JAPAN GEOGRAPHIC

長野県大桑村 須原

Suhara,Olkuwa Village,Nagano

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 



Apr.4,2021 柚原君子

中山道 第39宿 須原宿


概要

須原宿は長野県木曽郡に属する大桑村にあり、木曽山脈と阿寺山地に挟まれて中央を大きな木曽川が流れる山間の村で、住居はわずかな平坦地に固まってあります。
須原宿は当初は筑摩県筑摩郡野尻村でしたが、1874(明治7)年、長野村・殿村・須原村と合併して大桑村となり、翌々年には長野県西筑摩郡の所属となり更に西筑摩郡が木曽郡と改称し、さらに野尻村の区域を組み入れて、現在の長野県木曽郡大桑村に至っています。
中山道木曽11宿の中で政治経済の中心となっていたのは中山道三大関所の一つを有する福島の関が置かれていた福島宿ですが、木曽氏が足利尊氏から木曽地方の所有権・知行権を得た応永年間(1394~1427)では、ここ須原が木曽氏の本拠地となっていました。木曽川左岸には愛宕山須原城跡も残っています。そのふもとの定勝寺は木曽義在の居館跡とも言われています。その後、戦国時代になって木曽氏11代目の木曽親豊が、飛騨や恵那に通じる交通の要所となる福島に居を移し、中心地は福島宿へと移っていきます。

このように戦国時代より機能していた須原宿は現在よりも木曽川寄りにあったのですが、1715(正徳5)年の洪水で全てが流されてしまい、高台になる現在地に2年がかかりで移転。移転の際には他宿の良いところを取り入れて、
●道幅を広くする
●道の真ん中に宿場用水を設ける
●家々の間に排水溝を整備する
●裏山から湧水を引いて七か所に井戸(水場)を設ける
●宿場の入口に枡形(曲尺手)を設ける
●宿場内の道を緩やかな「く」の字型に折れ曲げさせる
などが考慮されたそうです。

この中で道の真ん中に設けられていた宿場用水路は埋め立てられていますが、その他は当時のまま。檜の大木をくりぬいて町の共同上水にした水舟がところどころに今もあり、現在は『水舟の里』と呼ばれています。水害にあった経験からか、水神様も祀ってあります。
現在の須原宿の古い町家は、明治期の大火以降のものが大半を占めていて、軒の線と出桁造りの張りだした2階の線とがそろえられて直線で伸びる形です(別名は鉄砲町)。道幅が広いので、ゆるやかな屋根の勾配を見ることが出来ます。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると家数104軒・人数748人。本陣1、脇本陣1、旅篭屋24、間屋2となっています。


1,須原一里塚~高札場跡
コロナ禍で動きがままならない。4月上旬、都民が他県に行ってはいけないという雰囲気は残っていましたが、長野の遅い春、桜の満開を想像して思い切って出掛けることに。コロナ禍で1年半ばかりのロスをしたことになりますが、その間に膝を痛めたので,何がなんでも歩くという方針を変更せざるをえず、宿の間の国道歩きなどはタクシーやバスを利用することにしています。
本日は須原駅下車で『須原の一里塚跡』からの出発です。木曽11宿は中央本線沿いにありますので、塩尻から先は車中より上松宿にあった『寝覚めの床』を上の方から眺めて通過していくことが出来ます。
須原駅下車。右方向に1分ばかり戻ると一里塚の碑と須原宿への入口案内があります。須原宿案内版の絵は一直線に並ぶという町家が描かれています。絵の横には須原宿に木曽一族が城を構えた常勝寺の名前と水舟の里の文字。
坂道を登っていくと「大和屋」。幸田露伴が21歳の時に執筆した出世作『風流仏』の中で旅の仏師が花漬け売りの娘に恋をすると描かれている、須原名物の桜の花漬を売る店です。想像していたより小さなお店。向かい側に幸田露伴の碑。『名物に甘きものありて、空腹に須原のとろろ汁、殊の他妙なるに、飯幾杯か滑り込ませたる……』とあります。
少し行って高札場があります。朽ち果てる寸前のような木札が立っていました。

                                                               

2,本陣跡~脇本陣跡、正岡子規碑
中心部の本町に入って行きます。宿の雰囲気は特になし。本陣跡は高札場同様に古びた看板が空き地の前に一本立っているだけですが、往時の本陣は代々木村家が世襲し建坪136坪の広大で格式の高い建物の本陣であったようです。
あまり手入れのされていない木札一本の本陣説明で、繁栄にほど遠い静かさで少し物足りない気もしますが、反面この静かさが現代人の宿歩きには充実感をもたらせてくれるようです。洪水後の新しい町割りで道路は広くまっすぐに続き気持ちがよいです。

