長崎県長崎市 グラバー園
Glover Park,Nagasaki city,Nagasaki
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長崎市南山手町2グラバー園構内 旧グラバー住宅(長崎県長崎市南山手町) 主屋 重文 近世以前/住宅 江戸末期 文久3(1863) 木造、建築面積510.8㎡、一階建、桟瓦葺 19610607
長崎市南山手町2グラバー園構内 旧グラバー住宅(長崎県長崎市南山手町) 附属屋 重文 近世以前/住宅 江戸末期 文久3(1863) 木造、建築面積129.2㎡、一階建、桟瓦葺 19610607
長崎市南山手町2グラバー園構内 旧リンガー住宅(長崎県長崎市南山手町) 重文 近代/住居 明治 明治元(1868)頃 木及び石造、建築面積350.8㎡、一階建、桟瓦葺 19660611
長崎市南山手町14グラバー園構内 旧オルト住宅(長崎県長崎市南山手町) 主屋 重文 近世以前/住宅 江戸末期 慶応元(1865) 木及び石造、建築面積504.1㎡、一階建、正面車寄付、桟瓦葺 噴水1基 19720515
長崎市南山手町14グラバー園構内 旧オルト住宅(長崎県長崎市南山手町) 附属屋 重文 近世以前/住宅 江戸末期 慶応元(1865) 煉瓦造、建築面積108.1㎡、一階建、西面庇付、桟瓦葺、主屋間渡廊下附属 19720515
長崎市南山手町14グラバー園構内 旧オルト住宅(長崎県長崎市南山手町) 倉庫 重文 近世以前/住宅 江戸末期 慶応元(1865) 煉瓦造、建築面積12.5㎡、一階建、桟瓦葺 19720515
May 4,2019 柚原君子
グラバー園
所在地:長崎市南山手町8-1
1、グラバー園庭
市電「石橋駅」下車。坂道を登っていくとグラバー園に上がっていく斜行エレベーターがあります。所々に丸窓が切ってありますので上に行くに従って港の景色が見えます。
グラバー園は全体が山で、南山手という地域にあります。長崎開港はポルトガル貿易船が入ってきた1571(元亀2)年。以来、貿易商の外国人が住む洋館が多く建てられます。明治時代には800棟近くの洋館が旧居留地をはじめとする市内や近郊に残っていたそうです。
グラバー園の中には重要文化財に指定されている旧グラバー住宅、旧三菱第二ドックハウス、旧ウォーカー住宅、長崎地方裁判所長官舎、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校などの建物が移築されています。
2、旧三菱第二ドックハウス
建築年代は1896(明治29)年。長崎市飽之浦町(現在の飽の浦町1)の三菱造船所第二船渠の建造にともない、船渠の傍らに建築されたもので、明治初期の典型的な洋風建築木造2階建。寄棟造、各階正面にベランダ、同形の部屋4室と中廊下からなります。船が修理のためにドックに入っている間、船員たちが宿泊する為の施設。ベランダから見える長崎港の景色がとてもきれいですが折しも大型連休中で人がごった返しているために、ゆっくり立ち止まって見ることができません。
3、旧ウォーカー住宅
洋館ですが木造瓦葺平屋建てという和洋折衷。家主のロバート・ウォーカー・ジュニアは英国人船長と日本人妻の次男で1958年に亡くなるまでこの家に居住しています。南山手にあったものを昭和49年にグラバー園に移築。屋根から突き出た日本風の庇や瓦屋根など親日家らしい造り。屋内は洋風造りですので暖炉もあり、窓は観音開きでとても可愛いです。
家主ロバート・ウォーカー・ジュニアの伯父(父の兄)は明治元年に来日して、グラバー商会(後ホーム・リンガー商会)で船長を務め、明治8年には、日本初の国際定期航路である上海航路の船長を務めています。その後日本郵船会社に勤務。さらに横浜でトーマス・B・グラバーと共にジャパン・ブルワリ・カンパニー(麒麟麦酒(株)の前身)を設立という経歴があります。
家主ロバート・ウォーカー・ジュニアの父ロバート・N・ウォーカーは、明治7年に来日。明治9年に日本政府より甲種船長の免許を受け、三菱系列の会社と日本郵船に勤務します。退社後は一旦イギリスに帰国しますが明治28年に再び来日して「R.N.ウォーカー商会」を設立。海運業を中心とした貿易事業を幅広く展開していきます。明治37年には「バンザイ清涼飲料工場」を開業して、ジンジャーエールなどの大量生産に成功。
たいへんな親日家で、自ら設立した清涼飲料水メーカーの商品にバンザイサイダー、バンザイレモネードとネーミングを付けたほど。明治41年に次男のロバート・ジュニアに会社を譲り、カナダに移住しています。
4、長崎地方裁判所長官舎
建築年代は1883(明治16)年。構造形式は木造2階建の寄棟造で玄関は破風造り。居留地の外側の長崎市八百屋町33番(現在の上町4-21)にあった洋風の長崎控訴裁判所(現在の高等裁判所)の官舎。原爆投下にもかかわらず残った貴重な建物。長崎控訴裁判所は、1886年(明治19年)に長崎控訴院に改称。その後、控訴院は1945年(昭和20年)に福岡に移転。それに伴ってこの建物も、控訴院の官舎から長崎地方裁判所長の官舎となっています。昭和54年にグラバー園に移築。
園内では写真館として利用されています。
5、旧リンガー住宅
(国指定重要文化財)
