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長野県木祖村 薮原

Yabuhara,Kiso village,Nagano

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Sep.10/Oct.8,2019 柚原君子

中山道 第35 藪原宿

概要:藪原宿は長野県木曾谷の北部にある木祖村の中心集落で、中山道を宿数で区切れば第35番でちょうど真ん中の宿場になります。藪の多い原っぱだったから藪原なのでしょうか。それとも古くは「やごはら」と呼ばれていたそうなので清流にとんぼの幼虫「やご」が多かったからなのでしょうか、定かにはされていません。

藪原宿は鳥居峠を控えている宿であり野麦峠に続く飛騨街道の追分もあるところから、交通の要衝で賑わった宿で、その規模は、馬籠・妻籠をしのぐ南北5町(約550m)あったといいます。鳥居峠を挟んで安堵したり鋭気を養ったりした宿だったのでしょうね。

木曽谷の産業である木製品の中でも、ミネバリ(後にはツゲなども)を材料にしている櫛が特産で、「お六櫛」と呼ばれています(お六の櫛の経緯は前宿に記しています)。1848(弘化5)年の記録によると藪原宿には429軒の家がありその半数以上の239軒が櫛引(櫛の歯を作ることでしょうか)に従事しています。そして19軒が櫛磨きや櫛商いとなっています。

現在の藪原宿にその櫛を売るお店などはあまりなく、奈良井宿や木曽谷特産の木製品が並べられている大きなお店や工房も、また観光地らしい看板もなく寂しい感じがします。が、長野県伝統工芸品としてその技術を受け継いでいくための「お六櫛研究会」がこの地で結成されていて、櫛材の育成にも力が注がれています(昭和49年に建てられた「木祖村郷土館」では、製造工程やお六櫛の由来、当時の宿場の様子などを観ることができます)。

中山道の宿場は大きな火災に遭っているところが多いのですが、この藪原宿も明治期の大火により皇女和宮が宿泊したという本陣も焼失しています。さらに宿内は一本の道で貫かれている事が多いのですが、藪原宿では宿の真ん中を鉄道が貫いていて、鳥居峠を越えて降りてきたところに飛騨街道の追分、藪原神社、極楽寺とあり、本陣のある宿の町並みに行くには、線路をかなりの分量戻って跨線橋で向こう側に行かなければなりません。線路によって分断された藪原宿は全体がみとおせずに、線路を越えたり戻ったりとなりますので道程を良く頭に入れてから歩き始めないと迷います。

1鳥居峠から降りて~天降社、飛騨街道追分

先回は鳥居峠を越えて降りてきたところで、小学生に道を訊いて、国道の方に大回りして、駅に行く道をたどりました(小学生は一所懸命導いてくれましたが、結果的にものすごい遠回り、小一時間を要しました。本当はこの時間で本陣や高札場を撮影するはずだった)。それは致し方ないのですが、今日は藪原駅に降りて宿の案内図をもらいますが、先回の鳥井峠から下りてきたところの写真掲載から開始します。

鳥居峠から降りてきてホッとしながら駅に向かいます。左に「天降社」。急な階段です。脇に見上げんばかりの大モミジ。樹高約14m、目通り幹囲2.45m、枝張り約10m、木祖村天然記念物指定です。神社の説明は特にありません。

坂道を降りて行くと線路。左に曲がると飛騨街道追分の碑。この場所はかって薬師堂があったそうです。鉄道が無い時代に飛騨地方(岐阜県)の年端もいかない女子が野麦峠を越えて、工女として岡谷の工場に行くために通った道。木曽街道、野麦街道の別名もある飛騨街道です。飛騨からは日本海側で獲れた魚や塩が運ばれています。

少し戻って「御鷹匠役所跡(おたかじょやくしょあと)」

始めは妻籠宿にあったそうですが、鷹の飼育所のあった当地にまとめられた役所です。毎年春になると鷹匠と尾張藩の役人がやってきて木曽谷中に60余あった「巣山」とも呼ばれる御巣鷹山の管理、巡視、鷹の飼育や調教などを行ない、それは明治4年まで存続したそうです。厳しい自然環境の中で育った当地の鷹は優秀で、鷹狩を好む尾張藩主や将軍家に人気があったそうです。 

帰京する列車の時間ですので藪原駅に戻ります。駅は標高924メートル。1910(明治43)年の開業。

                                 

2,本陣

一ヶ月後に再び藪原宿に。今回は雨。線路の脇にある石段を降りて川の流れと共に線路をくぐって向こう側に行きます。鳥居峠から降りてきた石畳の坂が線路の反対側に見えます。緑色の跨線橋があるところから出発です。

