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奈良県奈良市 大安寺

Daianji Temple, Nara City, Nara

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December 18, 2016 野崎順次 source movie

奈良県奈良市大安寺、東九条町

大安寺旧境内と現在の大安寺を訪問した。

国史跡 大安寺旧境内 附石橋瓦窯跡

大安寺の始まりは、聖徳太子が大和川右岸に建てた精舎にさかのぼり、それを舒明(じょめい)天皇が百済(くだら)川の畔に移した百済大寺、天武天皇が天香久(あまのかぐ)山の南に移した高市大寺(大官大寺と改称)を経て、平城京遷都後に平城京に移建され、745年(天平17)に大安寺と改称された。平城京における南都七大寺の一つであり、東大寺に対して南の大寺と呼ばれ、東西の七重塔が金堂から離れて南大門の南方に建つ大安寺式と称される伽藍(がらん)配置をもっていた。寺地の四至がよく旧態をとどめて、東西両塔の基壇部もよく残っていることから、1921年(大正10)に国の史跡に指定された。現在の大安寺境内は旧境内のごく一部、南大門、中門と南面回廊下あたりを占めるにすぎず、本堂も近代のものだが、木造千手観音立像、木造聖観音立像など9体の重要文化財の仏像を有している。京都府綴喜(つづき)郡井手町井出にある石橋瓦窯跡は、大安寺の創建瓦を焼成した瓦窯で文献に記録される「棚倉瓦屋(たなくらかわらや)」と推定された。奈良時代の瓦生産体制を示し、文献資料の記載を裏付けるものとして重要とされ、2006年(平成18)に石橋瓦窯跡が附として追加指定された。

(コトバンクより)

聖徳太子の建てた「熊凝精舎」が官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称したときの伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。

平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末-近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。

(ウィキペディア「大安寺」より)

アプローチ

大安寺バス停から西へ歩き、案内の通り、南に折れて、現在の大安寺の方へ歩く。撮影は史跡指定地の南端、東西塔跡から始める。

            

パンフレット

    

国史跡 大安寺塔跡

東塔の基壇は一辺約21m・高さ約1.8mの正方形(西塔と同規模)。復元前は土壇のみ残っていました。礎石は全て持ち去られていました。

(奈良の名所・古跡ウェブサイトより)

           

西塔跡

版築で構築された基壇は1辺約21m(70尺)、高さは推定1.8m(6尺)である。外装は、凝灰岩切石の延石、地覆石、羽目石が出土して、最上級の壇上積みであることがわかる。東西南北に階段が付き、階段幅は4.9〜5.1mでそれぞれ約1.5m張り出す。遺存する心礎は元の位置を動いていない。その周囲に4×4列の礎石抜き取り跡があり、根石が散在する。塔の初層は3間四方であり、柱間距離は中央が14尺、両脇が13尺の合計40尺、約12mとなる。これを他の塔と比較すると、現存木造塔では一番高い東寺五重塔が9.47m(高さ54.8m)、2番目の興福寺が8.84m(高さ50.8m)で、大安寺が上回る。焼失した東大寺七重東塔は16.36m、高さは96mあったと言われる。塔の平面規模と高さが一応の比例関係にあるとすると、大安寺西塔の高さは70m程度になり、七重であったという記録を裏付ける。百済大寺と大官大寺の塔は九重とされるが、大官大寺の発掘調査から初層15mと推定されており、スケールを追求した伝統が大安寺の塔にも引き継がれていることがわかる。

(奈良歴史漫歩 No. 46 「高さ70mもあった大安寺西塔」より)

                

北へ

     

大安寺、現地説明版、南大門跡、現在の南大門

           

中門跡付近

             

本堂

             

いのちの小径

                    

小子坊、嘶堂、護摩堂

    

御竹地蔵尊、大安寺歴代先師の供養塔、稚児大師像

     

その他境内

         

大安寺経楼跡

       

大安寺北面中房跡

凝灰岩で基壇と礎石の復元がされています。天平19年(749)頃の大安寺の記録によると、当時887人もの僧がいたようです。その僧たちが起居した僧房(僧坊)跡です。大安寺の僧房は金堂・講堂を囲うように東・西・北の三面に二重に建てられていました。(内側の僧房は太房、外側の僧房は中房と呼ばれます)。大安寺は平安時代に幾度か火災にあい、再建されたことが記録に残っています。北面中房は平安時代末期以降、再建されることはなかったようです。

(奈良の名所・古跡ウェブサイトより)

                 