建築年は1868年頃。明治初期の居留地建築の代表ともいわれる石造りの美しい平屋建の洋風建物。木造で外壁は石造り。屋根は桟瓦(さんがわら)葺き。3面に角石の柱を配した吹き放ちのベランダ。正面中央が出入り口。南側の食堂と、北側の応接室が全面開放されて長崎港を眺めることができます。
訪れた季節は5月でバラ満開。長崎港を行き交う船や港の向こう側の三菱造船所や稲佐山の展望台などが見えて素晴らしい展望です。
旧リンガー住宅の主のイギリス人のフレデリック・リンガーは、1865年(慶応元年)26歳の頃に長崎入りしています。
1868年、29歳の時にイギリス人のホームとホーム・リンガー商会を設立。閉鎖されるまでの約70年間、外国貿易や商社代理店、お茶の加工、ガス等幅広い事業に従事し、長崎の産業や経済に大きな功績を遺(のこ)しています。
ベルギー、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの名誉領事にも就任して、長崎の国際交流に力を注ぎます。
1907年(明治40年)イングランドのノーリッジへ一時帰郷中に死去。住宅はその後、ロンドンで教育を受けて1909(明治42年)に長崎に帰ってきた二男シドニーに受け継がれますが、1965(昭和40)年、シドニーは英国に帰り住宅は長崎市に売り渡されます。
6、旧オルト住宅
主屋・附属屋・倉庫が国の重要文化財に指定。噴水1基が重要文化財の附指定
建築年月は1865(慶応元)年。構造形式は木骨石造りの平屋建。桟瓦葺、正面に車寄せがあります。石造円柱が立つ軒の高い洋風建築。イギリス人の設計で日本人小山秀之進が施工。
オルト商会を設立し、貿易商社として製茶業を営んでいたイギリス人のウィリアム・ジョン・オルト(William J. Alt
1840~1908)が1865(慶応元)年~1868(明治元)年の3年間、妻工リザべス(1847-1923)と二人の娘とともに住んでいた家です。
オルトの住んだ後は活水女学校の校舎や米国領事館などに使われましたが、明治半ばにはリンガー家の所有になり、太平洋戦争勃発まで住み、長崎居留地における最後の外国人となっています。住人が本国に送り返された後は川南工業が住宅を取得。米国占領軍の接収が行われるまで社宅として使用。戦後はアパートに。1970年(昭和45)年に長崎市が買い取りグラバー園に移築。
噴水はもう水が流れていませんが、石造り円柱が特徴の旧オルト住宅は屋根瓦とも不思議とマッチしていました。
7、旧スチィル記念学校校舎
建築年代は1887(明治20)年。構造形式は木造2階建、寄棟造、玄関正面上は3階建、中廊下式。
この建物は、1887年(明治20)年に東山手9番地の旧英国領事館跡に建てられたスチイル記念学校の校舎。スチイル記念学校は、当時アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校です。以来、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は改称されましたが、英語教育と特色ある学風で1932(昭和7)年までの45年の歴史を長崎の教育史に刻みました。
その後、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷して1972(昭和47)年に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け、翌年現在地に移築し復元したものです。
初代校長アルバート・オルトマンス牧師が校舎の建設を指導しました。(公式HP要約)
9、長崎くんち展示館
『長崎くんちの奉納踊』の名称で国の重要無形民俗文化財指定。
長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭で、毎年10月7.8.9日に開催されるお祭りに使われます。くんちの語源は、旧暦の9月9日を重陽の良き日として祝う中国の風習が伝わり、9日(くにち)をくんちと読み、祭礼日の意味としたとする説が一般的になっています。諏訪神社への敬称の意味もあって「おくんち」と呼ばれることが多いです。
1634(寛永11)年に、当時の太夫町(後に丸山町と寄合町に移る)の二人の遊女、高尾と音羽の両人が、諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが始まりとされています。長崎ではこの年に「出島」埋築が着工され「眼鏡橋」が架けられています。以来、長崎奉行の援助もあって年々盛んになり、さらに奉納踊には異国趣味のものが多く取り入れられ、江戸時代より豪華絢爛な祭礼として評判だったそうです。
踊りには「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」などがあります。いずれもポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、ダイナミックな演し物(奉納踊)が特色です。
現在、踊町は長崎市内に全部で59カ町あり、全町が7つの組に区分されています。奉納踊を出す当番は7年に一度回ってきます。
Dec.9,2018 瀧山幸伸
旧三菱第2ドックハウス
旧グラバー住宅(重文)
Glover house
旧リンガー住宅 (重文)
Linger house
旧オルト住宅 (重文)
Alt house
旧スチイル記念学校
Steel memorial school
長崎くんち展示
明治時代外国人居留地だった南山手地区にグラバー邸が残されていた。
