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長野県長和町 中山道 和田宿 
Wada,Nagawa town,Nagano

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June 2018 柚原君子

概要

標高820メートルの長野県小県郡に位置する和田宿。中山道で一番の難所となる標高1640メートル和田峠を控えているその手前の宿です。次宿の下諏訪宿に向かうには和田宿を抜けた後も延々と緩やかな登り道を行き、たどりついた男女倉(めのくら)から入山して、さらに和田峠を越えなければなりません。
次宿までの距離は23キロ(五里十八町)。健脚な旅人でもゆうに6〜8時間はかかる峠越えですから、和田宿には一泊の必要があり、人々が泊まる旅籠のみならず中山道を行き来する荷物も人や馬と共に留め置かれます。馬を泊める家なども含めて伝馬役だけでも70軒はあったという大きな宿となっています。

伝馬役とは公用通行の貨客に対する人馬提供で原則として一宿ごとの継送(つぎおく)りを負担するものです。馬役と歩行(かち・人足役)役があり、その提供数は街道ごとに幕府より定められます。東海道は100人100疋、中山道は50人50疋、その他の街道は25人25疋です。

和田宿は家の戸数は110戸でそのうちの伝馬役は70戸。70戸をさらに馬役と歩行役にわけ、馬は毎日50匹を用意して、その中から常時荷物などを中継する馬を45匹とし、緊急用に5匹は待機させる用意をしていたそうです。

和田宿は京方面に行く荷物は和田峠を越えての中継ですから、荷を積んで早朝に和田宿を出ても下諏訪宿から帰ると深夜になり、人馬共に休む暇もなかったといわれています。また歩行役は荷物を背負って輸送する人足役のことで和田宿には24人いたそうですが、人数がたりないときは隠居、後家、問屋場の小使い、寺の小僧、よそからの出稼ぎ人、果ては病弱者を除く全員というおふれが出ることもあり、安い賃金で峠越えまでしなければならず、それを嫌って他所に移住する者も出る始末で、1713(正徳3)年には近隣の橋場・新田を宿内に入れて全員を歩行役にさせるなどと「和田村町在方百姓論争」となる記述もあります。

江戸時代は中山道を通る参勤交代の大名も多く、また、皇女和宮が徳川家に嫁ぐ行列の通過道であったことも、それぞれの宿で一大出来事となっています。
和田宿も通過の8ヶ月前に宿の大半を焼失する大火災が発生し、幕府より急遽2000両の借金をして、宿泊所である本陣やその他の建物を全て整えています。現在の街道筋の建物は築年第が全て同じというわけです。そして、前後4日間にわたる行列の総人数、京方一万人、江戸方1万5千人、通し雇い人足が4千人という膨大な人数を無事に通過させています。

宿泊所は和田宿内だけでは足りず、近隣の村も総動員はもちろんのことですが、それでも足りず、下級のものたちは寺の軒下や、納屋の庇の下に寝たとあります。

江戸時代の和田宿近辺往来はとても賑わいますが、明治期になってもう一度激しい活況の中に置かれます。
宿駅制度は既に解体されて人々はそれぞれの生業の中で暮らし始めていましたが、1896(明治29)年、和田村は、王子製紙による大規模な山林伐採地となり(王子製紙(株)『王子製紙山林事業史』(1976.06)の中に記載/「黒田忠一等から、信州下伊那郡和田村の和田村外五カ村共有の遠山山林を一〇万九、〇〇〇円で購入」)、山林労働者でふくれあがります。現金を手にした労働者達は和田宿で食べたり飲んだり遊んだりしたそうで、多くの酌婦や料亭が出来、最盛期には飲食店は20軒もあったそうです。(参考資料:NPO法人和田の明日を考える会、ネットコトバンク)

和田峠は古来より黒耀石の産地です。また男女倉に国道を通すときに男女倉遺跡として発掘調査が行われ、旧石器時代石器28228点、縄文式時代の石器5514点が確認されています。

