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奈良県橿原市 今井

(Imaicho, Kashihara City, Nara)

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寺内町 400年の歴史を今に伝える街並
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橿原市今井町1-10-13 音村家住宅(奈良県橿原市今井町) 重文 近世以前/民家 江戸中期 "江戸中期(居室部)江戸後期(座敷部)" "居室部 桁行11.7m、梁間10.7m、一部二階、切妻造、南面庇付、本瓦葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺座敷部 桁行12.5m、梁間6.8m、入母屋造、東面庇付、本瓦葺、南面及び北面庇付、桟瓦葺、風呂場及び便所附属" 19720515

橿原市今井町1-7-8 河合家住宅(奈良県橿原市今井町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 桁行13.1m、梁間13.5m、二階建、東面入母屋造、西側切妻造、東面及び南面庇付、本瓦葺、西面及び北面下屋付、桟瓦葺 塀1棟 19760520

橿原市今井町1-7-8 河合家住宅(奈良県橿原市今井町) 納屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 桁行8.7m、梁間2.1m、二階建、切妻造、本瓦葺 19760520

橿原市今井町1-10-11 旧米谷家住宅(奈良県橿原市今井町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 桁行11.9m、梁間10.9m、切妻造、南面庇付、東面下屋附属、本瓦葺 19720515

橿原市今井町1-10-11 旧米谷家住宅(奈良県橿原市今井町) 土蔵及び蔵前屋敷 重文 近世以前/民家 江戸末期 嘉永3(1850) "土蔵 土蔵造、桁行5.7m、梁間3.9m、二階建、切妻造、本瓦葺蔵前座敷 桁行3.0m、梁間4.2m、東面切妻造、西面土蔵に接続、南面及び東面庇付、桟瓦葺" 19720515

橿原市今井町1-6-9 高木家住宅(奈良県橿原市今井町) 重文 近世以前/民家 江戸後期 "文政-嘉永7(1818-1855)" 桁行11.4m、梁間12.8m、二階建、切妻造段違、南面及び北面庇付、北面隅便所等附属、本瓦及び桟瓦葺 塀1棟 19720515

橿原市今井町3 称念寺本堂 重文 近世以前/寺院 江戸前期 17世紀初 桁行19.9m、梁間21.4m、一重、入母屋造、正面向拝一間、本瓦葺 20020523

橿原市今井町3-1-15 中橋家住宅(奈良県橿原市今井町) 重文 近世以前/民家 江戸後期 江戸後期 桁行10.5m、梁間10.7m、一部二階、切妻造、南面庇付、本瓦葺 19720515

橿原市今井町3-8-12 豊田家住宅(奈良県橿原市今井町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸中期 寛文2(1662) 桁行12.0m、梁間11.7m、一部二階、入母屋造、南面及び北面庇付、本瓦葺、西面下屋附属、桟瓦葺 塀2棟、板札1枚 19720515

橿原市今井町3-8-12 豊田家住宅(奈良県橿原市今井町) 納屋 重文 近世以前/民家 江戸中期 江戸中期 桁行7.7m、梁間2.6m、二階建、北面切妻造、南面主屋に接続 19720515

橿原市今井町3-9-25 今西家住宅(奈良県橿原市今井町) 重文 近世以前/民家 江戸前期 慶安3(1650) 桁行15.9m、梁間13.8m、一部二階、入母屋造、北面及び南面庇付、本瓦葺 棟札1枚 19570618

橿原市今井町4-4-25 上田家住宅(奈良県橿原市今井町) 重文 近世以前/民家 江戸中期 延享元(1744) 桁行12.8m、梁間11.8m、一部二階、入母屋造、西面庇、本瓦葺、東面及南面庇付、本瓦葺 塀2棟 19720515

 


March 12,2016 大野木康夫 source movie

橿原市今井町重要伝統的建造物群保存地区

橿原市今井町は奈良県北部に位置し、室町時代の敷地割を伝える寺内町として全国的に著名。

かつて、環濠に囲まれた約17ヘクタールの保存地区に建つ家屋の過半数が伝統的建造物であり、長く連なる軒先が統一観をかもし出している。

(国指定文化財等データベースより)

東西600メートル南北310メートル約17.4ヘクタールに、伝統的建造物が約6割残り、我が国でも有数の歴史的市街地を形成しています。

中世末期に一向宗の寺内町(じないちょう)として成立し、江戸時代は商業都市として発展しました。

現在歴史的な町並みを生かしたまちづくりがおこなわれています。

(橿原市HPより)

     

南尊坊通りから中尊坊通り

             

河合家住宅2棟(重要文化財)

所在地 今井町1-7-8

家号を「上品寺屋」といい、古くから酒造業を営む町家。

角地にあり、主屋は建ちの高い本瓦葺の二階建。一階に太い格子を入れ、二階は塗籠とした正面側の意匠がよい。

六間取平面をもつが、座敷を二階に配した点が特徴。

(国指定文化財等データベースより))

