奈良県橿原市 菖蒲池古墳
(Shobuike Burial Mound, Kashihara City, Nara Pref.)
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June 7, 2015 野崎順次
橿原市菖蒲町
国史跡
墳丘は封土の流出および後世の改変が著しく、横穴式石室の天井が露出している。墳丘の改変は藤原宮期頃に始まることが発掘調査で確認されている。
横穴式石室は玄室入り口および羨道部を欠くが、現存規模は長さ約7.3m、幅2.6m、高さ2.6mを測り、花崗岩の大石をもちいている。壁石間は漆喰が充填されている。
玄室内には主軸に沿って家形石棺2基が置かれている。ともに凝灰岩の刳抜式で、若干の違いはあるがほぼ同じ形に仕上げられている。石棺の蓋は寄棟造の精巧な物で、頂部に棟飾り風の突起をもつ。棺身にも柱や梁の浮き彫りを施している。また棺内に漆が塗られている。
本古墳は石棺構造、漆の存在などが注目され、7世紀中頃の築造と思われる。また築造から一世紀もたたないうちに改変が行われていることは、菖蒲池古墳の被葬者を考える上で興味深い材料である。
ウィキペディア「菖蒲池古墳」より
菖蒲池古墳は、故岸俊男・京都大学名誉教授が唱えた”聖なるライン”、すなわち藤原京の朱雀大路の南延長線に位置している。このライン上に菖蒲池古墳をはじめ、天武・持統合葬陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵など五つの終末期古墳が並ぶ。しかも、この古墳は2つの石棺を納めた合葬墓である。そのため、市教委は「立派な古墳なのに、被葬者について人々の記憶が新しいうちに壊されている。強い力を持ちながら、後に不遇になった2人の墓の可能性がある」と推定している。
その点に関して、説明員は個人的にと断って、面白い人物の名を挙げた。「被葬者は蘇我倉山田石川麻呂と長男の蘇我興志(そがのこごし)ではないか」、というのだ。石川麻呂は645年の乙巳の変の立役者の一人であり、その後の大化改新の政府において右大臣に任命された。だが、大化3(649)年、異母弟日向の密告で,中大兄皇子暗殺計画の嫌疑をかけられ、造営中の山田寺で興志ら子弟と共に自害してはてた。
(「Panchoの新・飛鳥路巡り」ウェブサイトより)
同上より、古墳平面図と玄室イメージ図
現地説明板
菖蒲池古墳の現状
玄室内
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