昭和49年(1974)市内の洋館を集め保存する目的でグラバー園が開設された。
1st camera
旧三菱第2ドックハウス
Mitsubishi Daini dock house
旧長崎高商表門衛所
Nagasaki Kosho gate
旧長崎地方裁判所長官舎
Nagasaki court head residence
旧ウォーカー住宅
Walker house
旧リンガー住宅 (重文)
Linger house
旧オルト住宅 (重文)
Alt house
旧スチイル記念学校
Steel memorial school
旧自由亭
Jiyutei
旧グラバー住宅(重文)
Glover house
展示館
2nd camera
旧三菱第2ドックハウス
Mitsubishi Daini dock house
明治29年(1896)建築。
ドックハウスは、ドック入り時の船員宿泊施設。
旧長崎高商表門衛所
Nagasaki Kosho gate
長崎高等商業学校は明治38年(1905)の創立。
旧長崎地方裁判所長官舎
Nagasaki court head residence
明治16年(1883)に、裁判所長官舎として旧八百屋町に建てられた明治官庁建築の一つ。
当時の長崎で居留地外の市街地に唯一洋風の様式を取り入れた住宅。
旧ウォーカー住宅
Walker house
明治16年頃の建築。張り出したウィンドウが美しい。
ウォーカーは東洋航路日本郵船「高千穂丸」の船長。
後にウォ−カ−商会を設立し、 海運業、清涼飲料水の会社を経営した。
旧リンガー住宅 (重文)
Linger house
木造、外壁石造。
角列柱のベランダを持ち、正面中央がエントランス。
中廊下左右に各室を配置する、典型的な平面計画。
シンプルな外装とベランダ軒裏が美しい。
フレデリック・リンガーは、元治元年(1864)には既に長崎に来ているが、この建物は、その後まもなく建てられたと推定されている。
リンガーが次男シドニー・アーサーとともに居住したので、リンガー(弟)邸と呼ばれた。
リンガーは初めグラバー商会に勤めたが、明治元年(1868)ホームとホーム・リンガー商会を設立し、外国貿易・商社代理店・製茶・ガス等の事業に幅広く活躍した。
居留地の英字新聞ナガサキプレスを刊行したり、捕鯨業やトロ−ル漁業、長崎市の上水道敷設なども行った。
昭和15年閉鎖までの70余年間、リンガー商会は長崎の産業経済界に大きな功績を残した。
秘密結社であるフリーメーソンの図柄を現した門柱が興味深い。
蝶々婦人のオペラ歌手、三浦環ゆかりの展示
Miura Tamaki exibition
オペラ「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」の舞台は長崎。
アメリカの作家ロングが長崎で実際に起こった外国人と長崎娘の悲恋を題材に小説とし、アメリカの雑誌に発表したところ大ヒット。それをもとにプッチーニのオペラが創られた。
旧自由亭
Jiyutei
明治11年(1878) 西洋料理店「自遊亭(のち自由亭)」として諏訪神社下に建築された。
10年ほどのちに廃業し、 その後昭和48年まで長崎地方裁判所の検事正官舎として使用されていた。
旧オルト住宅 (重文)
Alt house
英人技師の設計といわれる平面図が、大浦天主堂を建てた天草の小山家に遺っている。
高い天井、石造りの円柱、切妻屋根のポーチ、色使いが印象的で大変美しい建築。
オルトはお茶の輸出で巨利を得、自分でも製茶業を営んだ。
活水女学校が明治12年に創立され、仮校舎に使用された。
その後リンガーの長男が住んでいたので、リンガー(兄)邸と呼ばれた。
旧スチイル記念学校
Steel memorial school
明治20年(1887)米国人スチイル博士が寄贈した資金により開設された学校で、 東山手9番地に建てられた。
海星学園高校校舎にも使用され、 現在はグラバ−家関係の資料館となっている。
旧グラバー住宅(重文)
Glover house
文久3年(1863)の建築。
木造洋館としては日本最古。
大浦天主堂等を請負った天草の小山秀の施工といわれている。
英人グラバーは、安政6年(1859)上海から長崎に来てグラバー商会を設立し貿易に従事した。
当初居留地内を転々としたが、風光明媚なこの地に接客用を主とした木造洋館を建てた。
その後住まいの根拠とし、増築や模様替えがなされて明治の中頃には現在の姿となった。
平面計画は四葉のクロ−バ−の形をしている。
各部屋の独立性が高く、隠れ部屋などもあり興味深い。
庭園が美しく、部屋から長崎を一望できる。
その眺望は昼も夜も見事で筆舌に尽しがたい。
グラバーは貿易業を営むほか、高島炭鉱の開発、造船、製茶などを営んだ。
ジャパン・ブルワリ・カンパニ−の設立にも携わり 「キリンビ−ル」を発売した。
また、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文など多くの維新の志士と交流し、かくまうなどの援助を行った、明治維新の陰の功労者。
ちなみに坂本竜馬は慶応元年(1865)来崎し、日本最初の貿易商社、亀山社中を設立した。
撮影:高橋明紀代
長崎くんち展示
Hagasaki Kunchi exibition
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