長野県上田市 信濃国分寺
Shinano Kokubunji,Ueda City,Nagano
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国分寺跡は国史跡 三重塔は国重要文化財 |
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上田市国分1049 国分寺三重塔 重文 近世以前/寺院 室町中期 室町中期 三間三重塔婆、銅板葺 棟札5枚 19070828
July 13,2025 大野木康夫 source
movie
所在地 長野県上田市国分1049
信濃国分寺は上田氏の東郊、国分地区に位置しています。しなの鉄道線信濃国分寺駅から約500m、徒歩5分ほどです。
本堂(長野県宝)
万延元(1860)年の建築
桁行14.5m、梁間19.5m、一重、入母屋造、裳階付、桟瓦葺
三重塔(重要文化財)
室町中期の建築
三間三重塔婆、銅板葺
【「上田市の文化財」から引用】
今から1200年ほど前、朝廷は信濃とか越後とかいう国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせました。信濃の国では上田市の東方、今の信濃国分寺資料館のまわりに建てられたのですが、その大きさは、今の「しなの鉄道」の線路をこえて、はるかに南の方まで拡がっていました。すばらしく大きな建物でしたが、建ててから300年位の間に、この地方の戦いや災害によって、すっかり姿を消してしまいました。
その後、この地方の人々の心からの願いによって、国分寺は再び建てられることとなりました。場所は一段高い土地につくられ、三重塔まであるりっぱな寺ができました。薬師如来をお祀りしましたので、土地の人は薬師堂と呼んでいました。しかし、国分寺であったころから、毎月八日の日に和尚さんが、お経を上げることになっていましたので「八日堂」ともいわれました。とくに正月の八日にはお参りする人々がたくさんありましたので、今では上田の「八日堂」といった方がよく知られています。
姿が消えた古国分寺は、今の信濃国分寺資料館のまわりが一面の桑畑になっていましたのを、昭和38年から七回の発掘を重ねて、そこから、みごとに掘り出されたものです。
現在の国分寺(八日堂)にはりっぱな三重塔が建てられています。室町時代に建立されたものですが、さすがに国分寺の名にふさわしい、堂々たるものです。
いくぶん強く反〔そ〕った三層の屋根は、美しい曲線を空に描き、しかも塔全体がしっとりと落ちついています。「和様」という手法で統一されているため、整った感じがするりっぱな塔です。よく見ますと、柱や窓、その他いろいろな形が、国宝大法寺三重塔(青木村)とよく似ていますので、外見はそれにならったかも知れません。
しかし内部は違います。第一層の中をみますと、中央に四天柱(四本の柱)を立て、その中央に仏をお祀りしてあります。その場所だけは天井を一段高くして、鏡天井をはってあります。特別高貴な如来が居られるからです。
また、この天井の外側の四方は「如意頭文」という珍しい彫刻で、囲まれています。中国から渡ってきたもので、「禅宗様」という建築に使われる飾りです。だからこの塔は外は「和様」内部には「禅宗様」のところがあるので、「和様」のところへ、「禅宗様」をとり入れた塔とも言えます。一層の内部には、今も色のあとが残っていますが、建てた当時の内部は赤や緑の色がぬられていて、とても美しかったと想像されます。
Nov.2010 瀧山幸伸 source movie
A camera
B camera
信濃国分寺
総門は国道脇にぽつんと佇む。仲間はずれで淋しそうだ。本殿は近世の再建。
三重塔
ビャクシンの大木と塔のシルエットが調和し、春もみじと新緑の緑が目にまぶしく美しい。
*取材メモ
国道が遺跡を分断し、総門をかすめており、落着かなくて残念。本来の遺跡の姿を取り戻し、静かな環境に戻るのは来世紀だろうか。
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