雨の降る中山道は普段以上に静かで良い雰囲気です。左側に本陣跡碑。木曽氏の家臣であった古畑十右衛門が代々勤めています。古畑家は問屋・庄屋・脇本陣も務め、明治期には明治天皇の駐輦所にも。街道に面して間口6軒半、奥行き21軒半、部屋数は上段の間を含めて20室あまりもあった大きな本陣であったそうです。

「米屋旅館」創業は1608(慶長13)年。木曽路では最古の旅籠。建物は明治の大火の後に藪原宿寄り四つ京寄りにある須原宿より移築したもの。向かい側には「湯川酒造(銘酒木曽路の蔵元」。創業は1650(慶安3)年。

左手山の中腹の赤い鳥居は「藪原神社」。続いて「防火高塀跡」。1695(元禄8)年に藪原宿のほとんどが焼失する大火があり、その後防火対策として各戸一間につき一寸を提供しあって広小路を造り、土を盛り石垣を作ってその上に高い土塀を作って防火壁とした、と説明にあります。現在はその石垣の一部が残されています。

「宮川家資料館」には大きなお六櫛がウィンドウに。江戸や大坂京都から明治時代になっても注文が絶えることがなかったお六櫛。合成樹脂の出現で衰退しているそうですが「萬木問屋」はお六櫛製造の看板が掲げられています。

向かい側に「高札場跡」。京方面への枡形でもあります。高札は時期によって枚数が違ってきますが、<定>で始まる文書は三枚ありこれは「定三札」として永年掲示物ですから、どこの宿場でも同じものとなります。親に孝行、血縁を大事に、仕事の上下関係を説き、物を取ってはいけない、徒党を組んではいけない、そしてキリスト教の禁止などです。

<覚>で始まる文書は幕府の基本政策などが掲げられます。明治の頃まで続いたという高札場。いずれも京に向かっていく右側にあったといいます。藪原宿ではその跡碑だけが残っています。

                                                     

雨の降る中を先へと急ぎます。一里塚。鉄道敷設で寸断された藪原宿です。この辺りであったろうという場所に一里塚碑があります。道は県道をカーブしながら国道19号線の藪原の交差点に。雨は小やみに。木曽川を右に見て進みます。大きな橋は獅子岩橋。左手に旧道が少し残っています。次の交差点で合流できます。右の山の擁壁に中山道鳥居峠壁画がありますので撮影のためにこのまま国道を歩きます。壁画は鳥居峠を行き交う旅人と馬子が描かれています。奥の方に描かれた山は霊峰の御嶽山でしょうか。

壁画の反対側は旧道で、国道よりかなり下の方です。昭和の時代にかけられた管橋が美しい姿をとどめているのが見られます。土木学会選定の土木遺産です。

道は大きく左に曲がって管(スガ)の交差点に。次にめざすのは吉田洞門とその先の宮ノ越宿ですが、信号脇の案内板に吉田洞門の記はなく次宿の宮ノ越まで4.9㎞、国道から外れて右に曲がるようにとあります。標識通り曲がってしばらくいってみたのですが、山の中に入っていく道の様子。時々参考にしている中山道を旅する人達の記録では吉田洞門は木曽川に沿っています。おかしい?とおもったところに地元の車が通りがかったので訊いてみましたら、窓からおばあさんが顔を出されて「吉田洞門?遠いよ、そこまで歩いて行くの。ふ~ん、方向としてはその国道に沿って行くんだけどね」ということで、再び国道に戻り先へと歩きます。

……5分も歩かないうちになにやらトンネルらしきものが……。藪原宿で二度目の道訊き失敗の巻(笑)。洞門はすぐそこなのでした。

この辺りは中央アルプスが見えて景色が美しいところだそうですが、なんせ雨。洞門を通る車の音を聞きながら木曽川と洞門に挟まれた細い道を歩きます。左に洞門の綺麗な曲線。右側に集落の稲刈りの跡。その真ん中を中央線が行きます。

雨の中、座る場所もなく、足先寒く、とにかく歩き続けましたが前方に権兵衛というラーメン屋さんが。温かいものが食べたいと急ぎ足。店名の権兵衛は元禄時代に伊奈への道を切り開いた(権兵衛街道)古畑権兵衛からのようです。ラーメン屋さんの手前には石仏石塔群。ラーメンを食べた後にお店の脇のイスをお借りして持参のデザートを広げました。雨に煙る木曽路もしっとりとした匂いでいいものです。

