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長崎県長崎市 崇福寺

Sofukuji,Nagasaki City,Nagasaki

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長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺護法堂(関帝堂又観音堂) 重文 近世以前/寺院 江戸中期 享保16(1731) 桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺 19100829

長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺三門(楼門) 重文 近世以前/寺院 江戸末期 嘉永2(1849) 桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付 19060414

長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺鐘鼓楼 重文 近世以前/寺院 江戸中期 享保13(1728) 桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺 19100829

長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺大雄宝殿 国宝 近世以前/寺院 江戸前期 正保3(1646) 桁行五間、梁間四間、二重、入母屋造、本瓦葺 19060414 19530331

長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺第一峰門 国宝 近世以前/寺院 江戸前期 寛永21(1644) 四脚門、入母屋造、本瓦葺 19060414 19530331

長崎市鍛冶屋町7-5 崇福寺媽姐門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文6(1666) 三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺 19720515


May 2,2019 柚原君子

崇福寺は1629(寛永6)年、中国・福建省福州から超然(ちょうねん)が招かれて開基された唐寺(とうでら)です。檀信徒に福建省の出身者が多いことから、別名、福州寺ともいわれ、その建築物は最古の中国様式寺院となっています。

唐寺(とうでら)は江戸時代に中国の僧により創建され、長崎に居留していた中国人や入港船の乗組員などが壇信徒となるために建てられたお寺です。当時中国は唐の時代でしたので唐寺と呼称されます。

唐寺が建てられたのには江戸幕府がキリスト教を禁止した背景があります。

織田信長の時代に保護されたキリスト教は、貿易の利益もあって広まり各地の大名も多く入信していきますが、豊臣秀吉の時代になると、増えたキリシタンによる危機感を秀吉は覚えていきます(神社仏閣との諍い、サン・フェリペ号事件によるキリスト教を使った日本の植民地化計画、そしてそれに伴う日本二十六聖人殉教という悲劇がおきています)

関ヶ原の戦いの後に政権は徳川に移り、当初はキリスト教に対してそれほどの禁教政策ではありませんでしたが、岡本大八事件などでキリスト教を無視できなくなり、禁教令を発布します。

そして、伴天連(ばてれん……ポルトガル語で聖職者の意味)ではないという身の証の為に「寺請制度」を新たに作り、日本に住む人民はどこかの寺に檀信徒として登録しなければならなくさせます。

長崎に住む華僑も同様でしたので故郷から僧を招き(なるべく高僧)寺院をたてて信徒となります。それが唐寺です。唐寺は郷里を同じくするものが集う場ともなり、長崎においては崇福寺は福建省の出身者が門信徒に多いために福州寺ともいわれています。また同じ唐寺の興福寺は南京地方出身者の建立によるもので南京寺と呼ばれています。

崇福寺は多くの国宝、重要文化財があります。

国宝

①大雄宝殿

1646年建立、桁行五間、梁間四間、二重、入母屋造、本瓦葺。当初は単層だったが延宝から天和年間に、上層が付加され現在の重層の姿になった。

「福州出身の在留唐人が中心となって、福州から僧超然を招き創立した寺。釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、大檀越(有力な財物施与者)何高材の寄進により、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立された。当初は単層屋根(たんそうやね)。35〜6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となった。下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗(おうばく)天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調とし、しかも両者は違和感なく調和している。この上層部の意匠は福済寺大雄宝殿(原爆焼失)のそれに類似する」(長崎市説明板)。

②第一峰門

彫刻がすごい。そして綺麗です。

(海天門、唐門、二の門、中門、赤門) - 1644年建立、四脚門、入母屋造、本瓦葺

「中国寧波(ニンポー)で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載舶来(ぶんさいはくらい)し再建された。軒下の構造組物(くみもの)に特徴があり、四手先三葉?(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組(つめぐみ)は他には例がなく、華南地方にも稀という。垂木(たるき)を平(ひら)に使った二軒の扇垂木(おうぎたるき)・鼻隠板(はなかくしいた)・挿肘木(さしひじき)・柱上部の籘巻(とうまき)等は寺内他の建物にも見られる。軒下軒裏には極彩色の吉祥(きっしょう)模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてある。当初はここが山門であったが、延宝元年(1673)この下段西向きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となった。別名は唐門(からもん)・海天門・中門(ちゅうもん)など。第一峰と海天の名称は扁額(へんがく)の文字による」。(長崎市説明板)