和田宿は新幹線ルートや在来線ルートからかなり離れた位置です。上越新幹線「上田駅」よりバス乗車50分という不便な地のこともあり(「佐久平駅」からも同等くらい)、観光客が少ないおっとりとした宿となっています。また史蹟が多く残り、宿全体の整備はきちんとされていて、湧き水あふれる肥沃な穀倉地帯であり、松茸も採れる豊かな山林まで控えた(旅人には関係ありませんが)、なんだかとてもお金持ちの和田の郷という印象です。

1 上田駅〜長久保バス停〜三千僧接待碑
7時18分ASAMA18号で上田に向けて出発。上田駅下車後はバスにて長久保宿まで50分乗車(佐久平側から入るか上田側から入るか、和田宿に行くにはこの二通りしか有りません)。先回は四日の一里塚まで歩きましたので、本日は続きを歩きたいのですが、体調不良なので「青原」の交差点を過ぎた先の二つ目のバス停「上立場」まで町営バスで行きます。どのようなシステム化分りませんが、町営バスは上田駅から乗ってきた賃料に含まれているという説明で無料でした。
神社の屋根の形をした「上立場」で下車。農業用排水溝のマンホールの蓋は「木曽街道 和田」と記されています。案内板がないので分りませんが、立場の跡と相馬家の門と思われるところまで戻り、本日の和田宿はここから出発です。

左側に三千僧接待碑。説明板には
「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、寛政七年(1795)この地に移された。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。三千の僧侶への供養接待を発願した、と碑文に刻まれている。碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで賄ったことがあると言われている。(和田村・長野県・文化庁)」とあります。

少し行くと左側に猫の像が有ります。福の字が刻まれています。ひげの数がとても多くてほほえましいです。気にならない程度の緩やかな上り坂を行きます。右手に庚申塔。神と祭という字が見える碑があります。獅子舞いで邪気を払うのでしょうか。子どもたちも笑い楽しそうな絵です。
「下和田上組」のバス停も神社風。その先の家は雪深い信州らしい急傾斜の屋根です。山里の風景の中の道をゆっくりゆっくり上っていきます。注連縄を掛けられた馬頭観音。
                                                     

2 若宮八幡神社〜上組の一里塚碑
馬頭観音の先、左側の森は「若宮八幡神社」
説明板によると、
「長和町指定文化財 若宮八幡神社本殿・ 和田城主大井信定父子の墓」祭神は、仁徳天皇である。本殿は、一間社流造の間口一・五メートル、奥行一・七メートルの大きさで棟札には享保六年(1721)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪偉文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。天文二三年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。元禄六年(1693)その回向の為信定寺第六世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。長和町教育委員会 」とあります。

棟札に記された年号のころは徳川吉宗が征夷大将軍となり、大岡忠相が江戸南町奉行になり目安箱が設置されたころ……草の伸びた中に小さめの鳥居と小さめの本殿。なんと、本殿は茅葺き屋根で本殿覆屋と呼ばれる中に納められています。これも江戸時代からあるといわれれば、なんだか不思議な気がします。

神社の先には「上組の一里塚碑」が見えています。一里塚は道路改修で取り壊されてしまったそうですが、道路を少し曲げることは簡単なこと。歴史は帰ってこないのだから残して置いて欲しかったと思います。
                

3 和田宿入口
原という地域にやってきました。きのこセンターの文字。畑にソバの花。赤いとんがり屋根のバス停。和田小・中学校の案内板を過ぎるといよいよ和田宿入口です。道祖神と小さなお社を通過。和田神社の鳥居が道路の脇にあります。奥に本殿?が。この位置からは見えません。土地の方にお訊きしたら、右の中学校(ちょっとレトロな建物)の奥の方に本殿はあるそうです。行くか迷いましたがパスします。
                              

