奈良県奈良市 秋篠寺
Akishinodera,Nara city,Nara
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奈良市秋篠町757 秋篠寺本堂 国宝 近世以前/寺院 鎌倉前期 鎌倉前期 桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺 18981228 19531114
April 23 and 29, 2023 野崎順次 source movie
奈良県奈良市秋篠町757
4月23日、久しぶりに秋篠寺に来た。快晴で苔庭の木漏れ日やすっきりした本堂に心が和む。伎芸天を拝観すると、昔の恋人に再会したようだ。
東門
参道は香水閣沿いに左に折れ、忠魂碑、十三社を過ぎて、南門が見通せる。
金堂跡の苔庭
西塔跡手前の苔庭
庫裡前の苔庭
それから
国宝 本堂
鎌倉時代の建立で、講堂の跡地に建てられた。当時の和様仏堂の代表作の1つである。桁行(正面)5間、梁間(側面)4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓とする。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。和様建築では柱上部の頭貫(かしらぬき)以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押(うちのりなげし)の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁(つなぎこうりょう)も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われている。なお、建物内部の柱にも風蝕痕が残ることなどから、建立当初は建物前面の左右5間・奥行1間分を、壁や建具を入れない吹き放しとしていたと推定される。
(ウィキペディア「秋篠寺」)
本堂前
大元堂と開山堂
石碑と石仏
鐘楼
かみなり石
その他
一週間後の4月29日、曇りのち雨の予報、東塔跡の礎石が見たいのと、雨が降れば苔庭が映えるだろうと再訪した。
東門左手の細い路をたどる。
南門(正門)
東塔跡
南門をくぐると参道の両側に木々や竹林が織りなす緑陰が広がり、参道東側に東塔跡があります。奈良時代後期創建の同寺は、1135(保延元)年の兵火で現本堂の講堂を残して金堂、東西両塔、南大門などが灰じんに帰したと伝わります。
塔跡では東塔跡のみ礎石が残ります。礎石は最大幅約1.5メートルの心礎(しんそ)1基と小ぶりの礎石7基。8基とも直径60~90センチの円形の中央に直径約20センチ、高さ5~8センチの枘(ほぞ)の出っ張りが見られる出枘(でほぞ)礎石です。奈良時代後期以降の塔の礎石様式の一つとされます。枘が礎石に乗る柱の底部に掘られたくぼみと連結されることで、耐震性向上を図るものです。
(やまと百寺参りウェブサイト)
西塔跡あたり
金堂跡の苔庭
庫裡前の苔庭
東門へ
八所御霊神社
秋篠寺の鎮守紳で、社伝によると本殿は宝亀十一年(780)創建、保延元年(1135)類焼、同年再建したというが、現社殿は室町時代の増築。
当所は御霊神社と称したが、貞観年中(859-77)八所御霊神社と改称したという。明治二十四年の『神社明細帳』には、祭神を崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人・橘逸勢・文屋宮田麻呂・藤原広嗣・吉備大臣・火雷紳。と記されている。本殿瑞垣内の二小祠は『宰相宮』と『野ノ神・荘厳紳』である
(奈良県の神社ウェブサイト)
県文 本殿 室町時代
三間社流造、桧皮葺
October 16,2021 大野木康夫 source movie
2012.6.24撮影 source movie
新緑の境内
本堂
A camera
B camera
所在地 奈良県奈良市秋篠町757
雪が積もっていました。
Mar.2010 撮影:高橋久美子
Jan.2010 撮影/文 中山辰夫
奈良市秋篠町757
単立宗教法人
大和西大寺から「歴史の道」をたどれば、約20分で秋篠寺に到着できる。
静かだったこの里も競輪場、住宅地、マンション群、奈良少年院などに取り囲まれてあわただしい現代の渦中に引き込まれて行く運命にある。・・・
道案内標示を頼りに、まだ少しのどかさが残る田園地帯の中を進むと前方に木々が見えてくる。秋篠寺の森だ。
木立に導かれて南門より入る。
この寺の住職のお話として「寺めぐりも一年生のときは大仏さん、二年生は法隆寺、三年生で薬師寺や唐招提寺へ行く。秋篠寺へ来るのは、まぁ四、五年生じゃよ。ハッ、ハッ、ハッ・・」と何かに話されていた。
古くから多くの文人墨客が訪れた。静寂が包む世界で、素朴な本堂と対面し、伎芸天女との語らいを好んだようだ。
