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奈良県五條市 堀家住宅

Horike,Gojo city,Nara

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五條市西吉野町和田48 堀家住宅(奈良県吉野郡西吉野村) 重文 近世以前/民家 室町後期 室町後期 桁行17.6m、梁間13.8m、入母屋造、茅葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺 古図1枚 19790521


March 12,2023 大野木康夫 source movie

平成31(2019)年4月にリノベーションしてHOTEL & Cafe Restaurant KANAU 賀名生旧皇居として営業しています。

川側にテラス席が設けられていました。
           


表門(奈良県指定有形文化財)
大正13(1924)年の建築
冠木門、藁葺
                    


主屋(重要文化財)
室町後期の建築
桁行17.6m、梁間13.8m、入母屋造、茅葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺
                       


March 12, 2016  野崎順次 source movie

奈良県五條市西吉野町和田48

延元元年(1336年)の年の暮れ、足利尊氏によって京の都を追われた後醍醐天皇は、吉野へと向かう途中に西吉野に立ち寄られました。天皇を手厚くもてなした郷士「堀孫太郎信増」の邸宅はその後、後村上、長慶、後亀山天皇の皇居として南朝の歴史を刻んできました。

藁葺屋根の素朴な屋敷の前に建つ重厚な冠木門には、倒幕の志士天誅組吉村寅太郎の筆による「賀名生皇居」の扁額が掲げられています。

(中略)

賀名生の地名縁起

南朝こそ正統でありたいと願う後村上天皇は、かつては「穴生(あなふ)」と呼ばれていたこの地に夢実現の願いを込めて「叶名生(かなふ)」と名付けました。その後、正平6年(1351年)には足利氏が南朝に帰順し、また多くの公卿や殿上からの賛同を得た事より、願いが叶ったという喜びを記して、再度この地の名前を名付け改める勅書を下されました。 それが、「賀名生(あのう)」縁起です。

(五條市ウェブサイトより)

堀家住宅は年に1度の公開日、手づくり品の交流市が開催されていた。

冠木門あたり

        

国重文 堀家住宅 室町後期

桁行17.6m、梁間13.8m、入母屋造、茅葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺

紀ノ川の支流黒滝川の近くにあり、かつて南朝の行在所になったと伝える旧家である。平面は整形六間取で、元来は内部の部屋境まで柱を一間ごとに立て、柱間寸法は広くて内法高が低いなど、室町時代に遡る古風な特色をもつ。日本でも最古に属する民家として貴重である。

(国指定文化財等データベースより)

              

内部

                

土間とダイドコロ

             


Feb.24,2016 瀧山幸伸

Edited Movie Download YouTube

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資料館

    

堀家

                   

北畠親房の墓へ

                           

対岸から

                        


March 23,2014 大野木康夫 source movie

所在地 奈良県五條市西吉野町和田48

賀名生の観梅の季節、梅林入口にある堀家住宅を撮影しました。

今年は梅の開花が遅く、定期公開期間(2月下旬から3月上旬)を外れたので、外からの撮影です。

紀ノ川の支流黒滝川の近くにあり、かつて南朝の行在所になったと伝える旧家である。

平面は整形六間取で、元来は内部の部屋境まで柱を一間ごとに立て、柱間寸法は広くて内法高が低いなど、室町時代に遡る古風な特色をもつ。

日本でも最古に属する民家として貴重である。

(国指定文化財等データベースより)

国道からの撮影

       

丹生川にかかる橋からの撮影

                  

国鉄五新線として作られたバス専用路

   


Feb. 2012 酒井英樹

堀 家住宅

 撮影:2007年8月

 堀家は紀の川(奈良県内は吉野川)の支流の黒滝川沿いの賀名生(あのう)集落に位置する。

 持明院統(北朝光明帝)に追われた大覚寺統(南朝)の後醍醐帝が京都をのがれたのち、賀名生に滞在し吉野山に逃れた。

 その後、北朝方に吉野行宮を奪われた後村上帝が賀名生を皇居とした。また、南朝最後の後亀山帝も南北朝統一までの9年間賀名生を皇居とした。

 この皇居の一部を堀家が提供したことから、別名賀名生御所とも称している。

 古くから後醍醐帝から賜ったとされる最古の日の丸を所有していたが、近年盗難にあって失っている。

<主屋>

 言い伝えによると南北朝時代(14世紀)には存在したとされるが、建築様式などから室町時代後期の16世紀の建造と考えられる。

 建造後の変革は明らかではなく、明治6年(1877)に柱の新設・撤去が大幅に行われた大改修が行われている。

 建物は入母屋造茅葺の大型農家で背面及び西面に桟瓦葺の庇が付く、また平面は整形6間取である。

 ほぼ同時代に建造された箱木家住宅主屋(兵庫県神戸市)や古井家住宅(兵庫県姫路市)の前広間(座敷型)3間取民家に比べ大型であり、建造後に大きく改変された可能性が高い。

 一方、小屋組の手法は極めて古風であり、全国でも最古の部類に属する民家として貴重である。

 正面17.6m、側面13.8m、入母屋造、茅葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺

 現状は明治改造時の形式、当初は2階建、板葺または杉皮葺と思われる。

 室町時代後期

  

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