 

主屋

江戸後期の建築

桁行13.1m、梁間13.5m、二階建、東面入母屋造、西側切妻造、東面及び南面庇付、本瓦葺、西面及び北面下屋付、桟瓦葺

                                                         

納屋

江戸後期の建築

桁行8.7m、梁間2.1m、二階建、切妻造、本瓦葺

                 

中尊坊通り

    

高木家住宅1棟(重要文化財)

所在地 今井町1-6-9

旧米谷家と同じ頃建てられた家であるが、こちらは二階が発達し、座敷のつくりなどは最上層の町屋らしい。

細い表側格子など、幕末の特色もうかがわれる。

貭、保存もよい。

(国指定文化財等データベースより)

江戸末期の建築

桁行11.4m、梁間12.8m、二階建、切妻造段違、南面及び北面庇付、北面隅便所等附属、本瓦及び桟瓦葺

                         

中町筋へ

              

旧米谷家住宅2棟(重要文化財)

所在地 今井町1-10-11

この住宅はもと米谷家所有であったが昭和三十一年国有になった。

今井町の上層町屋としては簡素な作りである。

角座敷を後に作っている。

この付近の町並は江戸時代のおもかげを残している。

(国指定文化財等データベースより)

 

主屋

江戸中期の建築

桁行11.9m、梁間10.9m、切妻造、南面庇付、東面下屋附属、本瓦葺

                                                

中庭

   

土蔵及び蔵前座敷

嘉永3(1850)年の建築

土蔵 土蔵造、桁行5.7m、梁間3.9m、二階建、切妻造、本瓦葺

蔵前座敷 桁行3.0m、梁間4.2m、東面切妻造、西面土蔵に接続、南面及び東面庇付、桟瓦葺

                           

音村家住宅へ

 

音村家住宅1棟(重要文化財)

所在地 今井町1-10-13

江戸時代金物問屋を営んでいた家。

建てられた当初は六間取であるが、後に角座敷を突出して増築し、さらに幕末に離座敷を作っている。

この家は今井町の中でかなり古く、外観や室内の間仕切も古い形式によっているが一方部屋割などに新しい傾向もみられ、今井町民家が発展を始める時期に建てられた家として重要である。

(国指定文化財等データベースより)

 

居室部は江戸中期、座敷部は江戸後期の建築

居室部 桁行11.7m、梁間10.7m、一部二階、切妻造、南面庇付、本瓦葺、北面及び西面庇付、桟瓦葺

座敷部 桁行12.5m、梁間6.8m、入母屋造、東面庇付、本瓦葺、南面及び北面庇付、桟瓦葺、風呂場及び便所附属

                                     

大工町筋へ

       

上田家住宅1棟(重要文化財)

所在地 今井町4-4-25

上田家は今井町を治めた総年寄の一である。

建物は二方が道に面し、立ちが低く入母屋造の屋根と大壁造の壁面は重厚な印象を与える。

建物には新旧の手法が混り、過渡期の町屋としても価値が認められる。

(国指定文化財等データベースより)

 

延享元(1744)年の建築

桁行12.8m、梁間11.8m、一部二階、入母屋造、西面庇、本瓦葺、東面及び南面庇付、本瓦葺

                                                         

北尊坊通りへ

     

順明寺表門(橿原市指定文化財)

寛永15(1638)年の建築

桁行3.147m、梁間2.130m、一間薬医門、切妻造、本瓦葺

   

北尊坊通り

  

旧上田家住宅(丸田家住宅)(奈良県指定文化財)

文化2(1805)年の建築

桁行10.87m、梁間11.64m、一部2階、東面入母屋造、西面切妻造、北面および東面庇本瓦葺、南西方張出し切妻造、南面庇桟瓦葺、炊事場付属

            

山尾家住宅(奈良県指定文化財)

18世紀後期の建築

桁行10.98m、梁間12.13m、切妻造、南面庇付本瓦葺、北面桟瓦葺

           

御堂筋へ

             

中橋家住宅1棟(重要文化財)

所在地 今井町3-1-15

中橋家は幕末に栄えた米屋である。

平面はやはり六間取であるが最初は書院座敷がなかったらしい。

今井町の要である称念寺の斜前の角地にあって真白な大壁をみせた切妻造の外観はユニークである。

(国指定文化財等データベースより)

 

江戸後期の建築

桁行10.5m、梁間10.7m、一部二階、切妻造、南面庇付、本瓦葺

                                     

称念寺

称念寺は中世末の大和で,寺内町として成立した今井町の中核となった浄土真宗寺院で,寺内町の形成,発展を支える町政全般の拠点であった。

本堂は,桁行約19.9m,梁間約21.4mで,入母屋造,本瓦葺である。正面向拝付で,内部は外陣,内陣,左右の余間などからなる。

各所の手法や細部の様式から判断して,江戸時代初頭の建立と考えられる。

称念寺本堂は,建立年代が江戸時代初頭に遡る数少ない浄土真宗本堂で,真宗本堂の発展過程を知る上で欠くことのできない貴重な遺構である。

寺内町今井の成立・発展の拠点となった寺院の中心施設であり,重要伝統的建造物群保存地区の核の一つとなる遺構として重要である。

(国指定文化財等データベースより)