薄暗い木立の中を進むと急に青々と繁った苔の座敷となる。清清しい、静粛な世界が迎えてくれた。
秋篠寺は光仁天皇の勅願で、奈良時代の末期の宝亀7年(776)に創建された。
地元の豪族・秋篠氏の氏寺であったのを勅願寺にしたという説もある。
宗派は当初法相宗であったようだが、平安時代以降は真言宗に転じ、真言密教道場として栄えた。
明治以降初期には浄土宗に属したが、今は単立宗教法人として既成の宗派に派属していない。
創建当初の伽藍は、平安時代末期に兵火に見舞われ、講堂ほか、金堂・東西両塔など主要な堂塔の大部分を失った。
鎌倉時代以降に復興、造営を行ったが明治の廃仏毀釈により寺域の大半を失った。
国宝の本堂は、奈良時代の唯一残る建造物で、元々講堂であったものを、鎌倉時代に改修して本堂にした。
その他、大元堂、開山堂、鐘楼が並び建ち、長い歴史をもつ香水閣もある。
国重要文化財の仏像を多く有している。「脱活乾漆像」の尊像が多く安置されている。
金と同価格とされた「うるし」を使った尊像が多いことがからも官寺並の大寺院であった証といえる。
礼宮が「秋篠宮」の宮号を賜ったこともあって、以前に大いに賑わったこともあったが最近は静寂さを取り戻しつつあるようだ。
苔に隠れる堂塔の礎石
この寺の一つの魅力は苔の園である。南入口の両側にある広がり。右側は金堂跡といわれる。だが苔がすべてを包み隠している。
堂塔の礎石らしさは、美しく光る苔の敷物に所々見られる凹凸で感じるのみである。
「入るな」という無粋な立て札は見あたらない。誰も踏み込むことなど思いもしない。
大元堂
本尊は秘仏、木造大元師明王立像(国重文:鎌倉時代)。
宮中で修められる大法大元師御修法の本尊として重んじられ、国内唯一の像(年一回、6月6日のみ結縁開扉される)
秘仏の大元帥明王は激しい怒りの形相をしている。「勝負の神」であり、「元帥」という肩書きの由来と言われている。髪の毛が逆たっている。」
本堂
国宝:建造物
一重、寄棟造、奈良時代の唯一残る建造物
奈良時代の建築様式を残し、単純素朴さの中に、均整と落ち着きを見せる建築物。安定感のある優美な建物である。
屋根は天平時代の軽快な優しい勾配となっている。大棟の両端は「鬼瓦」でなく「鳥休み(とりやすみ)」だけを飾る。
本堂内には、本尊・木造薬師如来坐像(国重文:室町時代)と脇侍として一木造の木造日光・月光菩薩立像(国重文:平安時代)が安置されている。
堂内は薄暗い。暫くすると慣れてくる。尊像がズラリと並ぶ。左端が木造伝技芸天立像(ぎげいてんりゅうぞう)である。
秋篠寺の代名詞とされる木造伝技芸天立像(国重文:頭部は乾漆造・天平時代、体部は鎌倉時代)はわが国では唯一の存在という貴重な尊像である。名前から芸事関係者の上達祈願で多くの信仰を集めている。
伏目がちに頭をかしげ、口元に笑みをたたえた姿が美しい。梵天と1対をなして仏法の守護神として崇められる。納得するまで向かい合う。
その他、木造帝釈天立像(国重文:頭部は乾漆造・天平時代)、木造地蔵菩薩立像(国重文:平安中期)、木造愛染明王坐像・木造不動明王立像・木造十二神像(いずれも鎌倉時代)がまつられている。
技芸天立像(ぎげいてんりゅうぞう)−絵葉書−
秋篠寺で一番有名なのが、この仏像。本堂に一列に並んでいる仏像の中で、左側に少し離れて居てる。ここは仏像をすぐ近くで見ることが出来る。
手を伸ばせば触れることができる距離まで近づけるというのがうれしい。
「豊満、贅肉なし、美貌だが媚びることなし」見飽きることのない、お姿とお顔である。
秋篠宮妃殿下の紀子さまに似てるとも言われているが..。
秋篠寺といえば伎芸天で、美しい魅力尽きない伎芸天像に憧れてわざわざ大和まで来られる女性が引きも切れないことは異例です。
特にキャリアーウーマンには絶大な人気を誇っております。
鐘楼
開山堂
香水閣(こうずいかく)
井戸から大元師明王があらわれ、そこから湧き出る香水が、明治4年(1871)まで例年1月7日の御修法に際し、献泉の儀をつとめたという歴史をもつ。
日頃は門が閉じられている。毎年6月6日には公開されるとのこと。
「香水閣」の入口には二本の石柱建っている。小さなお堂の中に井戸がり、両開きの扉には菊の御紋章が通いている。
陶土
この付近は古代から優れた陶土と良水に恵まれた土地で、秋篠氏は有力な土陶師(はじべし)として栄えていたと伝わる。
いまは近くで、陶芸家が秋篠窯を開いておられる。
寺宝
境内の堂内に安置されている以外の仏像は以下の通り《外部施設に寄託中》
木造十一面観音立像(国重文:平安時代)
木造伝救脱菩薩立像(国重文:
木造梵天立像(国重文:頭部は乾漆造)
木造地蔵菩薩立像(国重文:平安時代)
参考資料《パンフレット、奈良県の歴史散歩、百寺巡礼、他より》
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