奈良県橿原市 八木
(Yagi, Kashihara City, Nara)
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November 7 and 14, 2021 野崎順次 source
movie(Nov.7) source
movie(Nov.14)
奈良県橿原市八木町・北八木町
八木町の街並み
八木町は古くから奈良盆地を南北に結ぶ幹線道の中街道(下ッ道)と奈良盆地の南部を東西に走る伊勢街道(横大路)の交差する辺りを中心に発達した。この辺りを「札の辻」と呼ばれ、中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄し、江戸時代には高札場になっていた。
八木は伊勢街道の北側は十市郡、南側は高市郡に属する郡境にあたり、近世には北側の北八木ははじめ幕府領、元和5年(1619)から郡山藩領、延宝7年(1679)から幕府領、文政9年(1826)からは高取藩領であったが、南側の八木は最初から高取藩領であった。
しかし、所領が異なっても、市街として一つの集落として発展した。近世中期以降は伊勢参詣、西国三十三ヶ所巡礼、高野詣でといった人々の往来が増加し、街道筋の宿場町としても発展した。
横大路に沿って西側には高田・今井、東側に桜井といった町が存在したため、八木は中街道に沿った商圏を拡大させて、奈良盆地南部の中心地としての機能を蓄積していった。
(「古い町並み、近畿地方3」ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
近鉄八木西口駅から東へ
国登文 旧六十八銀行八木支店 昭和前/1928
鉄筋コンクリート造2階建、建築面積157㎡
近鉄橿原線八木西口駅近くに,国道に北面して建つ。両翼を薄く張り出したルネッサンス風の形態をとり,中央部の玄関とその上部の半円形窓の左右にイオニア式の円柱を配する。幾何学的な細部や玄関廻りタイルの芋目地貼等に新味が認められる。設計は舟橋俊一。
(文化遺産オンライン)
現在はレストラン「ジュール・フェリエン」として営業中。
JR畝傍駅
明治26年(1893)に神武天皇陵参拝のため誕生しました。現在の駅舎は昭和15年の紀元2600年祭式典に合わせて造られ、橿原神宮と同じ総白木造が特徴です。皇室の休憩用として重厚な雰囲気が漂う貴賓室(非公開)も設けられています。
(パンフレット)
少し東へ、
中街道との角に岸の竹酒造の店舗兼住宅
そのままさらに東へ
北に入ると、畝傍高校校門前の沿革概要碑と史料館
国登文 奈良県立畝高校本館北館(非公開) 昭和前/1933/1976・1990改修
鉄筋コンクリート造3階建、瓦葺、建築面積983㎡、塔屋付
校地の南側中央に位置し、校庭に北面して建つ。鉄筋コンクリート造三階建、東西94.7m南北10m、正面中央に宝形造本瓦葺の塔屋をつくり車寄を出す。陸屋根の四周は本瓦葺とする。近代的な建物の要所に和風意匠を取り入れた和洋折衷の校舎。
(文化遺産オンライン)
国登文 奈良県立畝高校本館南館(非公開) 昭和前/1933/1969・1973・1990改修
鉄筋コンクリート造3階建、建築面積755㎡、塔屋付
北館の南側に平行して建ち、渡廊下を介して北館と接続する。鉄筋コンクリート造三階建、東西75.1m南北10m、背面中央に切妻造本瓦葺の塔屋をのせる。陸屋根の四周は本瓦葺とする。北館とあわせて昭和初期の学校建築の姿を良好に伝える。
(文化遺産オンライン)
中街道まで戻って北へ、八木町の古建築が続く。
国登文 岡本家住宅店舗兼主屋(非公開) 明治/1906
木造2階建、瓦葺、建築面積279㎡、中庭北面・通路南面及び北西角土塀付
橿原市街中心部を縦貫する下ツ道に東面して建つ。表屋造とし、つし二階建の表屋と総二階建の母屋、二棟を繋ぐ玄関、土塀からなる。玄関・母屋には中廊下を通し、左右に居室を配する。良材で丁寧に仕上げ。一階の出格子と二階の漆喰塗で、街路景観を形成する。
(文化遺産オンライン)
福島家(非公開)など