    

庫裡、客殿、対面所(橿原市指定文化財)

庫裡及び客殿は17世紀、対面所は元禄8(1695)年の建築

庫裡 桁行22.30m、梁間11.97m、一重東端切妻造、南、北面庇付、西端客殿に接続入母屋造、および棟違い切妻造、本瓦葺

客殿 桁行20.86m、梁間6.99m、一重東端庫裡に接続、切妻造、南、北面庇付、西端矩折に書院付属、南端入母屋造、三方庇付、本瓦葺

対面所 桁行5.9m、梁間9.1m、一重南端入母屋造、北端本堂に接続、本瓦葺

     

太鼓楼(橿原市指定文化財)

18世紀中期の建築

桁行4.94m、梁間4.94m、二重入母屋造、本瓦葺

 

本堂(重要文化財)は解体修理中

 

豊田家住宅へ

       

豊田家住宅2棟(重要文化財)

所在地 今井町3-8-12

この家は江戸時代牧村家が住み同家の屋号「西木屋」の木の字が二階の壁面に浮き出している。

今井町の町屋の中では相当に古く、帳台構など珍らしい形式を残している。

間取、梁組も整然とし 六間取型町屋の祖型といえよう。

建物は角地にあって格子の木割は太く入母屋造のどっしりした屋根をみせる。

(国指定文化財等データベースより)

 

主屋

寛文2(1662)年の建築

桁行12.0m、梁間11.7m、一部二階、入母屋造、南面及び北面庇付、本瓦葺、西面下屋附属、桟瓦葺

                                                          

納屋

江戸中期の建築

桁行7.7m、梁間2.6m、二階建、北面切妻造、南面主屋に接続

        

本町筋から今西家住宅へ

       

今西家住宅1棟(重要文化財)

所在地 今井町3-9-25

今井町は天文のころ眞宗の門従を中心として結成された町で、今西家はその総年寄を勤めていた家である。

今の住宅は慶安三年の建立になり、後世の改造も少く、よくその装置を残しており、民家としては江戸初期建立の確証あるものとしてきわめて稀な遺構であり、文化史上貴重な存在である。

(国指定文化財等データベースより)

 

慶安3(1650)年の建築

桁行15.9m、梁間13.8m、一部二階、入母屋造、北面及び南面庇付、本瓦葺

                                                         

今西家住宅周辺

    

帰路

     

旧高市郡教育博物館(奈良県指定文化財)

明治36(1903)年の建築

木造、一部2階建、桟瓦葺

     


Apr.2014 瀧山幸伸

解説

寺内町と環濠集落 奈良県橿原市今井町

三国志や戦国時代物などの戦記が好きな人には、火責め、水責め、兵糧攻めなどの戦略と攻防は興味深い。ヴェネツィアやモンサンミシェルは水に守られたことで有名だが、島国日本も水に守られてきた。

水に守られて今日まで残った今井は、奈良県橿原市に位置する、東西六百メートル、南北三百メートル、760軒ほどのミニ都市である。周囲を濠で囲まれた環濠集落で、戦国時代は浄土真宗の信徒が自治自衛を行う寺内町と呼ばれる宗教都市だった。信長に陥落した後は「海の堺・陸の今井」と称される産業都市に変貌したが、環濠は引き続き町ぐるみの財産防衛に役立った。江戸時代の今井は商業金融都市として大いに賑わった。

寺内町創生当時の町割りが非常に良く保存されており、今でもその六割が江戸時代の建築で、九件もの建物が国の重要文化財に指定されているとともに、町全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。多くの古い街並で生活の匂いが消えていく中、ここでは日々の営みが続いており、その意味でもヴェネツィアや西欧の中世都市に似ている。

寺内町の成立と発展

今井庄はかつて奈良興福寺の荘園であったが、室町期には僧兵の本拠地となっていた興福寺や国人領主と頻繁に争っている。その後興福寺と対峙する浄土真宗の道場が作られた。天文年間(1532〜55)に、近江浅井氏の家臣であった河瀬兵部が得度し、石山本願寺(後の大阪城)の顕如から寺号を得て今井山称念寺を開くとともに在郷農民を門徒とし各地から商人や浪人を集めて周囲に防御目的の環濠を廻らす寺内町を造ったと伝わる。黒澤明の作品のような人々が集まったのだろう。この時の町割りが今日の今井の基礎となっている。