イヌサフランの群生があり眺めている内に、どうやら雨が上がった様子。10分ほど歩くと山吹トンネルが見えます。国道を通したために木曽路は断ち切られているところが多く、人が歩かなくなると道は無くなり整備も行き届かなくなり、というわけで旧道がトンネルの右側の方にあるのですが、中山道踏破の先人の記事を読むと道は消滅になっているので、安全のために山吹トンネルを抜けた方がいいとの多数の意見。トンネルを行くことに。しかし、ものすごいトラック往来でトンネルの中はとんでもない轟音で怖かったです。トンネルを抜けるといよいよ宮ノ越宿です。

                                                         


Sep.10,2019 柚原君子

鳥居峠

鳥居峠は東側の犀川・信濃川水系と西側の木曽川水系との中央分水嶺で、長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠で、標高は1,197m。峠山の標高は約1,415.7m。江戸(奈良井宿)から向かう方が緩やかで、京(藪原宿)から来る旅人は登り登りの連続で難所の一つであったといわれています。

峠は信濃国と美濃国との国境でもあったことから中世から幾度もの合戦の地となっています。木曽氏は鳥居峠を木曽防衛の北方の第一線とし、敵を木曽谷深く引き入れ、峠で食い止めて撃破する作戦を取る事が多かったそうです。合戦で無くなった兵士たちを投げ込んだ葬沢なるところもあります。

鳥居峠の名は木曽義元が戦勝を祈願して御嶽山を遥拝し、そしてその戦に勝ったのでその成就の祈念として鳥居を建立したことに由来しています。その後に鳥居はなくなり、名前のみが残ったそうです。

現在ある鳥居は明治初年に再建されたもので御嶽神社が分霊されて祀られ、霊神場が設けられて、様々な石造物が置かれています。(『御嶽の歴史』22、170 より抜粋)

近年では熊の出没もあるようで、年間の目撃数もあり、熊を見かけたら塩尻市に連絡するようになっています。峠越えをする人々が打ち鳴らせる「熊鈴」が三ヶ所設置されていています。また、峠越えには熊鈴を持参するようにとの注意書きもあります。

1,葬沢~中の茶屋

奈良井宿を経て鳥居峠に向かいます。宿の家並みが途切れると鎮神社があり、そのさきにはもう峠への登り口が見えています。

登り始めにきれいな石畳が続きます。約600メートルが当時のまま残されています。古の人々が踏みしめた石畳です。

上り坂が少し続いていき、木橋を二つ渡ると左側にある傾斜の強い谷が葬沢。鳥居峠の合戦で敗れた武田勝頼軍の兵士500余名を葬った深い谷です。木が生い茂って暗い沢。昼間ですがお侍さんの亡霊が出てきそうな雰囲気でのぞき込むには勇気がいります。

その先に見える木造の枠と屋根だけが残るところが休み処の中の茶屋跡。朽ち果てる感。菊池寛著「恩讐の彼方に」の舞台となったところ。

その小説のくだりは、

『彼は、いつとなしに信濃から木曾へかかる鳥居峠に土着した。そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。彼はもうそうした生活に、なんの躊躇をも、不安をも感じないようになっていた。金のありそうな旅人を狙って、殺すと巧みにその死体を片づけた。一年に三、四度、そうした罪を犯すと、彼は優に一年の生活を支えることができた。』

小説の中とは言え現実に見てきた葬沢の深さを思い出すと、背中がぞくぞくします。

                        

2、鳥居峠の一里塚跡

道祖神を左手に見て細いつづら折れの山道を登っていきます。勾配はきつくないので楽です。木橋を三つ渡ると一里塚跡に。一里塚は旅人の目安となる印ですが、この山道に面影はなく、大体はこの辺りであったろうという場所に碑があります。木々の上の空が広く見え始めましたので峠が近そうです。

                       

3、峠の茶屋(藪原宿が眼下に見える水場と休憩所)

峠越えの旧中山道は「信濃路自然遊歩道」という名前が付けられて道先案内は良く整備されています。木橋を二つばかり通って軽く登って行くと休憩所とトイレと水場のある展望の良い場所に出ます。峠の茶屋です。建てたばかりのような新しい休憩所です。

これから向かう藪原宿が眼下に見えます。中山道峠越えコースという大きな看板には現在地と記した日本語の下に”You are here“の英語も見えます。先ほどから山岳マラソンをするような外国の方が私たちを追い越していきます。奈良井駅での外国の方の下車も多く、国際的にも奈良井宿の歴史的風景は人気なのだとうなづけます。