高取藩の下屋敷として、参勤交代の起点となった家で御殿部屋が残っています。享保10年(1725)の棟札があります。
(パンフレット)
谷三山生家(非公開)
幼い頃に聴力を失いながら、私塾「興譲館」を開き多くの門下生を輩出した幕末の陽学者・谷三山の生家で、吉田松陰等、諸国の名士が来訪しました。
(パンフレット)
八木札の辻
日本書紀の推古天皇21(613)年に「難波より京(飛鳥)に至るまでに大道(おおじ)を置く」と記されている。大道は日本最古の官道で、現在の「竹内(たけのうち)街道」(堺市から葛城市)および「横大路」(葛城市から桜井市)であるとされ、今年は設置されて1400年目の年である。橿原市の「札の辻」(北八木町・八木町)は、東西路の「横大路」と7世紀中頃に整備されたとされる南北路の「下(しも)ツ道」(中街道)の交差点。日本最古の国道交差点といわれる。
八木町は古くからこの周辺を中心に発達した。中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄。江戸時代には高札場になっていたことから「札の辻」と呼ばれた。
(産経WEST 2013/11/17 なら再発見42)
横大路を200mほど東に行ったところにも古建築群がある。東から西へ見て行く。
八木札の辻交流館
18世紀後半-19世紀前半頃に建てられたと考えられているかつての旅館です。1階は接客と主人の居室、2階が宿泊施設として利用されていました。改修を行い、平成24年7月から現施設として一般公開しています。
(パンフレット)
パンフレット、現地説明板、外観
内部1階
内部2階
西の平田住宅(非公開)
近世には「きわらや」という屋号で、旅館としてにぎわっていました。二階への大階段もそのまま残っています。
(パンフレット)
中街道を北へ、芭蕉の句碑など
国登文 河合源七郎家主屋(非公開) 明治/1868-1911
木造平屋建、瓦葺、建築面積292㎡
旧下ツ道に西面して建つ。桁行7.9m梁間13m、木造つし2階建、切妻造桟瓦葺を中心に、水まわりや座敷などを付設する。正面は出桁で軒を深め、1階に出格子や格子戸をたて、2階は大壁で虫籠窓を穿つ。建ちが高く重厚な外観をもつ大型の町家である。
国登文 河合源七郎家貴賓口 明治/1868-1911
木造、瓦葺一部銅板葺、延長2.7m
主屋と内蔵の間にある来客用の出入口で、間口2.7m高さ3.2m、両下造一文字瓦葺である。正面外壁は漆喰塗で腰を竪板張とし、門口は、外側に潜戸付の格子戸、内側に板戸両開として、銅板葺の深い庇を付ける。格調ある屋敷景観を形成する。
国登文 河合源七郎家内蔵 明治/1868-1911
土蔵造2階建、瓦葺、建築面積22㎡
敷地の北西隅、主屋から通りに張り出して建ち、桁行5.6m梁間3.9m、土蔵造2階建、切妻造本瓦葺である。外壁は漆喰塗で、腰は南・北面を海鼠壁、西面を竪板張とする。主屋とともに、古代以来の主要道である下ツ道の歴史的な街路景観を形成している。
(文化遺産オンライン)
国登文 河合源七郎家境界塀 大正/1912-1925
木造、瓦葺、延長8.2m
主屋西面の南側に延びる塀で、敷地南西隅の裏鬼門に設けられた坪庭を囲っている。折曲り延長8.2m高さ3.5m、桟瓦葺である。上部を土壁とし、腰は竪板を高く張る。建ちの高い塀で、主屋とともに古道に面する屋敷地の格式ある景観の形成に寄与している。
(文化遺産オンライン)
国登文 河合家住宅主屋(非公開) 江戸/1751-1829/1830-1867・1997改修
木造平屋建、瓦葺、建築面積261㎡
敷地西側の下ツ道に面して建ち、桁行20m梁間12mの木造つし2階建、切妻造瓦葺。北寄りを通り土間とし、3列9室の居室部を設け、その南東隅に隠居所を附属。正面に木太い格子を構え、上屋の軒は低く、漆喰を塗り込める。重厚な外観をもつ大型の商家。
国登文 河合家住宅乾蔵 江戸/1751-1829/1868-1911増築
土蔵造二階建、瓦葺、建築面積42㎡
敷地の北西隅、主屋より前方に張り出して建つ。桁行11m梁間3.8m、土蔵造2階建、切妻造本瓦葺。外壁は白漆喰仕上げで、南・西面の腰を竪板張とし、南面に庇付の窓を穿つ。古代以来の古道である下ツ道の角地にあって、歴史的な街路景観を形成している。