今井は天正3年(1575)本願寺を討った織田信長に降伏する。その条件とは土居構を崩し土民に復帰し武装しないということだった。その後今井は経済活動が中心の産業都市となるが、環濠は存続した。秀吉政権下では手厚く庇護され、河瀬兵部は今井兵部に改め武士と僧侶の身分を持った。堺と姉妹関係にあり自治の気風も強かったため、徳川幕府も今井兵部を今井の支配者に任命し、事実上寺内町を存続させた。ようやく延宝7年(1679)今井兵部は武士の身分を返上させられて僧侶となった。それに伴い今井は天領となり代官が置かれた。

江戸時代を通じて今井は特殊な都市だった。政治面では、幕府は今井の規模と商業活動の特殊性を認め、一般村落とは違う支配体制を敷いた。町代の上に町年寄を各町毎に設け、総括する役として惣年寄を置き、行政、警察、司法事務を行わせた。町掟が定められ、残された環濠・土居・門により「商人親類の外は従来の旅人は一夜の宿を貸さず要塞堅固の地」と表現されるほど自治自衛を徹底させていた。

経済面では、今井の商人は広く活動を認められ、この地方特産品、特に大和木綿の集散加工、いわゆる江戸への下り物や醸造など、江戸時代を通して大いに繁栄した。大名相手に金融を行う商人、江戸と直接交易する商人も現れ、今井札という独自通貨を発行するなど、経済金融システムにおいても発展した。当時の今井は石高相当に対して十割の年貢を課せられた上に付加税を徴収され、それを銀で納めなければならなかったが、 「大和の金は今井に七分」と言われるほどに繁栄していた。

文化面では、強い経済と各地との交流に裏打ちされ、多くの文化人がこの街に移り住んだ。祭りはだんじり、文化活動として茶の湯、華道、能、琴、書、和歌などが盛んだった。

江戸時代の街並そのまま

街並を詳しく見てみよう。当初は宗教色と武力色が強く、後に経済と文化が強くなり、それらの結晶が今日の今井の街並として残っている。今井は江戸初期に戸数千百軒、人口四千数百人を擁する財力豊かな町であった。 町割は六町に分かれ、九つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しの利くものはなく、敵の侵入に備えて見通しや弓矢鉄砲の射通しを不可能にしたものである。当初は防衛目的であったが、商業都市に変わり富裕な商人の生命や財産を外部から守る目的に変貌した。

街並は切妻、平入り、本瓦葺を基本とし、軒線が揃っている。国の重要文化財に指定されている住宅を中心に街並を歩こう。

今西家は代々惣年寄筆頭を務め、町方を支配していた。旧姓は川井氏で、元和7年(1621)大和郡山城主松平忠明から大坂夏の陣の功績を称えられ、今井町の西口にあることから今西姓を名乗るように薦められた。慶安3年(1650)建築の建物は城郭を思わせる八つ棟造りと呼ばれる複雑な入母屋構造で、内部には白洲があり、牢も持っていた。外壁には家紋の井桁に川の字と旗印の三段菱を掲げる。

高木家は屋号を「大東の四条屋」といい、酒造業を営んでいた。切妻造本瓦茸平入二階建で、前面の格子は木割が細い。保存が良く、幕末期の二階が発達した今井町上層民家の好例である。

豊田家は屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元は材木商と金融業を営む牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。福井藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていたほどの豪商であったが、明治維新により貸し倒れが発生し、今井町を離れざるを得なかった。寛文2年(1662)の建築で、今西家に次いで古い。欅の大黒柱、太い松を使った天井などに当時の繁栄がしのばれる。

河合家は屋号を「上品寺屋」といい惣年寄の家柄である。家蔵文書によると、明和9年(1772)には既に酒造業を営んでいたらしい。古くから有価証券としての酒商品券、今日の地域通貨に相当するものを発行していた。18世紀後期の建築で、建物には太い格子を入れ、二階は塗籠となっている。屋根の東側は入母屋造、西側は切妻造本瓦茸で、外部意匠に見るべきものがあり、内部は座敷を二階に配した点に特色がある。河合家のお嬢さんが説明してくださる。土間にはおばあさんが嫁入りに使ったという駕籠が鎮座し、玄関の馬つなぎ環なども興味深い。解説を聞きながら自家製の奈良漬をつまみに試飲も楽しい。

中橋家は屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいた。建築年はわからないものの、寛延元年(1748)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。宝暦11年(1761)には南町組頭を務めていた。

上田家は屋号を「壺屋」といい、江戸初期は醸造業を営み、寛永16年(1639)より惣年寄めていた。延享元年(1744)の祈祷札があり、この頃の建築とみられる。入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与える。

音村家は屋号を「細九」といい、かつては金物問屋を営んでいた。17世紀後半頃の建築と推定される。

米谷家は屋号を「米忠」といい、金物商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で18世紀中頃の建築と推定される。また嘉永2年(1849)には内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。

