奈良県明日香村 向原寺
(Kogenji,Asuka Village,Nara Pref.)
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豊浦寺跡、豊浦宮跡、難波の堀江伝承地 |
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飛鳥観音頭部 |
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発掘現場一部保存公開 |
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October 23, 2016 野崎順次 source movie
奈良県明日香村豊浦
太子山 向原寺
『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552年)10月、百済の聖明王より献上された仏像を、蘇我稲目は、小墾田(おはりだ)の向原(むくはら)の家を浄めて祀った。この向原の家が日本仏教伝来根元最初の寺。しかし当時、国内で疫病が流行し、物部尾輿はその原因が仏教を受け入れたせいだと批判。向原の寺を焼き、仏像を難波の堀江に投げ込んだ。
現在、甘樫丘近くに建つ向原寺(こうげんじ)は、蘇我稲目の「向原の寺(家)」とされ、後に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)を造営。10年後、小墾田宮へ移った際、蘇我馬子に授与された。馬子は法興寺の妹寺、本格的な寺院の2番目として豊浦寺(とゆらでら)を建立。日本最古の尼寺であり、百済仏教伝来の寺、元善光寺である。
近年の発掘調査により、向原寺境内地及び周辺地から、豊浦寺創建当時の講堂跡、金堂跡、塔跡等が見つかり、さらに豊浦寺遺構の下層からは推古天皇豊浦宮跡かと目される遺構が確認された。
(歩く奈良ウェブサイト「仏教伝来による、波紋と対立」より)
パンフレットと現地説明版
お寺の正面、本堂、薬師堂など
境内の奇石など
本堂安置の金銅観音菩薩立像、江戸中期にお寺の横の難波池(伝難波の堀江)で頭部が見つかった。飛鳥時代の観音菩薩像と云われる。体部、光背、台座が江戸時代に補われて寺宝として大事にされていたが、昭和49年に盗難にあって行方不明となった。36年後、オークションに出品されたので、買い取り、お寺に戻ってきた。
豊浦寺の講堂跡版築基壇の下に豊浦宮の敷石と掘立柱抜き取り跡が見つかっており、一部が公開されている。
豊浦宮遺構の横に文様石がある。雲形もしくは山水画像石と呼ばれる文様のある石造物である。いくつか組合わせて須弥山をつくったと考えられている。
豊浦寺(とよらじ)講堂礎石
物部尾輿が「向原の寺(家)」を焼き払った際、仏像を「難波(なにわ)の堀江」に投げ込んだ。しかし、その後も疫病は続き、仏像は再度「難波の堀江」に投げ込まれる。現在の向原寺の寺域内には、これにちなんだ「難波池」があり、思わず池の底を覗き込んでみたくなる。
「難波の堀江」の名は、長野県の善光寺の創建にも登場する。『善光寺縁起』によると、信濃の住人・本多善光が都へ上都の際に「難波の堀江」の前を通りかかると、物部氏に投げ込まれて池に沈んでいた仏像が金色の姿を現し、「善光こそが聖明王の生まれ変わりである」と告げる。善光はこの仏像を背負って信濃に帰り、自宅の西の間の臼の上に置いて手厚く祀ったといい、それが善光寺の始まりとされている。
(歩く奈良ウェブサイト「仏教伝来による、波紋と対立」より)
甘樫坐神社と豊浦の立石
境内に一際目立つ大きな石が立っている。この石の前で毎年4月に盟神探湯(くがたち)という神事が行われる。盟神探湯は古代の裁判と考えられており,煮えたぎる湯の入った釜の中に手を入れて,火傷をするしないで罪のあるなしを決めたらしい。
甘樫丘の麓を流れる飛鳥川
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