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奈良県明日香村 石舞台古墳

Ishibutai Kofun,Asuka village,Nara

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October 30, 2021  野崎順次 source movie

奈良県高市郡明日香村島庄133

国営飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。
30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。

過去の文献に見る石舞台古墳
石舞台古墳は古くから、墳丘上部の封土を失い、石室の天井石を露出させていたようで、各種の文献にそうした意味の記述を見ることができます。
1772(明和9)年、本居宣長の「管笠日記」にもその記述があります。それに拠ると、石舞台古墳は、石舞台古墳の南に位置する都塚古墳と対として意識され、それぞれ推古・用明という各天皇の伝承を持っていたようです。
1829(文政12)年の津川長道の「卯花日記」では、蘇我馬子の墓ではないかという考察が加わっています。
1848(嘉永元)年の暁鐘成の「西国三十三所名所図会」の中ではイラストとともに、高さおよそ2間(約3.6m)、周囲およそ10間(約18m)で、天武天皇を仮に葬り奉った場所と伝えられている、という意味のことが記されています。
(国営飛鳥歴史公園ウェブサイトより)

パンフレットと現地説明板
    


東側の高台、上居から下ってくると、次第に露出石室が見えてくる。
         


北側の入場口付近から下方形墳(一辺51m)と貼り石を見る。外堤を含めると一辺約80mに及ぶ。
    


石室上部を周囲から見る。
             


正面から石室内部へ。羨道は長さ約11m・幅約2.5m、玄室は長さ約7.7m・幅約3.4m・高さ約4.8mである。
                         


南-南西から見る。
   


復元石棺
     

西-北西から見る。
  


東の高台を見上げると、上宮寺の墓地が見る。2時間前にはそこからの眺望を楽しんでいた。
   


帰途、隣の階段状芝生広場では演奏、橘寺は大規模工事中、コムラサキの花
              


飛鳥駅にて
          

近鉄石切駅付近からの大阪の摩天楼
    


Aug.25,2016 瀧山幸伸 source movie

                 


Mar.25,2015 川村由幸

                                                 


July 2012 瀧山幸伸 source movie

       

                                       


Dec.2011 野崎順次 

撮影日: 1977年8月と10月(2011年にネガフィルムをデジタル化)34年前に謎の石像物に胸躍らせて明日香村を歩き回った。

         


Mar.2010 撮影:高橋久美子

                                               


Dec.2009 撮影/文:野崎順次

奈良県高市郡明日香村島庄

国特別史跡 石舞台古墳

(Ishibutai Burial Mound, Asuka, Nara)

撮影日: 2009年12月6日

石舞台古墳は、古くから吉野詣で、飛鳥路の道すじにあった得体のしれない巨石を用いた岩室であったので、飛鳥を経て吉野や多武峰に詣でる人びとの記録によく出てくる。

古墳は一辺50メートルの方墳で、その外側に幅約8.4メートルの濠がある。

濠と墳丘の斜面には、30〜80センチほどの花崗岩が貼りつけられている。この石は現在も見られる。もちろん一部は復元である。

この基壇ふうの墳丘の対角線の交点に石室奥壁を置き、石室は南に開口する。墳丘上部が円形であったのか、方形であったのかは決め手がないが、筆者は方墳と考えている。

石室は、よく知られているように巨石を積み上げている。玄室の規模は長さが7.5メートル、幅3.4メートル、高さ7.73メートルである。

この長さ・幅・高さの数値は巨石古墳の代表例といえよう。最大の石材は推定72トンもある。

石舞台古墳の築造年代は、石室が完全な両袖型石室で巨石墳であること、側壁は石材を三段積み、奥壁は二段積みにしていること、出土遺物のしめす年代が七世紀前半のものであること、方墳であることなどから、七世紀前半中ごろ以前に編年できる。

やや古い要素が多い。

筆者は、この巨大な墓を馬子墓とみることが、飛鳥の地域や墓制の変遷などからみて妥当とおもっている。

(「日本の古代遺跡 7奈良飛鳥」菅谷文則、平成6年、保育社)

                                                               


Mar.2006 撮影:瀧山幸伸 source movie

     

                   

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