重要文化財

①,三門

1849年建立、桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付

奥に券売所が見えて絵的にちょっと不都合ですが、竜宮城の入口のような朱色のかわいい門で竜宮門とも言われています。中央の門と左右に門がついているので三門。中国趣味濃厚なデザインですが、1849年にそれまであった門が火災や風災で倒壊したので新しく建てられましたが、崇福寺内で唯一日本人の棟梁大串五郎平と日本人技術者が建てた門。

②鐘鼓楼 -

1728年建立、桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺

③護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂) -

1731年建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。中央に観音、向かって右に関帝、左に韋駄天を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿、天王殿の称がある。

④媽姐門

1666年建立、三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺

媽祖は、海上守護神で天后聖母(てんこうしょうぼ)・天妃(てんぴ)・老媽(のうま)・菩薩(ぼさ)その他の呼び名があり、華南地方で尊崇される。唐船は船毎に媽祖像を祀り、入津(にゅうしん)滞泊中は唐寺の媽祖堂に奉安したから、媽祖堂は寺内でも重要度の高い建物で、長崎の唐寺(とうでら)の草創は媽祖堂の建立にはじまるという傾向があった。

現在の建物は寛政6年(1794)唐船主からの砂糖1万斤の代銀12貫目で再建された。基壇(きだん)上の勾欄(こうらん)・前廊の黄檗(おうばく)天井・半扉(はんとびら)その他の黄檗様式と和様の細部様式とが混在している。船の媽祖像を揚げ卸す儀式のために、前庭の空間が必要である。港内から望見できる目印の旗を立てた刹竿(旗竿)石1対が、鐘鼓楼の前にある。(説明板より)

たくさんの文化財の建物ですが、思ったより敷地が狭く、全体像を撮るのに苦労をします。

崇福寺の入口の左側にお堂が。寄進崇福寺通り今篭町町内有志一同とありますが、さだまさしさんとお母さんが寄進された石柱も。崇福寺の向かい側のビルの一階にさだまさしさんと妹の玲子さんの喫茶店「自由飛行館」があります。本日はお休みでした。

                                                                                                             


Dec.9,2018 瀧山幸伸 

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Dec.23 2009 撮影:瀧山幸伸 source movie

福州出身の在留唐人が中心となって、福州から僧超然を招き創立した寺。

寺内には中国で材を切組み中国工匠が建てた中国建築が多い。

1st camera

                                                                                                                                                 

2nd camera

                                                                                                                                                                                                                                                                      


Dec.2005 撮影:瀧山幸伸  source movie

  

 

楼門(重文)

竜宮門と呼ばれる。崇福寺を象徴するふくらみのある意匠。

最も中国趣味の濃厚なこの門だが、日本人工匠の手になる。

建立年代も最も新しい。

山門が火災で滅失倒壊したあと、嘉永2年(1849)この様式で再建された。

基部は石の練り積み漆喰塗り。

これに屋根を架し、その上に入母屋の上層をのせ、勾欄をめぐらした楼門(二階建ての門)。

                            

第一峰門 (国宝)

中国寧波で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載搬入され建築された。

軒下の複雑な構造組物は他に例がなく、華南地方にも稀という。

軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗。

                                 

大雄宝殿 (国宝)

釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、中国で切組み唐船で運び生保3年(1646)建立された。

当初は単層屋根。延宝天和の頃、重層を付加し現在の姿となった。

軒回りの逆凝宝珠束が珍しい。

廊の天井は黄檗天井と呼ばれるアーチ型。

下層が中国様式であるのに対して、上層部の建築様式は和様を基調としているが、両者違和感なく調和している。

                       

媽姐(まそ)門 (重文)

媽姐堂の前にあり、大雄宝殿と書院玄関をつなぐ渡廊下を兼ねる。

文政10年(1827)再建されたもの。

媽姐は、ぼさ(菩薩)ともいい、ぼさ門とも呼ばれる。

八脚門3間3戸形式。扉の前面は黄檗天井、背面は山形天井を成す。

木割が大きく、外観は雄大。

建築様式は和様。

            

まそ堂

                       

護法堂 (重文)

韋駄天を祀る。

享保16年(1731)の建立。

柱上部の藤巻・挿肘木・扇垂木・半扉・黄檗天井などに黄檗様式があり、柱礎石の彫刻模様も中国工匠の作と思われるが、妻飾りは和様。

               

鐘鼓楼 (重文)

上階に梵鐘と太鼓を置き、鐘楼と鼓楼を兼ねる。

享保13年(1728)の建築。

懸魚や破風等の細部に和風様式が混入している。

上層は梵鐘や太鼓の音を拡散させるために丸窓・火燈窓等の開口部が多い。

   

     

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