(文化遺産オンライン)
国登文 河合家住宅長屋門 大正/1922
木造平屋建、瓦葺、建築面積72㎡
敷地北側の通りに面して建ち、桁行19m梁間3.7m、木造平屋建、切妻造本瓦葺で、東寄りの棟を低くする。桁行中央東寄りを間口4.0mの門口とし、中央間に両開板戸を吊り、左右に潜戸を開く。外壁は黒漆喰仕上げで、腰を海鼠壁とし、上部に窓を穿つ。
(文化遺産オンライン)
河合家住宅塀 大正/1922
木造、瓦葺、延長30m
敷地の東辺から北辺にかけて矩折れに延びる塀で、長屋門に接続し、折曲り延長30m、高さ2.5m、木造本瓦葺である。自然石の布石に木柱を建てて軸部を組み、外側はモルタル塗、内側は黒漆喰塗刷毛引仕上げとする。築地塀に似た外観で、街路景観を引き締める。
(文化遺産オンライン)
中街道に戻り、少し北へ進むと、近鉄大阪線に近づき、古建築は少なくなる。
Feb.24,2016 瀧山幸伸
八木町 町並
奈良県橿原市八木町
八木は、万葉集で知られる天香具山、畝傍山、耳成山の大和三山を結ぶ三角の中にある。
大和三山(ウイキペデイアより)
奈良盆地には古代から、東西に横断する横大路、南北に縦断する上ツ道・中ツ道・下ツ道という幹線道路が存在し、現在の八木の町中を通っていた。
歴史
古代の「八木」は,南北の下ツ道(後の中街道)と東西の横大路が交わる一帯に交通の要衝として生まれた。
中世の古文書によると「数百間の屋形」がたち「矢木市」と呼ばれていた。横大路の北川が十位置郡に、南側が高市郡属したため豪族支配の境界域となり、北川の十市氏と南側の越智氏が争いを起こすと、町家はその都度兵火で焼かれた。兵火の度に急速な
復旧を繰り返した町並も江戸時代になると争乱が途絶え、北川が郡山藩領に、南側が鷹取藩領になり、元禄時代に北側が幕府直轄の天領となった後、安定した発展をみせた。
近世・江戸時代になると、横大路を含む、河内から伊勢に通じる道は、初瀬(はつせ)街道または伊勢街道と呼ばれた。また下ツ道は中街道と呼ばれ、北は奈良をこえて山城まで達し、南は吉野・紀伊方面に通じている。
この二つの街道の交差点が「八木札(ふだ)の辻」である。
「八木札の辻」界隈は、伊勢参りや大峰山への参詣巡礼など大勢の人々が全国からおとずれ、街道町として栄えると同時に、奈良 盆地南部の拠点として注目を浴びた。
江戸時代の八木は商工業者や旅篭屋が多く居住して活動した町であった。例えば文政2年(1819)の記録によると旅篭屋4
茶屋4軒、酒造2、醤油味噌2、青物類5、豆腐こんにゃく2、菓子類2、綿打職4、絹類売人3、紺屋1、荒物売人3
小間物売人2、とある。
天保13年(1842)北八木では旅篭屋5、酒造1、醤油屋2、請売酒屋1、絞り油屋2、米屋商売5、魚類3等とさまざまな職業の人々が居住していた。
今、町並みは近鉄大和八木駅の東側、国道24号線の東側に南北にある旧中街道に沿って残っている。
北から北八木町・八木町・南八木町と続き、主だった町並みは北八木町の近鉄大阪線の踏み切りから、南はJR桜井線の畝傍駅近くのJRの踏切(八木町と南八木町の境)までである。
八木町の探索に移る。
現代の八木町の地図 昔の街道筋には今もその面影が随所にみられる。
JR桜井線畝傍駅
明治期には畝傍御陵や橿原神宮への最寄駅で、皇室の参拝のため貴賓室が設けられた。 現在の駅舎は昭和15年のもので橿原神宮と同じ台湾檜をつかった総白木造りが特徴である。
今上天皇のご成婚報告(昭和34年)に使用されて以来、皇室の使用はなくなり、旧国鉄の衰退もあって、無人となった駅舎は昔日の繁栄の面影を残すのみである。
駅舎。右側に貴賓室がある。
駅前を国道165号線が東西に走る。東北に折れて進む。その道筋には春日神社が鎮座する。「無念の伐採」で杜がなくなった。
愛宕祭
町内周辺38ヶ所に各々の愛宕神社祠を祀り、町内あげて立山(造り山)をつくり出来栄えを競い合う。立山(造り山)見物もこのお祭りの醍醐味のひとつとされる。