4 八幡神社
風情のある家が続いていきます。家は大きくありませんが木鼻彫刻の立派な家も。やがて見えてくるのは八幡神社。先ほど過ぎてきた若宮八幡神社は和田城城主であった大井信定父子が埋葬された場所。こちらは和田城の鬼門よけとして建立された後に和田宿の守護神となった神社。拝殿と覆屋が一帯となっている珍しい造りだそうです。菩提寺の先に水場と祝言道祖神があります(平成3年建立)。宮廷衣裳が可愛いです。
                                  

5 旅籠河内屋(歴史の道資料館)
火の見櫓の隣の消防団の軒先にツバメがいました。子ツバメが成長して飛び出す少し前の大きさです。
この先は石垣に積み上げられた家が目立ちますが、江戸時代は先ほど越えてきた追川の先から街道の高低差が3メートルもあり、その差を無くすために明治期になって街道を掘り下げたとので、掘り下げた分だけ石垣になっているそうです。

旅籠河内屋。資料館になっています。入口の看板には本陣の文字も見られますので本陣かと思ってしまいますが、ここは旅籠。少し迷ってしまうような看板です。

河内(かわち)屋は大火災のあとの1861(文久元年)年建築。出桁造り出格子間口八間半奥行き11間半。建坪は98坪もある旅籠で、上客向けであったそうです。現在は歴史資料館として公開されています。土間に「一新講」の看板があります。看板は旅籠の質を保証するような意味があり、江戸時代に旅した人々が旅籠の善し悪しの目安にした看板です(後日調べたところ、一新講が創られたのは明治初期でした)

次ぎにあるのは、公開されていませんが屋号を山木屋という下の問屋。大きな家が続き見応え十分です。
                                                 

6 大黒屋〜古久屋〜本陣
下の問屋のお隣は旅籠の大黒屋。安政年間から昭和初期までは穀物商を営んでいたそうです。自由に入って間取りなど見られます。とても大きな建物ですが暗いです。でもそのおかげで江戸時代の暗さの雰囲気が分かります。明治時代に道路が掘り下げられたので、街道より少し奥に移動させられたそうです。

お隣の薬医門のある土蔵は穀屋(古久屋)。続いて旅籠を営んでいた黒木屋。脇道の奥に信定寺が見え、その上の山は和田城跡。街道に連なるどの家も重厚にして品があります。
先に進んで、本陣の向かい側にあるのはお蕎麦屋「徳田」。薬医門の付いた立派な町屋で、明和期から明治初期まで名主を務めた脇本陣羽田家の家屋です。六文銭の彫りの有る看板。和田宿は小県郡。真田幸村のドラマでは良く出てくる地名です。真田氏とどのような縁なのでしょうか。

いよいよ本陣です。
明治時代になって新政府の元、中山道などの宿駅制度は廃止されますが、宿の人々がその方針に背かなかったのは、住民達の肩にあまりにも大きな負担が乗ってしまった宿駅制度に辟易していたからだと言われています。それゆえ本陣などを壊すことに抵抗のなかった時代でしたが、和田宿本陣は主屋(居室棟)の解体を免れて役場や農協事務所などとして活用されます。
しかし1984(昭和59)年の村役場移転にともなって解体される計画でしたが残されることになり、5年後に現在地で本陣主屋として復元されています(皇女和宮が宿泊した本陣の御殿と呼ばれた奥座敷は上田市の龍顔寺に移築再建)。

本陣屋根は杉皮葺で石を重しとしています。部屋数14もあり間口12間は宿内最大、1335坪の大きな本陣ですが江戸時代はさらにもう少し大きかったそうで、現在の道路になっている方側に御殿があったそうです。

遠くの雷鳴が割合早くに近づいてきて本陣一帯は雷雨になり、しばし足止め。土間に座って本陣から雨足を見て静かに和田宿を味わいました。
                                                                                               

7 信定寺〜なが井家〜脇本陣〜「萬屋」(よろづや)
雨足が弱まったので先ほどちらりと見えた信定寺に。
戦国時代の末頃に和田宿は城下町で、この寺の辺りが中心地だったそうです。和田城主であった大井和田氏は信濃に侵攻した武田信玄に敗れ戦死して廃城となります。大井氏は大井修理大夫信定といい、信定寺は信定が住んでいた館の跡で、菩提を弔うためにお寺が建てられたという経緯です。