山尾家(県文化財)は十市郡新堂村より移住したので「新堂屋」の屋号で、両替商を営んでいた。「今井しんどやは大金持ちや、金の虫干し玄関までも」と言われるほど栄え、幕末には町年寄を務めた。

今井の人々

この街を歩くと、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚える。今井の街並には商業看板や幟や自動販売機はほとんど無い。コンビニも無い、狭い街路を疾走する車も無い。格子と漆喰、虫籠窓など、建物の軒高や仕上げ材の建築様式が揃い、均整のとれた街並景観を呈している。道路舗装も考慮されている。それらがこの町を時空を超越した存在にしている理由の一つだ。今井町づくりセンターは称念寺前の長屋店舗で、店舗デザインと商品は街並に良く調和している。町並み保存会の活動拠点であり、街あるきの休憩ポイントにもなっている。

ボランティアも親切丁寧だ。この街を守る住民の美意識がそうさせるのであろうか。訪問者も街並と住民に呼応するように品が良い。原色の派手な服装は見られず、街並に似合う渋いファッションが多い。路地の幅と家の高さ、そして通行人の大きさや服装がぴたりと調和し、各自の文化的興味に応じてゆっくり歩いて無料のテーマパークを楽しんでいるように見える。足早に通り過ぎるにはもったいない。最低でも一泊二日で少人数で訪れてみたい。

環濠を造った人々のドラマ

環濠について少し掘り下げてみよう。環濠の起源は明らかではなく、防御の目的とする説、灌漑排水施設として既にあったとする説などがあるが、環濠や堀を、それを持つ主体で整理すると理解しやすい。筆者は産業(農商工)型、政治(城塞・館)型、宗教(寺社・寺内町)型に大きく分類したい。

今井は農村型から始まり、寺内町型、商業型へと変貌した環濠集落である。今井の名のとおりかつて飛鳥川が氾濫していた湿地に新しく農村ができて井戸には清水が涌く。そのような土地だから環濠を造るには好適だが、その後も洪水には悩まされた。

産業型は、弥生時代の吉野ケ里遺跡などに見られるように、主に農村の防衛目的で作られた。近畿では奈良盆地に多いが、水が少ない奈良盆地では、非常時は防衛、平和時には農業用の灌漑や洪水調整に使われていたと考えられる。稗田阿礼ゆかりの大和郡山市の稗田が弥生時代に遡る環濠集落と言われ、環濠と街並とが美しく調和している。また今井の北に位置する田原本町の唐古・鍵遺跡は、農村であるとともに土器や銅鐸などを製造していた商工業都市の性格も持っていたようだ。大和郡山の番条や天理の竹之内などにも農村型の美しい環濠が残っている。一方、堺や江戸期の今井の環濠は商工業型である。

政治型の環濠といえば中世の城を連想するが、起源はもっと古く、古代山城に遡る。弥生時代から少し時代が下って、神籠石が出現する。西日本、特に九州北部に集中する列石遺跡だが、日本書紀などの歴史書に記載が無く、長く古代山城説と霊域説で論争があったが、佐賀県武雄市のおつぼ山神籠石の発掘調査の結果古代山城説に落ち着いた。古代山城には水門があり、敵が攻めてきた場合、水門を一気に落として水を流したのではなかろうか。桃太郎伝説にも関係する岡山総社の鬼城山や高杉晋作の第二奇兵隊の本拠地となった山口県光市の岩城山も古代山城で、水門を持つ。大宰府周辺の基肄城や阿志岐山城も水門を持ち、基肄城と大野城を結ぶ防衛線上の水城はそれ自体が要塞と呼べるものである。古代山城は朝鮮式山城とも呼ばれる。阿志岐山城は渡来人の阿志岐氏と関係がありそうにも思え、古代朝鮮の築城技術がこれらに導入されたことは推定されるが確証は無い。

武士に権力が集中する中世になると、山城ではなく平野部に領民支配の拠点となる居館を構え、それを防護する目的の館型環濠が造営されるようになる。東京では白金の自然教育園などにその遺構が残っている。中近世の城あるいは城下町の堀や濠は今更述べるまでもなく政治型環濠の代表である。

宗教型の環濠は、古くは縄文の遺跡や古墳の外周に見られ、世俗と霊域とを分ける結界の目的で造られた。寺社の環濠も結界目的である。中世になると、寺院群や信徒が一体となり、宗教都市の周囲を守る目的と世俗との結界とする目的の寺内町型の環濠が造られた。今井や大阪府富田林市の寺内町成立期がこれに該当する。宗教都市や修道院は、世界的に見ると環濠ではなく壁や断崖に守られたものが多いが、日本ではアニミズムの影響からか激しい迫害は信長以外には少なかったので、そこまでの防御は必要なかったのだろう。

一見何の変哲もない環濠だが、それにまつわる人々のドラマを追憶すれば奥が深い。


March 16, 2014 野崎順次 source movie

奈良県橿原市 今井町

(Imaicho, Kashihara City, Nara Pref.)