八木愛宕神社は春日神社の境内にある。38個所の祠の中うち、東町の祠は最も古く「寛保二戌壬年七月七日」(1742年)の
年号を記した掛図が御神体となっており、今より260年前となりその古さを物語っている。
さらに進むとすぐに信号機のある交差点に出くわす。周囲には古民家が立ち並ぶ。
南八木町一帯
交差点を右に進む。(下ツ道を南に進むことになる) JRの踏切を越え、さほど幅広くない道路の両側に古民家が延々と並び立つ。
昔の街道筋を思わせる街並である。町家の外構えは、改造こそされているが、名残は残る。途中で引き返す。
八木町〜北八木町
再度踏切を過ぎ、信号機のある四つ角まで引き返す。
交差点での発見 国道筋に祠が鎮守されている。やはり伊勢街道沿線のためであろう「お伊勢さま」が祀ってある。
下ツ道(中街道)を北へ向かって歩き出すと、道の両側にそれらしい町家が並び立つ。
札の辻に着く。
嘉永6年(1853)に描かれた「西国三十三名所図絵」の「八木札街」界隈
伊勢街道(横大路)
下ツ道(中街道)
東西の平田家
八木札の辻を挟んで東側と西側に平田家がある。
江戸時代に栄えた街道筋に残る「旅籠」の遺構である。現在と変らず南側が入母屋造で2階の街道筋には手摺が残っていることから
江戸時代の地誌である「西国三十三名所絵図」に描かれている旅籠は平田家であることが窺える。
東の平田家は橿原市の指定文化財となり、整備工事を経て、平成24年7月より「八木市の辻交流館」という名称で一般公開されている。
東の平田家(八木市の辻交流館)の詳細は『八木町の文化財』参照
西の平田家細部
その先へも古民家は続く。国有形登録文化財の両河合家も含まれる。
まとめ
町並みを構成する商家の建物は、隣の今井町の建物と全く同様な建物であるが、こちらの方は今井町と違って保存地区の保護が無いためか、屋根瓦の本瓦葺きの民家は少なかった。
切り妻造り平入り、本瓦または桟瓦葺きの中2階建て、中2階の壁面は漆喰塗り込めの虫籠窓、大屋根には煙だし、格子出格子、袖壁をつけた家屋も見かけられた。
今井町が重要伝統的建造物群保存地区に指定されているが、同じような建物で、同じように建っているこの八木が何ら保存の対象となっていないように見受けられる。
今井町の町並みは保存が進み、開発から遠のいたので、無住の建物も多いが、八木町は現役の家屋で、見た限りでは無住の家屋は無かった様に思う。
それだけに保存するなら今のうちに手を打たなくてはならない。
古代から近世・近代までの伊勢神宮への「おかげ参り」をはじめとする交通・商業の要衝として賑わった界隈です。
≪参考資料≫ 八木まちづくりネットワークHP、橿原市HP、奈良県の歴史散歩下など
八木町の文化財
八木札の辻交流館
橿原市北八木町2丁目1番1号
橿原市指定文化財
八木の交差点に建っていた東の平田家は、古文書・構造手法から18世紀後半から19世紀前半頃までに建てられていたとされる。
江戸時代には「八木・木原屋、嘉右衛門」という屋号の旅籠で、大阪から八木を通り、伊勢に至るまでの宿泊所を示した「大阪浪速講
伊勢道中記御定宿附(おさだめやど)」という冊子の中で、「浪速講」に属する正規の宿として紹介されている。旅籠を営んでいた当時は
1階が接客および主人の居室部分として、2階が宿泊施設として利用されていた。
18世紀後半〜19世紀前半の建築
構造
主屋:木造2階建、桁行14.55m、梁間9.63m
南側入母屋造、北側切妻造、西側本瓦葺、東側桟瓦葺
角屋:木造2階建、桁行6.00m、梁間9.64m、主屋東南部に接続
東側切妻造、南側本瓦葺、北側桟瓦葺、東、西、南、北側庇桟瓦葺
外観
1階内部
2階内部
二階の各室の欄間には、伊勢の風景が彫ってある。 (伊勢神宮 二見浦、他)
河合源七郎家住宅
橿原市北八木町
国登録有形文化財
19世紀後半の建築
構造
(主屋)桁行7.90m、梁間12.84m、二階建、切妻造(北面入母屋造)、西・東側庇付、桟瓦
河合源七郎家住宅は、この「札の辻(ふだのつじ)」の北側にあり、同じく登録文化財である、河合鋭治家住宅の南側に位置している。
隣りに建つ芭蕉の句碑
