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長野県上田市 上田城 

Ueda castle,Ueda City,Nagano

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Apr.15,2019 瀧山幸伸

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June 14,2018 柚原君子

上田城(尼ヶ淵城)の歴史 

1583(天正11)年、当時徳川家康に臣属していた真田昌幸は、家康の援助を受けて上田城を築き始めますが、豊臣秀吉に対しての背後を守りたい家康は、小田原の北条氏と手を組む必要上、上州沼田領を北条方に譲るように命じます。が、真田昌幸はこれを拒絶して徳川と断交します。そして、徳川軍の攻撃に備え、次男である真田幸村を上杉方に人質として差し出し、上杉景勝に築城とその他の援助を求めます。

1585(天正13)年8月に徳川軍が7,000人余の大軍で上田城を攻撃しますが、真田昌幸は2,000人足らずの兵で撃退します。NHKの大河ドラマでもおなじみの場面です。

徳川から上杉に臣を代えたことで、上杉方の武将の多くが築城を手伝ったこともあり、合戦の翌月には上田城の完成をみているそうです。

1600(慶長5)年になると関ケ原の戦いが起こり、真田昌幸と次男の幸村は石田三成方に、長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。昌幸と幸村は、上田城に立てこもります。そして、徳川軍3万8000人に対して、わずか2,500人で籠城戦を行いますが、敗北して真田親子は九度山(和歌山県)に幽閉されてしまいます。

徳川方にとられた上田城は破壊されて廃城となりますが、その後は上田領を家康から与えられた長男の信之が引き継ぎ、城を避けて現在の上田高校の位置に屋敷をかまえて藩政を執ることになりますので、上田城が戦の現場となったのは、関ヶ原の合戦までということになります。

1622(元和8)年になると幕府の命令により、真田信之は松代へ領地替えとなり、替わって仙石忠政が小諸から新領主として上田に入って来ます。そして、1626(寛永3)年より上田城の復興に取り掛かり、現在残っている堀・土塁・櫓などが再建されていきます。その後さらに領主は松平氏へと変わりますが、藩政は真田信之も居住していた屋敷で引き続き行われましたので、上田城は天守閣のある城の形態になることもなく、明治維新の頃には櫓や蔵が残るのみで、大木や竹が生い茂り、かろうじて城の番人が置かれているという上田城となっていました。

明治・大正の頃にはどこのお城もそうであったように、上田城もまた軍の施設(上田城は陸軍の東京鎮台第二分営)になったり、動物園があったり、自治体や個人に払い下げられたり、寄付されたりという経過をたどっています。

上田城址は2016年のNHKの大河ドラマ「真田丸」の影響で、押すな押すなの人混みだったそうですが、私が訪れたときはその波も過ぎた後で、夕刻だったせいもあるのでしょうか、とてもきれいな櫓が残る静かな中にありました。(参考文献:上田市HP、ウィキペディア、他)

1,上田駅前及びパンフレット

東京から新幹線で1時間半の地。中山道の長久保宿や和田宿は上田駅からのバス便しかありませんので、その時に2度ばかり立ち寄りました。2016年の大河ドラマ「真田丸」の時は凄い人混みだったそうですが、2年経った今は落ち着いた城下町になっています。その時に整備されたのでしょうか、町の至る所に歴史の説明板があり、歩いていて楽しい町になっています。

           

2,二の丸橋周辺

昭和初期から半ば頃まで、二の丸橋のかかる下には上田駅と真田・傍陽駅を結んでいた上田温泉電軌北東線(真田傍陽線)が通っていたそうです。城址公園にプラットホーム跡や架線用ガイシなども残っているそうですが、歴史をお話しして下さる方について歩けば、その場所がわかったかもしれません。橋の右奥には監獄もあったそうで、当時はこの橋が監獄への入口でした。もちろん上田城築城の頃は土橋でした。土橋の下は現在は楓並木の散歩道になっていますが、上田城が築城された当時は上田城の別名ともなった尼ヶ淵(千曲川分流の川)が流れていて、上田城は自然を要塞とする平城でした。

現在の橋の模様は六文銭でもない奇妙な模様ですが、マルが二つあって二の丸ということでしょうか。橋を渡ると右側に桑の実が美味しそうに実っていました。

                      

3,本丸東虎口の櫓門と南櫓と北櫓、および真田石

本丸東虎口櫓門と袖塀……明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の結果などをもとに、平成6年に復元された櫓門です。

北櫓と南櫓……1874(明治7)年、上田城の本丸、二の丸の土地、建造物、樹木などの一切が民間に払下げられます。櫓は入札価格に達せず1棟6円で分売されて、1878(明治11)年、太郎山にある上田遊郭に移築されて「金州楼」と「万豊楼」という遊女屋(貸座敷)として使われます。

昭和4年頃にそれらが廃業したために上田市に寄贈の申し出がありましたが、費用がかかるので行政としては動けなかったそうです。その後、東京の料亭に転売されることになり、上田市民が「上田城阯保存会」を結成して市民の寄付金により買い戻したという経緯があります。

移築復元工事は昭和18年から始められますが、戦争で中断し、昭和24年に復元の完成を見ます。私は夕刻頃に訪れたので見学時間が過ぎていて中は見られませんでした(有料です)。

以下は平成11年3月 上田市教育委員会の説明板原文です。

『三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行(けたゆき)五間、梁間(はりま)四間の妻入り形式である。屋根は入母屋(いりもや)造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁(しろしっくいぬりごめおおかべ)で、腰下見板張(こししたみいたば)り、内部は白漆喰塗りの真壁(しんかべ)となっている。窓は白漆喰塗りの格子(こうし)窓で、突き上げ板戸が付いている』