国史跡 杉山古墳・杉山瓦窯跡群

杉山古墳は、5世紀後半(古墳時代中期)に造られた前方後円墳で、奈良時代には大安寺の境内に取り込まれていました。平城京造営の際に取り壊されなかった数少ない古墳で、当時の大安寺の記録である『資財帳』には、「池并岳」と表現されています。古墳は、前方部を南に向け、くびれ部には造り出しと呼ぶ方形の区画があります。平成5年度の調査で、墳丘長約154m、後円部の直径約80mで、周囲に濠が廻っていることがわかりました。周濠を含めた全長は200m を超えます。昭和30年の調査の際に、後円部頂を発掘していますが、埋葬施設はわかっていません。保存整備は、奈良時代に「池并岳」であったとする記録にしたがい、墳丘には手をいれず、周濠を平面で、くびれ部を葺石で復原しました。

(奈良市ウェブサイトより)

                   

杉山瓦窯跡群は、平成5年度の杉山古墳の発掘調査の際に前方部の南斜面でみつかった6基の瓦窯です。燃焼室、焼成室、煙道からなる構造で、一度使用したとみられる瓦(あるいは?)を利用して、構築しています。出土した瓦などからみて、奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いたものとみられます。寺の造営の際にも、前方部から土砂や葺石が運び出されたとみられ、その跡地に瓦窯は築かれています。杉山古墳は大安寺の資材調達の場でもあったようです。保存整備は、瓦窯のある箇所の明示をし、構造の判明した2号窯は、ガイダンス施設で、復原模型を展示しています。

(奈良市ウェブサイトより)

               

大安寺共有墓地管理 融福寺

              


Mar.15,2016 瀧山幸伸 source movie

                

大安寺跡

              

大安寺八幡宮

 

 


Jan.2013 中山辰夫

奈良市大安寺2−18−1

宗派:真言宗

本尊:十一面観音立像(国重要文化財)

仏像九体:国重要文化財

境内:国史跡指定

薬師寺から歴史の道に従って歩く。

    

開基は聖徳太子と伝える。聖徳太子が平群に建立した、熊凝(くまごり)精舎が前身といわれる。

百済の百済大寺、飛鳥の大官大寺、さらに745(天平17)年の平城遷都の際に現在地に移って、大安寺と、移転のたびに改称を重ねてきた。

東大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・西大寺・法隆寺などと並ぶ南都七大寺の一つとして栄えた寺。

大安寺に飛鳥寺・川原寺を加えたのが飛鳥三大寺。日本書紀にも、天武天皇、持統天皇、文武天皇などが国家の仏事でこの三つの大寺を

重用したとの記事がみられる。

現在地へ移転した当時は、萬大門、中門、講堂、金堂を一直線に並べる大安寺式伽藍配置で、南大門の東西に七重塔並べるほどの隆昌

を誇っていた。

 

境内

境内は広いが、往古の形跡はうかがえない。

    

南門

    

興福寺旧一乗寺の門を移築、復元したもの。旧南大門の基盤の上に立つ。

    

本堂

本尊:十一面観音立像

              

少子坊(写経道場)

  

嘶堂(いななきどう)

本尊:馬頭観音立像

   

護摩堂

 

讃仰殿(宝物殿)

不空羂索観音、楊柳観音、聖観音、四天王像の諸仏等を保管 往古の伽藍が模型で展示されている。

  

奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。

南都七大寺のなかでも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。

しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。

現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。

奈良時代にさかのぼる遺品としては、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。

参考

   

大安寺式伽藍配置(借用)

 

現在はがん封じの寺として親しまれ、“大安寺様”と呼ばれる一木造の仏像群を安置している。

  

本尊の仏像群は国重要文化財

聖観音立像・馬頭観音像・楊柳観音像

 

四天王:増長天・広目天・多聞天・持国天

  

光仁会『癌封じ笹酒祭り』

古都奈良の新春の風物詩となる行事 笹娘がふるまう。

 

桓武天皇が文武百官を伴い、先帝光仁天皇の一周忌の齋会を大安寺で営まれたという『続日本紀』の故事により

毎年1月23日に光仁会が行われる。

この法会は風雅な青竹づくしの祭儀で光仁天皇ゆかりの、「笹酒」の接待が行われ、「がん封じの笹酒」として広く知られる。

光仁天皇は不遇な白壁王時代に、しばしば大安寺の竹林にて浄竹を伐り、酒を注いでお召しになり

中国の故事にいう「林間酒をあたためる」風流を催されて無病息災を保たれた。

天皇は、実に62歳という当時破格の高齢で帝位につかれ、73歳まで在位された。

この帝にあやかって悪病難病を封じ、健康に過ごそうと催されるのが笹酒祭りである。

この日はがん封じの御祈祷と、笹酒の薬効が相俟って、御利益あらたかであり、遠近からの参詣者で境内はあふれる。


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