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長崎県長崎市 市街一般

Downtown,Nagasaki city,Nagasaki pref.

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May 3,2019 柚原君子

唐人屋敷跡
Old Chinatown

所在地:長崎市館内町
新地中華街を銅座橋方面に行くと唐人屋敷跡があります。大きな門をくぐると唐人屋敷の屋根全体が反り返ったように見える茶色の堂が見えてきます。

江戸時代、対中国貿易は長崎一港に制限されて中国人(唐人)たちは長崎市中に散宿していました。しかし、年々、密貿易も多くなり、幕府は、1688(元禄元)年、十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手します。広さは約9,400坪、現在の館内町のほぼ全域に及ぶ大きさの唐人街を作ります。周囲を塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
また、1698年におきた大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、倉庫にも目がいき届きやすいようと唐人屋敷前面の海を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を造成します。この地域は新地と呼ばれます。

竹垣で囲われた唐人街は、外側に大門(一の門)があり、脇には出入を改める番所が設けられます。さらにその奥には二の門があり、役人であっても入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていたそうです。

唐人街は長屋形式で、数十棟が建ち並び、2,000人あまりの収容能力があり、市中に散宿していた唐人たちは長崎奉行所に管轄されつつここに居住させられました。輸入品として持ち込まれた物品は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後に手回り品のみで唐人屋敷に入り、帰港の日までここで生活させられていたそうです。

日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけだったそうですが、唐人は長崎市内にある唐寺へ出掛けるのは割合と自由に許されていたようで、長崎人と交流する機会は多かったと考えられています。

生糸や砂糖や香料や薬品などは輸入品として多く持ち込まれますが、精霊流しや船の競争であるペーロン、長崎くんちの龍踊りなど今に伝わる文化もまた唐人によって持ち込まれたものが元となり、華やかな色彩を放つ異文化の感覚が根付いています。
江戸幕府は1859年に鎖国を解いて開国をします。唐人屋敷は廃屋化していきます。
その後、在住中国人は隣接の倉庫群のあった新地に中華街を形成し、長崎新地中華街として発展していきます。
唐人屋敷は現在は大きな門の他に福建会館、土神堂、 天后堂、 観音堂の四棟(いづれも建て替えられたもの)が残されて、静かな佇まいの中にあります。周辺は細い坂道や石段があり、当時多くの唐人が祖国と同じような食べ物の売り買いや習慣で暮らしていた一つの街であったことの面影を残しています。夕方の散策でしたが、唐風の紅い屋根が中国人ではない私にも郷愁を思わせる風景でした。

                                                                            

 

 

中華街付近

Chinatown

                       

 


Dec.10,2018 瀧山幸伸  source movie

中華街

                    

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