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長崎県松浦市 鷹島

Takashima,Matsuura city,Nagasaki

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May 15,2018 瀧山幸伸 source movie

    

道の駅

                   

歴史民俗資料館

                                                                                                                                                                                                   

元寇の神崎海底遺跡付近の展望台

       

銅造如来坐像

この仏像は、元軍が船に安置して礼拝をしていたものと言われ、大暴風雨のため船とともに海底に沈んだと伝えられています。江戸時代の終わり、ある漁師が原の海岸が魚の群で海の色が変わる夢を見て、翌朝早速その辺りで網を引いたところ、この仏像がかかってきたそうです。ある時、仏像を盗もうとした泥棒に、この仏像が「原の釈迦は原に帰る」と叫んだので、驚いた泥棒は、仏像の頭や額にはめこまれた黄金や宝石を抜き取って逃げたと伝えられています。この仏像は高麗時代前期の作で、高さ77cm、指の組み方が阿弥陀仏の来迎印という特異なもので、対馬や壱岐にある高麗仏とは作風が異なっており、とても珍しい仏像です。(松浦市)

          

今宮神社・広久山満福寺跡

元寇で鷹島を守るために活躍した第14代松浦答の墓や五輪塔、宝筐印塔が無数にあります。境内には樹齢450年といわれる大銀杏があり、昭和32年に長崎県指定天然記念物になっています。枝からは乳柱が垂れ下がっていて昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられています。また、この今宮神社には満福寺という寺があったのですが明治になって寺は廃止されました。このお寺は第8代松浦久が三里の平坦な地形を見て耕作する土地に最も適していると、一族発展の根拠地としてここに広久山満福寺を建てたと言われています。(松浦市)

                   

元寇激戦地 首除き

      

元寇激戦地 開田の七人塚

1274年文永の役で、鷹島に上陸した元軍は、我が防衛軍の不備に乗じて島民のほとんどを虐殺しました。船唐津免の開田付近は当時山深く、人目につきにくい山奥に一軒家の8人家族が住んでいたところ、不幸にも飼っていた鶏が鳴いたため元軍に発見され、8人のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かったと言われています。それ以来、開田では鶏を飼わないと伝えられています。(松浦市)

    

対馬小太郎の墓

里免清水川の南側丘の上にあり、対馬の守護代・宗助国の家臣、小太郎の墳墓です。小太郎は、文永の役の際、対馬から元軍の襲来を大宰府へ報告するという使命を果たし、その後、博多の防衛戦に参加し、弘安の役でもめざましい活躍を果たしました。鷹島襲撃の知らせに少弐景資の配下として奮戦中、重傷を負い自刃しましたが、小太郎はその時、「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残したので、対馬・壱岐・黒島を遥かに望むこの丘にお墓が建てられ、小太郎は対馬様とも呼ばれ親しまれています。(松浦市)

              

供養の元

鷹島町中通免にあり、この供養塔が建っている周辺は、古くから鷹島の中心地であり、道をはさんだ所には憩石神社が祀ってある。

 高さ一八〇cm、幅六十三cm、厚四〇cmの自然石に「享保十七年(一七三二)四月十五日」「南無阿弥陀佛」と刻んである。

 蒙古襲来時に亡くなられた方々の供養のために享保十七年にこの供養塔を建てたものと思われる。以後「供養の元」と呼ぶようになったと考えられる。

 春と秋の彼岸の時には住職を招き供養が行われている。(松浦市)

  

鷹島神崎海底遺跡(史跡)

平成24年3月27日、文部科学省は元の軍船や遺物が発見された松浦市鷹島町神崎免の沖合い海域を、日本で初めての海底遺跡「鷹島神崎遺跡」として国史跡に指定しました。蒙古襲来に関わる古戦場です。

 この海域は、弘安の役(1281年)の際に、元軍の船団が暴風雨により沈没した地点として伝えられ、鷹島の南岸では以前から壺類や刀剣、碇石などが地元の漁師などによって水中から引き揚げられていました。

 昭和55年から開始された発掘調査では、船体の一部や、陶磁器類、漆製品、矢束、刀剣、冑などの武器や武具類などが多量に出土し、これらの出土品を分析した結果、弘安の役で沈没した元軍のものである可能性が高まりました。蒙古襲来は、鎌倉幕府を崩壊に導いた原因のひとつであり、日本史上重要な事件として知られています。

 この遺跡から出土した様々な遺物は、これまで文献や絵画などでしか知ることができなかった蒙古襲来の様相を具体的に明らかにするとともに、当時の軍事や外交などを理解する上で極めて重要な遺跡として評価されています。

 平成23年秋、鷹島海底遺跡を調査していた琉球大学の研究グループは、神崎免米ノ内鼻の沖合い約200メートル、水深20メートルから25メートルの海底を約1メートル掘り下げたところから元の軍船を発見しました。

 この調査で見つかったのは、船底の背骨にあたる竜骨(キール)と呼ばれる部分で、竜骨の大きさは、幅約50センチ、長さ約12メートルで、これから推定される船の長さは20メートル級と見られています。(松浦市)

                  

兵衛次郎の墓

兵衛次郎は、元軍襲来を対馬小太郎と共に大宰府に報じ、また、小太郎と共に戦い鷹島で戦死した一人です。神崎免伊野利の浜、西南方の丘の上にお墓が建てられていて、石堂様とも呼ばれています。(松浦市)

        

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