今年の2月に来た時は今西家の内部に入らなかったので、今回はそれを中心に、高木家、紙半豊田家、山尾家の一部を含めた。

国重文 高木家住宅

高木家は、屋号を「大東の四条屋」といい、酒造業を営んでいた。この建物は、切妻造本瓦茸平入2階建で、前面の格子は木割が細く、吹寄せのところもあり、幕末の家らしい質、保存が良く、幕末期の2階の発達した今井町上層民家の好例である。

          

お昼ごはんは高木家斜め向かいの今井十返舎で漬物どんぶりと豆腐どんぶり。

   

中尊坊通から御堂筋を西へ

             

紙半記念館(撮影禁止)と紙半豊田家住宅

    

国重文 今西家住宅

旧姓は川合氏で代々惣年寄筆頭を務めた。1621年(元和7年)5月、郡山城主松平下総守忠明から大坂夏の陣の功績を称えられ、今井町の西口にあることから今西姓を名乗るように薦められた。幕府から自治権を委ねられて領主・代官の町方支配の一翼を担っていた。内部には、お白洲があり裁判が行われ、罪人を閉じこめた部屋(いぶし牢)も残っている。民家というより城郭を思わせる構造で、「八つ棟造り」と呼ばれる。1650年(慶安3年)に建て直し棟札も残っている。

現地説明板とパンフレット

     

建物外部

                       

建物内部(どま)

                       

それから

    

県文 山尾家住宅

山尾家は、十市郡新堂村より移住したので「新堂屋」の屋号で、両替商を営んでいた。「今井しんどやは大金持ちや 金の虫干し玄関までも」と言われるほど栄え、幕末には、町年寄を務めた。1877年(明治10年)明治天皇大和行幸の際、木戸孝允・三條実美の宿泊所にあてられた。

          

参考資料

各家の説明は今井町パンフレットから引用した


February 16, 2014 野崎順次 source movie

パンフレットなど

             

今井蘇武橋公園

              

南へ、雪が残っている。

       

県文 旧高市郡教育博物館 明治36年(1900)

今井まちなみセンター「華甍(はないらか)」として再生した。

                   

中尊坊通りを行く。

     

国重文 高木家

                            

国重文 河合家

         

中尊坊通りから御堂筋へ

                    

国重文 中橋家

        

それから

   

国重文 豊田家

           

御堂筋を西へ進み、一つ北の本町筋をさらに西へ

     

国重文 今西家

            

本町筋を東に戻り、さらに北の中町筋を東へ

            

国重文 上田家

            

傾いた板張りの家

      

国重文 音村家

         

国重文 旧米谷家

                                 

ここらは中町筋の町並みがよい。

     

県文 吉村家(旧上田家)

       

県文 山尾家

            

土蔵窓、木目、啓翁桜

     


Sep.24 2011 瀧山幸伸 source movie

称念寺付近

      

                          

豊田家

  

今西家付近

                     


May 2011 野崎順次

奈良県橿原市今井町

重要伝統的建造物群保存地区

Preservation District for Groups of Historic Buildings

撮影日: 2011年5月3日

歴史

今井町の成立は戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町を建設されたことに発する。一向宗の門徒が、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実地した。永禄十一年(1568)織田信長が、足利善昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長の旗を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え抵抗したが、天正三年(1575)、今井は、明智光秀を通じて信長に降伏し、事なきを得た。かくして、大坂や堺などとも交流が盛んになり、商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、大いに栄えた。また、堺と並び自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄を置き町政にあたらせた。

町並み

称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期の概略を考えると、東西600m、南北300m、周囲に環濠土居を築いた戸数1100軒、人口約4千数百人を擁する財力豊かな町であった。町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、九つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折されてある。これは敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中期は富裕な商人の生命、財産などを外部から守るというものに変貌した。現在も、今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、しかも慶安三年(1650)の今西家をはじめ、優れた民家が数多く建ち並び、今なお、町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史を感じさせている。

パンフレットと説明板

     

近鉄八木西口駅から蘇武橋を渡り、巨木エノキをみて、今井町に入る。

          

重文 高木家住宅

高木家は、屋号を「大東の四条屋」といい、酒造業を営んでいた。この建物は、切妻造本瓦茸平入2階建で、前面の格子は木割が細く、吹寄せのところもあり、幕末の家らしい質、保存が良く、幕末期の2階の発達した今井町上層民家の好例である。

                   

中尊坊通りを進む

  

重文 河合家住宅

河合家は、屋号を「上品寺屋」といい、家蔵文書によると、明和9年(1772)には、すでに酒造業を営んでいたらしい。建物は太い格子を入れ、2階は塗籠となっている。屋根の東側は入母屋造、西側は切妻造本瓦茸で、外部意匠にみるべきものがあり、また、内部においても、座敷を2階に配した点に特色がある。

                    

中尊坊通りから御堂筋へ

                 