信定寺の裏山は古峰山(こぶさん)。この山の上に和田城跡があります。残念ながら雨が降り止まず40分ばかり楼門の下で雨宿りしたので古峰山の方には行かれませんでした。
信定寺の楼門は柱がやや細い感じで、山門の位置もなんだか背高のっぽのような感じですが、見栄えがあります。
江戸時代の14代住職は佐久間象山の師と仰がれたとか。また歴史的価値の高い宝物も多く、参勤交代の諸大名の参拝が絶えなかったそうです。

雨がなかなかやまないので、意を決して街道にもどります。道は和田峠に向かって緩やかに上り坂。左手に米谷鐵五郎という看板。上の問屋です。そのお隣も大きな庄屋であったなが井家。出桁造りの旅籠です。
向かい側に脇本陣。重厚と何度も言いたいくらいの江戸時代の家が和田宿には残っています。こちらも大火災後の再建で、現在残っているのは御殿部分のみだそうですが、上段の間は遺構として残っていて、皇女和宮のお草履もあるそうです。が、非公開のようで残念です。

隣の家との屋根を少し持ち上げた屋根を卯建(うだつ)と言いますが、卯建は裕福な家の証拠となります。本来は防火壁の役目でしたが、江戸時代になると装飾に重点が置かれたので、屋根にも装飾できる裕福な家ということなのでしょうね。「うだつ」は現在も生きている言葉で、うだつがあがらない、といえば見栄えがしない、生活や地位が向上しないという意味を表しています。その立派な卯建を持つ家は「萬屋」(よろづや)。質屋と両替商を営んでいたそうですが、現在は酒屋さんです。門と白壁の土蔵。門には門番が覗くのでしょうか大きな窓があります。
                                                    

8 不動明王〜牛宿跡〜扉峠口のバス停
道路の掘り下げが徐々に終了しているのでしょうか、この辺りに来ると石垣の高さも低くなっています。注連縄を掛けられた不動明王。次いで高札場跡。幕府からのお知らせを示した場所です。御法度のこと、駄賃の定め、今で言う指名手配犯人などのお上から告知書ですので、旅人は菅笠を取るのが慣わしだったそうです。

小さな常夜燈が二基ある馬頭観音を過ぎて、鍛冶足バス停脇に道祖神。本当に緩やかな坂を行きます。鍛冶足交差点脇の一里塚跡。江戸から50里目です。
大出のバス停は茅葺き屋根の待合所です。左の細い道が中山道。佐田川を越える大出橋のたもとの草むらの中に道祖神。さらに細くなっていく道を行くと国道に合流します。

国道をテクテク歩いて行くと杉の屋という食事処の前に祝言道祖神。向かい側には「牛宿跡」があるそうですが、何度か探しましたがみつからず。ここには二軒の茶屋があって一軒は「塩つけ宿」と呼ばれる宿屋で、中馬稼ぎ(ちゅうまかせぎ……信州の農民が行った馬の背に荷物を乗せて運ぶ運送業)をする人々の宿泊所。米、大豆、タバコなどを関西方面まで運び、岐路塩などを持ち込んだそうです。街道は伝馬で荷物を中継していき、それらは問屋や幕府役人が管理していましたが中馬稼ぎは直接目的地まで行ってしまうので(宿に運送料が入らない)、しばし争いの種になったそうです。

この時点で14時20分。扉峠口のバス停まで歩きます。20分歩いてバス停に。茅葺き屋根のバス停は崩れそう。中に入る勇気はありません。この先は唐沢の一里塚がありその手前に唐沢集落。その中に羽田茶屋本陣跡などがあり、その先、さらに国道を行くと、和田峠の入口である男女倉のバス停留所へと続きます。そこまで行くには2時間くらいかかりそう。
ここまで緩やかな登りの連続はやっぱりちょっときついです。今日は体調も今一ですので、撮影は終了します。