真田石……本丸東虎口の復元櫓門横の石垣の中にある高さ約2.5m、直径3mの大きな石。大手門の石垣に大きな石を持ってくる例は多く、その大きさで権威を誇る材料としたそうです。真田昌幸は築城の際に太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けて設置しています。のちに上田領を引き継いだ長男の信之が松代へ移封の際にこの石を家宝として持っていこうとしたのですが、全く動かなかったという伝承が残っています。

                    

4,真田神社

上田城は真田氏→仙石氏→松平氏と城主が変わっています。その歴代城主を合祀する神社です。当初は松平神社と呼ばれていましたが、その後、上田神社と改称。さらに、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、昭和38年には眞田神社と再々度の改称がされています。

神社の横には直径2m・深さ16.5mの井戸があり、真田井戸と呼ばれていますが、この井戸は抜け穴になっていて、城の北の方角にある太郎山の砦や上田藩主居館に通じていたという伝説が残っているそうです。

神社の幕の紋章は三つ。真田家の六文銭、五三の桐(松平氏でしょうか?)と永楽通宝(仙石氏の家紋)が付けられています。

              

5,本丸西虎口と二の丸櫓台

上田城唯一の現存遺構で、江戸時代初期の1626(寛永3)年に仙石忠政が建てたもの。西櫓というのは戦後に付けられた名称で、江戸時代には「西川手櫓」と呼ばれていたそうです。この櫓の建っている場所は西虎口になりますが、ここにも櫓門があったことが石垣の調査により判明しています。虎口は敵の侵入を防ぐための枡形ですが、西櫓には登って行かれる石段が付いていて中には入れませんが、見晴らしはとても良く、虎口の鍵のように曲がっていることも見下ろせます。

昔、櫓のあったことが証明される石垣の切れ込みもはっきり見えます。

西櫓は外壁は下見板張り、軒の下までは塗り籠め。格子窓は「武者窓」、矢や鉄砲も放つことができる小窓も付いています。入母屋造二層二階、桁行五間、梁間四間。壁は白漆喰塗籠大壁です。

                      

6,城址公園

本丸の跡です。公園に整備されてさくらの名所となっています。上田城は北櫓と南櫓は入場料の上、見学することが出来ます。西櫓は直近まで石段が付いていますので外側より見学が出来て、また見張らしも素晴らしいです。

上田城にはこのほかに東櫓と鬼門よけの方角にもう一つの櫓がありましたが、この城址公園にその礎石が残されています。

                    

7,百間堀と樋

二の丸堀の水抜きの石樋。1702(元禄15)年の修復の際に、木の樋から石の樋に変えたといわれています。百間掘跡の陸上競技場側にその出口を見ることができます。 西虎口の先を運動場の方に降りた先端にありますが、わかりづらいので競技場に集まっていた高校生にお聞きしたら、指をさして教えてもらえました。

西櫓から見下ろす川は「堀」で、手掘りで掘った土が土塁となっているそうです。その水抜き。

上田の駅で電動自転車が無料で借りられます(上田市は太っ腹です。どこの観光地も貸し自転車は500円くらい。電動だと1000円の所も有るくらいです)ので、堀に沿って自転車で巡ってみましたが、櫓のある上田城はどの角度から見てもきれいな城址でした

                      

8,本丸土塁「隅おとし」

上田城本丸の北東(丑寅)の方角は鬼門にあたりますから、土塁の隅を切り込み角を無くすことで「鬼門よけ」としたそうです。堀や土塁の面が内側にへこんでいます。

      

9,平和の鐘

「時の鐘の歴史は延宝五年(1677年)原町問屋日記の文献により明らかにされているが、或いはそれ以前からか、時を知らせる鐘として上田城下の住民に親しまれて日常生活に欠かすことができなかったと伝えられる。

以来二百数十年の長い間正しい時を知らせ続けてきたが、時代の移り変りの中で大正十四年この知らせはサイレンに代った。また鐘の位置も幾度か変わり昭和九年に上田城跡のこの場に落ち着いた。

昭和十八年大東亜戦争が次第に悪化するにしたがい、遂に軍に徴発され時代と共に鳴り続けた「時の鐘」は姿を消してただ鐘楼のみが淋しく歴史を物語り風雪に耐えていた。

この歴史的遺産をなんとか復元しようと市民の間に何度か計画されたがその実現には至らなかった、しかしこのたび昭和四十七年上田市自治会連合会にこの復元運動が起り広く全市民の協賛によって、その名も「平和の鐘」と改め三十年振りに昔の姿に再現された、この鐘の鳴り響くかぎり再び悲惨な事の起らないよう十万市民の平和の願いがこの鐘に込められている 昭和四十八年吉日 上田市」(説明板全文)

   

10、六文銭列車

上田訪問より少し前になりますが、佐久平方面から中山道を訪ねた途中に、小諸の駅でであった「六文銭列車」です。軽井沢から長野の間を走っています。2時間でお食事付きで14,800円。六文銭の紋の意味ですが、死後に三途の川を渡るのに必要なお金が六文。現在の葬儀でも宗派によっては六文を印刷した紙を納棺することもあります。真田幸村氏は「いつ命を落としても良いように六文銭を身につけておく、いつ命を落としても悔いのない戦いを」という願いを込めての六文銭であったようです。

旗の心地の赤い色は真田兄弟が臣を違えて徳川方と豊臣方とで戦うのですが、徳川派の兄、信幸に遠慮して豊臣方の弟幸村が兄の妨げになるといけ無いので六文銭を抜いた赤い色だけの旗で戦ったという記録があるそうです。

      


Apr.2005 瀧山幸伸  source movie

              

*取材メモ

 観光バスの旅。佐久のインター脇ドライブインで釜飯の昼食を済ませ、昼過ぎに立ち寄った。桜の見頃なので見物客で賑わっていた。

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