重文 中橋家住宅

屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいた。建築年は分からないものの、1748年(寛延元年)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。1761年(宝暦11年)には南町組頭を務めていた。

         

称念寺

浄土真宗本願寺派の寺院である。先祖は、近江国犬上郡河瀬城主の一族で、浅井長政の家臣であった河瀬権八郎(河瀬兵部丞)が得度し、寺号を得て御坊(今井山)を開いた。今井町は称念寺を中心に発展した寺内町であったが、織田信長に武装解除されてから以後は、自由商業都市として栄えた。1877年(明治10年)2月10日〜11日明治天皇の「大和行幸」の際の今井行在所(あんざいしょ)であった。このとき陛下は、西南の役勃発の第一報をお聞きになっている。太鼓楼は1845年(弘化2年)の再建で橿原市指定文化財に指定されている。

            

重文 称念寺本堂

近世初頭に再建されたものであるが、浄土真宗では本山の本願寺以外で初めて2002年(平成14年)5月23日に国の重要文化財に指定された。

         

また、対面所は元禄8年(1695年)の棟札があり、庫裏・客殿は17世紀初期頃の建設で、いずれも橿原市指定の文化財に指定されている。

          

重文 豊田家住宅

屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商で金融業を営む牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。福井藩藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていたほどの豪商であった。しかし、明治維新後の廃藩置県により貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。住宅は1662年(寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。

            

御堂筋を西へ

        

重文 今西家住宅

旧姓は川合氏で代々惣年寄筆頭を務めた。1621年(元和7年)5月、郡山城主松平下総守忠明から大坂夏の陣の功績を称えられ、今井町の西口にあることから今西姓を名乗るように薦められた。幕府から自治権を委ねられて領主・代官の町方支配の一翼を担っていた。内部には、お白洲があり裁判が行われ、罪人を閉じこめた部屋(いぶし牢)も残っている。民家というより城郭を思わせる構造で、「八つ棟造り」と呼ばれる。1650年(慶安3年)に建て直し棟札も残っている。

                                    

本町筋を東へ

                            

重文 音村家住宅

屋号を「細九」といい、かつては金物問屋を営んでいた。17世紀後半頃の建築と推定される。

              

重文 旧米谷家住宅

屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定される。また、1849年(嘉永2年)には、内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。

              

今井町並保存整備事務所など

     

西光寺から大工町筋

                  

重文 上田家住宅

屋号を「壺屋」といい、1639年(寛永16年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄を務めていた。1744年(延享元年)の祈祷札がありこの頃の建築とみられる。入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与え、入口が西に構えているのは珍しい。

          

大工町筋を西に進み、北に曲がる

    

順明寺。表門は市指定文化財。

浄土真宗本願寺派の寺院で、1626年(寛永3年)第10世多田了恵が新賀庄より今井へ移ったとされ、「北の御堂」と呼ばれている。また庫裡西方には「上段の間」を付設した座敷も増設されており、1891年(明治24年)11月に英照皇太后が畝傍御陵参拝の際に宿泊され御座所になっている。

           

県文 吉村家住宅

主屋とその後方に隠居部屋、内蔵、倉庫、作業場などがある。主屋は東側に土間、西側に五室の居室部となっている、六間取りに角座敷がついた平面形を変則的な間取りの五室に分割して利用している。2階は四室を取り、部屋鏡は襖で仕切っている。主屋は文化2年(1805)に低い2階建てに再建されている。しかしながら他の建物は発見墨書より約50年さかのぼるとみられる。

       

県文 山尾家住宅

山尾家は、十市郡新堂村より移住したので「新堂屋」の屋号で、両替商を営んでいた。「今井しんどやは大金持ちや 金の虫干し玄関までも」と言われるほど栄え、幕末には、町年寄を務めた。1877年(明治10年)明治天皇大和行幸の際、木戸孝允・三條実美の宿泊所にあてられた。

                              

引用資料

今井町パンフレット

ウィキペディア「今井町」


May 2004 瀧山幸伸

 

元資料:国土地理院

    

奈良の南、橿原市にある今井は、周囲を堀で囲まれ、時の為政者から離れて自治自衛が行われていた、寺内町と呼ばれる都市だった。

東西600m、南北310m、760軒ほどの集落は、その6割が江戸時代の建築で、9軒が重要文化財に指定されている。

寺を中心とした当時の街並は非常に良く保存されており、奈良県で唯一、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

今井庄は、奈良興福寺の荘園であったが、天文年間(1532〜55)浄土真宗(一向宗)の道場が設けられた。

道場主の今井兵部は、寺を求心力とし、在郷の農民を門徒とし、各地から商人や浪人を集めて、周囲に環濠を廻らす環濠集落としての寺内町を作り、これが今井の発展の基盤となった。