向かい側に『脇本陣跡』。木曽家家臣を祖とする西尾家が代々務め問屋、庄屋も兼ねていました。また木曽氏が豊臣秀吉の命で下総の国網戸に移封させられた後は木曽領の代官山村家に付いたことで尾張藩の山林取り締り役も務め,その上酒造業を営み銘酒『木曽の桟』の蔵元でもあります。古文書、什器類など多数所蔵していると立て看板にあります。
水舟が見えています。地元では井戸と呼んでいるそうです。子規の句『寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は 月出つるほとの 空たにもなし』。
紀行文では『須原に至れし頃は夜に入りて空こめたる山霧深く、朧朧の月 は水汲む人の影を照らして、寂寞たる古歌の様という形勢なく、 静かなる道の中央には石にてひも古風の井戸有りて、神社の灯籠その傍にさびしく 立てり。』とあり、非常に寂しい宿の風情が描かれています。

                               

3,清水医院跡~町家
脇本陣の隣の黒い塀がある家は『清水医院跡』。建物は愛知県犬山市の明治村に移築されてありませんが、ここは島崎藤村の精神病を患っていた姉の髙瀨園が入院をしていたこともあり『ある女の生涯』を書くに当たり舞台となった場所です。向かい側に秋葉神社の常夜灯。昔の旅人の足元を照らしていた灯りです。
過ぎると一直線だった道が右側にかなりの角度で曲がって行きます。須原宿に唯一ある曲がって行く道です。
その先は一直線の道に庇をきれいにそろえた町家が続き須原宿の見所です。
江戸時代(慶応)や明治の火災でほとんどの町家が焼失し,その後に建てられた物ばかりですが、古民家として落ち着いたたたずまいを見せています。右側に『長野県西筑摩郡大桑町立須原小学校のコンクリートの門柱があります。昭和2年とあります。
郵便局の隣は旧旅籠『吉田屋』(民宿すはら)こちらも明治2年に建てられたそうです。間口の広い片側に水路のある町家が続いていきます。『三都講』の人々が定宿としていたのでしょうね。講の看板が掛かっています。「旧旅籠柏谷徳治郎」の家はガラス戸以外は昔のままとのこと。
軒先の灯籠に『民謡 須原ばねそ 発祥の地』と書かれて,歌の文句があります。
ばねそは郷土民謡盆踊りとして 唄い踊られる地唄で、はね踊るところからの由来です。嘉慶年間に京都より伝承されたもので、「よいこれ」・「竹の切株」・「甚句」の三種類があり、いずれも地唄のみで、郷土の盆踊りとして今に伝わっているそうです。

                                                              

4,定勝寺(じょうしょう寺)
枡形の場所となる右手側の「鍵」と書かれた蔵を過ぎて坂道を下っていくと,左手側に見えてくるのが常勝寺。ややきつい勾配の石段の先に立派な三門が見えます。
常勝寺は1387(嘉慶元)年木曽親豊が両親の菩提を弔うために現地より木曽川寄りに創建したもので、幾度かの洪水で流された後に木曽氏の館(山城)のあったこの愛宕山の麓に移転します。
現在の建築物は1598(慶長3)年に当時の木曽代官であった石川光吉が木曾義在居館跡に建立したもので(『吉蘇志略』)、秋籬離島の『木曽路名所図会』にも堂宇の全景が描写されているそうです。
臨済宗妙心寺派の寺院。山号は浄戒山。木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺といわれる中でも最古のお寺で、上松町の寝覚めの床で有名な臨川寺は常勝寺の末寺です。
寺には金永という人物が、そば切りを振舞った日本最古の「蕎麦切り」に関する文書や木曽家の資料、うぐいす張りの廊下、東洋一の木曽ヒノキダルマ座像もあるとのこと。
1952(昭和27)年には山門、本堂、庫裏が国の重要文化財の指定を受けています。
本堂の落ち着いた姿と庭の配置は京都の寺院を思わせる風情です。

                                                        