しかし和田峠入口の男女倉に行くバスがあと30分くらいで来ることが判明。バスは唐沢の集落も通るはずですので、次回の和田峠越えの為に見ておこうと、バス待ち。和田宿で降っていた雨は嘘のようで青空。国道の脇に座って青空と緑の山を見ながらバス待ち。
                                                                                   

9 男女倉バス停〜唐沢集落バス内より
やってきたバスに乗り25分後には男女倉バス停に。ふ〜ん、ここから和田峠越えをするのですね。大変な峠です。決心がいります。交通の便が悪いので峠越えの時間を考えると前日は和田宿で、民宿泊まり、朝一番にこの男女倉までバスで来て、みなさん峠に向かわれるとのこと。車中よりバス停を確認してそのままバスに乗っていて唐沢集落を車中撮影して上和田バス停下車して上田に出ます。下校時間に遭遇して和田小学校バス停から、沢山の小学生が乗車してきて、以後外の景色は撮れず(笑)。元気な子どもたちの話し声に、しばらく地元感に浸らせていただきました。
                                          

10 和田宿の花々。
                 


Oct.12,2015 瀧山幸伸

和田峠の中山道

    


June 14,2014 瀧山幸伸 source movie

A camera

本陣周辺
                                                    

                                       

信定寺
    

脇本陣
  

大黒屋
          

河内屋周辺
                                                          

黒曜石資料館
                      


B camera

長久保から和田へ
          

河内屋付近
                                                                 

黒曜石
                       

信定寺
       


大黒屋付近
                    

本陣付近
                                                          


                                          

脇本陣
     


          




和田から和田峠へ

接待
      

東餅屋
      



黒曜石遺跡

男女倉
       

星糞峠付近
         



June 2005 瀧山幸伸

Map 下和田北
Map 下和田南
Map 和田宿

慶長七年(1602)開設された中山道のうち、和田峠を超えて下諏訪に至る道筋は慶長十九年(1614)頃完成した。中山道随一の長丁場で、和田峠は最も標高の高い峠であった。天保十四年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、宿の延長七町五十八間、人数588人、126軒となっている。
アーネストサトウ編の「明治日本旅行案内」でも、和田宿は貧しい村として紹介されており、それであるがゆえに今日まで古い街並が保たれている。本陣、脇本陣が残り、異質な現代建築も少なく、往時の出桁造りの宿場の街並を楽しむことができる。

 


中山道 長久保から和田 ドライブ
Nakasendo Nagakubo to wada drive
June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 和田宿内 ドライブ
Nakasendo wada town drive
June 2005  source movie

中山道 和田宿近郊
Nakasendo wada post town
June 2005  source movie

  

下和田、風景に溶け込むバス停 ネコバスが来そう
 

接待 江戸呉服町の豪商、かせや与兵衛(有隣)が千両を幕府に寄付し、その利子で文政十一年(1818)設置され、旅人向けの食糧補給施設として運営された。 おいしく冷たい湧き水は関西からも汲みに来る人がいるほど。
    

和田峠遺跡群
旧石器時代、黒曜石の大生産地。(国史跡)
  

東餅屋付近 和田峠越えに難儀する旅人へのサービス施設だった。
  



和田宿
Wada
July 2004 瀧山幸伸 HD(1280x720)

笠取峠(長久保宿に入れるべきですが、ビデオ編集上和田に入れました)
  

和田宿
 

本陣
文久元年(1861)皇女和宮降嫁の直前に焼失したが、急遽再建し、秋の和宮宿泊に間に合った。明治以降は役場として使用された。


  
  
  

旅籠
       


河内屋付近
  
 

  

 

脇本陣付近
  
  


  

脇本陣から和田峠方面の街並
 

長久保方面の街並
 

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