                      

4、御嶽遙拝所と熊鈴

♪木曽のなぁ中乗りさん、木曽の御嶽山はナンジャラホイ!♪

の歌があります。中乗りさんは山から木を切り出して木曽川を筏で運ぶときに筏の中心部で調子を取る人のこと。

御嶽山は長野県と岐阜県の県境に位置する標高3,067メートルの火山噴火山です。2014年9月には突然噴火して頂上付近にいた登山者が多数犠牲になっています。

御嶽山(王の御嶽:おうのみたけ→御嶽:おんたけ、と呼称変化。字面から“みたけ”と読む山もありますが、おんたけと呼ばれるのはこの山のみ)は古から山岳信仰対象の山で、死後の魂が安住する場所、自らの魂のふるさととしてあがめられ、御嶽山の見える場所に御嶽遙拝所が多く作られています。

特に密教(起こりはインド。唐代から日本に。平安初期に空海・最澄によって伝えられる。空海の真言宗系と最澄の天台宗系がある)における修行の段階に配して、東南西北を発心門・修行門・菩提門・涅槃門と名づけ、鳥居峠は北の涅槃門にあたるそうです。

その御嶽神社(遙拝所)の鳥居が見えます。頂上が近いので薄暗かった道に日が差してきました。大きなトチの葉がきれいです。遙拝所にはたくさんの石仏や石碑。信仰する人々が捧げたものです。外人の女性にまたすれ違いました。一人で。勇敢ですね。タンクトップに半ズボン。う~ん、山はダニもいるから危険なんだけど……。

木立の間から見ましたが、どの山が御嶽山なのか解らず仕舞い。これから向かう藪原宿は綺麗に見えます。

栃の木の多い中を歩きます。牛や馬を供養した石碑。1804(文化年間)のもの。

登りよりは急な下り坂道が続きます。鳥居峠には熊よけの鈴が三ヶ所設置されています。私たちも激しく鳴らしました。歩いているときはラジオと熊鈴と縦笛とを鳴らしながらです。山肌の木の朽ちた株が子熊が立っているように見えて、ドキッとして親熊を探してしまいました。怖い!!そう思いながら下ってきた鳥居峠。終える最後も石畳道があります

                       

                                                 

6、峠を降りて、藪原駅に

里に出てきました。道で作業をしていた若者たちに、藪原の駅の方向をお訊きしたら、どこから?と問われたので、鳥居峠を越えてきた、と返答したら、昔の人は頑張るねぇ、といわれました。昔の人?ははは♪、年寄りということですね(笑)。

里のには秋の花がいっぱい咲いています。青い栗のイガも綺麗。

(※、このあと下校途中の小学生に駅の道を訊いたら、連れて行ってくれたのですが、本当なら鉄道を越える跨橋を越えれば藪原宿に続いたのですが、通学路でもあったのか、えらい回り道で、40分もかけて駅に導いてくれました。峠越えしてきた身に、あの坂、この階段、その迂回路の国道歩きには、峠越えよりも疲れました(笑)。

教訓!小学生に道を訊くのはやめよう!でも小学4年生の女の子、私たちを振り返りながら気を遣いつつ駅に導いてくれてありがとう!!

                


Oct.12,2015 瀧山幸伸

Suge

        

境峠 木曽川源流域

Sakai touge 

      


June 2005 瀧山幸伸

Map 鳥居峠から薮原

Map 薮原南

中山道 奈良井から鳥居トンネル ドライブ

Nakasendo Narai to Torii tunnel drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 鳥居峠から薮原 ドライブ

Nakasendo Torii pass to Yabuhara drive

June 2005  HD quality(1280x720): supplied upon request.

中山道 薮原 ドライブ

Nakasendo Narai town drive

June 2005  source movie

鳥居峠

Torii pass

June 2005  source movie

   

峠の清水

 

峠から奈良井の眺望

 

峠から御岳方面の眺望

 

野生のキスゲ、アヤメ

     

峠から薮原への石畳

 

薮原宿

Yabuhara post town

【街並】 この町でも宿場の雰囲気があまり感じられない。伝統工芸品のお六櫛も今となっては需要が少ないのであろう。緑も水も花も少ない。

June 2005  source movie

本陣跡付近

       

     

お六櫛の店 江戸時代、大いに流行した。今も昔もおしゃれへの欲求は変わらない。

       

Aug.2003  source movie

   

薮原のまとめ アセスメント 合計 2点

周辺の自然と景観 +1

宿場町の街並と建築物 +1

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