5,岩出観音
常勝寺を過ぎて左中山道野尻宿へ、の案内標石のある昇り坂に入ります。その先踏切を越えて長坂を上がっていくと眺めの良い場所に出ます。眼下に木曽川。向こうの川縁に桜並木、その奥、山を背にして須原発電所があります。トンガリ帽子の小さい塔の建物が見えます。1922(大正11)年に運用開始。最大出力108000KW・有効落差は34.9㍍。
この一帯は二軒茶屋という地名。小さな峠の感じですから、地名の通り昔は休み処の茶屋があったのでしょうね。汗をかいて登ってきただけの景色が広がっています。
「開国六部(ろくぶ)怜」と書かれた石が道ばたにポツンとあります。六部は写経した法華経を諸国に納経することとのようですが、それでしたら開国は回国の字でなければ?と思いますが、どういういわれの石かと思いながら通過。橋場村に入ってきました。橋場村は前方に見える「伊奈川橋」が渓谷のために橋杭がたてられずに刎橋(はねばし)
(注:刎橋では、岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。この手法により、橋脚を立てずに架橋することが可能となる)(参考資料ウキィペディア)。であったためにその構造保守を行う職人たちが居住していた村。
橋を渡らずに左に折れると、京都の清水寺を思わせる岩出観音堂が見えます。折しも桜の季節。美しい春の中に見える観音堂は本当にきれいです。(写真には電線が邪魔です。これも後で思ったのですが,伊奈川橋を越えて振り返った,橋と観音堂もとてもきれいな絵になったのに,撮れずに残念!……実はここから次の宿である野尻宿までタクシーで行くことになったので……途中の国道がとてつもなく長く続き、日帰り予定で出てきたので歩いていては間に合いません。……膝も痛いし……)

岩出観音堂は別名を伊奈川観音または橋場観音とも言い、京都の清水寺と同じ崖屋造り。本尊は馬頭観音で定勝寺の末寺でもあります。構造は木造 桁行六間 梁間一間 貫五段 舞台型で江戸時代の半ば頃に建立。1983(昭和58)年に 基壇修復が行われています。
細い階段を上っていくと、舞台は意外と広く崖面以外の三方向は見晴らし良好。伊奈川渓谷や伊奈川橋などが見渡せます。説明分があるので掲載します。
『奉仏 馬頭観世音菩薩
別名を伊奈川観音又は橋場観音といい、口伝によると三百余年前須原の一老父が馬の省を作り商いをしていた。或日一人の威厳ある馬上の侍が馬の省を求めたが折り悪く片足分しかなかつたのでその旨を伝え、不足分を早速作り後から追いかけて現在の橋場の入口付近で渡した。侍は喜んで代金を渡そうとしたが老父はその侍の尊容に打たれて代金を辞退したところ傍らにあつた木片を取らせ馬上で「馬頭観世音」と書いて渡し「必ずこれを信仰せよ、御利益があるであらう」と言って立ち去ったと云う、俗にこれをコッパ観音とも云う。老父はそれを家に持ち帰り神棚に安置したところ光明を放つたので、恐れを抱いて橋場の岩出山の岩間に祀ったところ一層赫々と光明を放ったので、忽近郷近在の評判となり来拝するものが多くなったので、近隣の助力を得て、この木片に観世音菩薩と刻み京都まで出掛けて妙心寺の名僧愚堂国師の開眼を受けて持ち帰り、一宇を建立して、奉安したところ 信仰する者多く、縁日(一月十七日、二月の初午)には遠くから大勢御詣りに来られる様になった様です。毎年一月十七日 初観音縁日、1月の初午縁日は午前十時半より法要を行っております。福ダルマ、お守り、お札の頒布も行います。大桑村須原 定勝寺 平成十四年一月十七日掲示板寄贈柳橋政明氏』
本来でしたら目の前の伊奈川橋を渡り右に折れて次の野尻宿に向かうのですが、私の今の足の状態では無理。これより予約したタクシーにて野尻宿に向かいます。

                                                                       


June 2005 瀧山幸伸 source movie

Map上松から須原その1

Map上松から須原その2

Map上松から須原その3

Map須原から野尻その1

Map須原から野尻その2

 

須原宿

Suhara post town

【街並】

近代的な商店など景観を破壊する建築物は少なく、比較的伝統的な木造建築により、良い街並が保たれているが、地域住民はその価値に気がついていないのであろうか。街中にある丸太の水場、定勝寺などが街に潤いを与えている。

 最近、宿場町内に近代建築の住宅が登場した。街並景観を阻害しており、非常に残念だ。

清水医院跡

  

街のあちこちに水場の演出が

  

   

本陣跡付近

 

   

道脇の水路が素朴な味をもたらしている

  

花も多い

    

柏屋付近 古い講札がデザインとして興味深い

    

水路を整備すれば美しい坂道景観ができあがり、散策名所となるだろう。

 


July 2004 瀧山幸伸 source movie


Aug.2003 瀧山幸伸 source movie

須原の街並

  

  

  

須原のまとめ アセスメント 合計 3点

宿場町の街並と建築物 +1

定勝寺 +1

水の演出 +1


定勝寺

白山神社

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中