現在の所有者である3代目河合源七郎の祖父、初代源七郎によって、明治20年代後半に町家として主屋を建築、さらに大正時代に主屋の東側に離れ座敷や茶室が増築された。
建物群は「下ッ道」に内蔵(うちぐら)・主屋が西面し、内蔵の南側に貴賓口(きひんぐち)、主屋の南側に高い境界塀が道路に面して配置されている。
主屋は東側に奥深く続き、その背面、庭を挟んで、離れ座敷と茶室が配されている。茶室の南側には外蔵(そとぐら)が配されている。
旧街道に面して、蔵の妻面、「貴賓口」をはさんで重厚な「出桁(でげた)造」・漆喰塗込(しっくいぬりごめ)の主屋、高い境界塀とその変化のある外観は、町の景観構成に深く寄与しており、北隣の河合鋭治家住宅と並ぶ姿は八木の町の歴史的景観を形成する
重要な要素となっている。
河合鋭治家住宅
橿原市北八木町
国登録有形文化財
19世紀中期(平成9年改修)
構造
(母屋)桁行17.49m、梁間11.80m、つし二階、段違い切妻造、正面本瓦葺、大屋根・背面庇桟 瓦葺
八木河合鋭治家は、この「札の辻」の北側にあり、同じく登録文化財である河合源七郎家住宅の北側に位置している。
1843年(天保13)8代河合庄九郎の頃には絞り油屋を営んでおり、その頃に使っていた油壺が発掘されていることから
この建物はすでに建っていたと思われる。その後、江戸末期の1859年(安政6)九代庄九郎のときに庄屋になり、両替商を
営んでいた。
河合家の建物群のうち、主屋と乾蔵(いぬいぐら)が「下ッ道」に面している。乾蔵は主屋の北側に配置され、「下ッ道」に突出
しており、この界隈の景観を印象付ける大きなアクセントとなっています。
主屋裏手南側には後補の隠居所、渡り廊下を介して内蔵が付属し、主屋の裏側、東側に広がる敷地内には離れ座敷と茶室
が建っている。さらに離れ座敷と茶室の北側には長屋門(ながやもん)が北側の道路に面して建っている。正面に木太い格子を
構え、段違いの軒でおおらかな大屋根が重厚な外観を印象付ける大規模民家であり、南隣の河合源七郎家住宅と並ぶ姿は
八木の町の歴史的景観を形成する重要な要素となっている。
奈良県立畝傍高等学校
橿原市八木町三丁目
国登録有形文化財
昭和8年(1933)建築 鉄筋コンクリート造3階建 岩崎平太郎の設計
北館と南館を渡廊下でつなぐ校舎で、奈良県技師の設計で建てられた。近代的な建物の要所に和風意匠を取り入れて、昭和初期の学校建築の姿を良好に伝えている。
正面真上の屋上には、仏光寺院の意匠を裳下方形の屋根が冠されている。和洋折衷様式のさいようであろうか。
屋根下の窓にも透かし彫りの装飾が入れてある。装飾窓の壁に見られる白い跡は、戦時中の機関銃掃射を受けた跡を埋め戻したもの。
旧六十八銀行八木支店
橿原市八木町
国登録文化財
昭和3年(1928)建築
構造:鉄筋コンクリート2階建、建築面積157平方メートル
この建物は、国道165号線沿い面して建っている。銀行として建てられ、その後一時的に映画館となったあと、再び銀行として使われていた。現在はウェディングレストランとして活用されている。
外観は建物両翼が張り出し、中央出口上部にアーチ型窓が設けられ、その両側は円柱で飾られており、ルネサンス風の意匠となっている。
設計者の舟橋俊一は1924年(大正13)奈良県最初の鉄筋コンクリート造の郡山小学校を完成させ、関東大震災後の鉄筋
コンクリート建築の流行の奈良においてリードしていた人物。
太神宮灯籠
橿原市八木町1丁目
今の場所から東へ200mの「接待場(センタイバ)」と伝承される場所に有った石灯籠。
高さ2.28mで、明和8年(1771)の銘が有る。本来の方位から45度傾いているとされる。
現在、横大路に面した住宅の間に接待場跡が残っている。以前はこの接待場跡におかげ灯籠と金比羅灯籠の二基の
常夜灯が有った。
(おかげ灯籠は、伊勢神宮までの道先案内として街道筋に設置された太神宮灯籠のことです)
この灯籠が立てられた明和8年(1771)は、おかげ参りが大流行した年で、その数は200万人にも達したとされる。
おかげ参り
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