環濠集落とは、周囲に濠を巡らせた村落のことで、大和盆地では今井の他、番条、稗田など現在でも多く見られる。

環濠の起源は明らかではなく、防御の目的とする説、灌漑・排水施設として既にあったとする説などがある。

今井は天正3年(1575)本願寺を討った織田信長に陥落し、その後は経済活動が中心となる。

その後も自治の気風が強かったため、時の政権は、今井兵部を今井の支配者に任命し、事実上寺内町を存続させた。

今井氏は武士と僧侶を兼ねていたが、延宝7年(1679)武士の身分を返上させられ僧侶となり、武装解除された。

それに伴い代官が置かれ、天領となった。

当時1000軒以上を有する今井の規模は破格であった。

幕府も今井の規模と商業活動の特殊性を認め、一般村落とは違う支配体制を敷いた。

庄屋にあたる町代の上に町年寄を六町毎に設け、総括する役として惣年寄を置き、行政、警察、司法事務を行わせた。

町掟が定められ、残された環濠・土居・門により「商人親類の外は従来の旅人は一夜の宿を貸さず要塞堅固の地」と表現されるほど自治自衛を徹底させていた。

今井の商人は広く活動を認められ、この地方特産の綿の集散加工、醸造など、江戸時代を通して大いに繁栄した。

大名相手に金融を行う商人、江戸と直接交易する商人も現れ、今井札という一種の独自通貨を発行するなど、経済金融システムにおいても発展しており、特殊な位置づけであった。

当時の今井は、石高相当に対して10割の年貢を課せられた上に付加税を徴収され、それを銀で納めなければならなかった。

「大和の金は今井に七分」と言われるほどに繁栄した。

強い経済と各地との交流に裏打ちされ、多くの文化人がこの街に移り住んだ。

祭りはだんじり、文化活動として茶の湯、華道、能、和歌俳諧等が盛んだった。

秀吉が今井の茶室で接待されているほどだ。

格子と漆喰、虫籠窓など、建築様式が揃ったこの街を歩くと、中世にタイムスリップしたような錯覚を覚える。

ボランティアも親切だ。この街を守る住民の美意識に感動する。

訪問者はどうかというと、なぜか街並に似合うファッションを意識した人が多い。

今井を訪れることを誇りにしているのだろうか。

自らこのまちの主人公になり、それぞれの文化的興味に応じゆっくりと無料のテーマパークを楽しんでいるのだろう。

観光バスで足早に通り過ぎるにはもったいない。

最低でも一泊二日で街を楽しもう。

May 2004 No.1  source movie

May 2004 No.2  source movie

  

まちなみ交流センター

明治36年(1903)に教育博物館として建設された。

  

 

堀は改修され、澄んだ水をたたえる。

 

称念寺 (重文)

17世紀初期の建築。今井発展の中核となった寺。

  

称念寺付近の街並

電柱はかなり目障り。埋設すべきだ。

 

今井の街並には商業看板や幟や自動販売機はほとんど無い。

狭い街路を疾走する車も無い。

それがこの町を現代から隔離し、時空を超越した存在にしている理由の一つだ。

 

通路右側にある看板が例外的に目立つ。景観に配慮していただければありがたい。

もしこの街にコンビニがあったらどんなだろうか。

最近のコンビニは、国立公園内などの美観地区では看板のみ周囲に調和したデザインに変えているのだが、外装全体、照明なども周囲に調和したデザインにすべきだ。

 

今井町づくりセンター

称念寺前の長屋店舗。「町並み保存会」の活動拠点。

街あるきの休憩ポイントにもなっている。

店舗デザインと商品は街並に良く調和している。

  

 

床屋

経済活動と街並保全とは両立できる、良い見本。

ガスメーターや自転車が街並景観を大きく破壊する。

  

豊田家 (重文)

寛文2年(1662)の建築。

「西の木屋」と呼ばれた豪商で、欅の大黒柱、太い松を使った天井など見ごたえがある。

  

 

今西家 (重文)

慶安3年(1650)建築。今井の行政をとりしきっていた惣年寄の家柄。

複雑な入母屋の八ツ棟造りが印象的。

  

  

  

 

民家を利用した飲食店

日本人に生まれてよかった、というような、満足げな客が店を出て行く。

  

軒高、仕上げ材の質感が揃い、均整のとれた街並

道路舗装も考慮されている。

  

古い民家もそれなりに風情がある

  

路地の幅と家の高さ、そして通行人の大きさがぴったりと調和する。

  

この通りには電柱がなく、非常にすっきりした街並。

 

旧米谷家(重文)

18世紀中期の建築。

  

  

  

 

長屋風の家

 

進学塾の看板が街並に調和している。

地元の人が対象なので、この程度の宣伝で十分なのだろう。

 

河合家 (重文)

18世紀後期の建築。造り酒屋。惣年寄の家柄。

古くから有価証券としての酒商品券を発行していた。

 

  

  

  

奈良漬をつまみながらその場で試飲できる

  

駒つなぎ

 

河合家付近

 


事務局用

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