなどのお休みの間、地面に置くわけにも行かなかったようで、駕籠立場が造られたそうです。参勤交代の行列が通る数日前に周辺の村人たちが土を盛り上げて土俵のようにして周囲を芝垣で囲って、規模によっては茶席なども設けられたそうです。
                                                               

                              

阿禮神社、小学校、夫婦道祖神などを見ながら歩いて行くと、右側に堀内家住宅。国の重要文化財ですが残念ながら修復中で、機材がいっぱい入っています。
堀内家は江戸時代堀ノ内村の名主。建物は19世紀初期(文化年間)に下西条村から移築したものと伝えられている。本棟造切妻造妻入。板葺で勾配の緩い大屋根と庇棟飾りに特色がある民家形式の一つ。もとの建物は宝暦〜天明年間のものだそうですが、改造を重ねられたため、当初の姿が不明なところも多いそうです。

修復前の写真がたくさん貼り出されていましたのでそれを撮影して立派な雀おどりの飾られた屋根を見て通過します。
大小屋(おごや)の交差点を過ぎて塩尻橋に。交通量が多いので車に注意しながら塩尻駅に向かい、ここで塩尻宿を終了します。
                                     



Oct.11,2015 瀧山幸伸 source movie

塩尻峠
Shiojiritouge
    

塩尻峠茶屋本陣
                  

夜通道地蔵

        

東山一里塚
    

       

首塚 胴塚
       

       

永福寺観音堂
Eifukuji kannnondo
                             


   

相体道祖神
soutaidousosi
     

五千石街道碑
    

三州街道碑
   
アルプスワイン工場
 

塩尻宿本陣、脇本陣跡
     

脇本陣庭園
              

耳塚
      

大門神社 銅鐸出土跡
     

平出一里塚
                 

June 2005 瀧山幸伸 

Map 塩尻峠
Map 塩尻宿
Map 堀内、大門、平出
Map 平出から洗馬


中山道 塩尻峠から塩尻宿 ドライブ
Nakasendo Shiojiri pass to shiojiri drive
June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 塩尻宿内 ドライブ
Nakasendo Shiojiri town drive
June 2005  source movie
中山道 塩尻宿
Nakasendo shimosuwa vicinity

参考:旧中山道小野宿


小野家(国重文)
Onoke
June 2005  source movie

 

          

塩尻本陣付近
Shiojiri honjin
June 2005  source movie

   

造り酒屋
 

堀内家(国重文)

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